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観察日記2

 朝、目覚めと共に支度を整える。マスターからの連絡はない。ついでに、ルルセラからの指示もない。

 

 これ幸いと、廊下に躍り出た。今なら、「部屋順を覚えるため」という言い訳を盾に館内をうろつくことができる。もちろん、許可されていない場所に立ち入ることはできないが――いや厳密にはできないこともないのだが、まだその時じゃない。とにかく、今は変に不信を抱かせるようなことはせず、状況を把握する段階だった。つまり、今すべきことは、館内の部屋構成や、動線の確認だった。

 

 昨日案内された道を辿りながら、頭の中でライラの口上を再生する。といっても、大した内容が聞けたわけでもない。ほとんど、場所と名前の紹介だけだった。殊、研究区域に関してはひどかった。「ここは、研究室です。ここも、研究室ですね」といった感じで、軽く流された。

 

 それとなく「この部屋は、他の部屋よりもルームプレートが少しおしゃれに見えますね」と話を振って反応を見たり、「ルルセラ様の姿が見えない時は、どの部屋から探しに行けば効率良さそうでしょうか?」と直接的な質問をしてみたりしたけれど、どれも振るわなかった。

 

 故意に誤魔化しているのか、本当に鷹揚とした性分なのか……。いずれにせよ、ライラはこの面においては役に立ちそうになかった。

 

 今は、自分の目で見て情報を得るほかない。何か痕跡はないかと、しげしげと観察しながら、廊下を進む。

 

 一通り見て回った後、足を止めた。何かが引っ掛かる。そんな気がしたのだ。

 取り立てて目立つものはなかったはずだが、一体何だろうか。

 頭の中にあるものを、順に並べて、考えてみる。

 

 ――この館は真に、ルルセラのために作られたものだ。アカデミーの卒業祝いとして、彼女の父親から贈られたものらしい。ルルセラは、この贈り物を大層気に入った。入り浸り、ついには住み着くようになるほどに。

 

 この一連の流れは、どうやら事実らしい。「大層気に入った」の真偽は本人以外知る由もないが、それらしい発言をした記録は残っている。その他の部分も裏付けが取れている。

 

 しかし、どうにも規格外な話過ぎて、これだけでは二人の関係がわからなかった。仲の良し悪しなどはどうでも良いが、どちらが手綱を握っているのかは、俺にとって重要なことだった。これは、有事の際にどちらに取り入るべきか、と言い換えることもできる。

 

 昨日は、それを見極めることを目標の一つに掲げ、屋敷に足を踏み入れた。直接ルルセラと言葉を交わし判断材料を得られれば、と思った。言うまでもなく、それは失敗に終わった。

 

 それからライラに付いて館内を見て周った。そこでも、多少なりとも親子関係が透けて見えるものがあるのでは、と期待していたが、あまりに露骨過ぎて逆にげんなりした。本当に、完璧な研究棟だったのだ。金を注ぎ込み、かといって贅を尽くしているわけでもない、施設。我が子の誕生日に笑顔で「参考書を買ってきてやったぞ」「家庭教師を手配してやったぞ」と言うタイプの親が想起された。

 

 その時は、それ以上のことは考えなかった。ライラが「そこにお嬢様が住み着いて、一部を居住空間にしたものです」と説明するのを聞き流していた。なるほど増築したんだな、と思い込んでいた。

 

 でも、今一度よくよく見てみると、そういうわけでもなさそうだった。どの壁も扉もシームレスに見える。増築特有のどこか噛み合わない感じが一切ない。

 

 もっと言えば、俺が割り当てられた部屋だって、かなり自然な部屋だった。たとえば、無理に電気や水を引いてきた感じが一切ない。

 

 要するに、最初から人が住むことを想定して建てられた館なのだ。

 

 別に、それ自体は不思議じゃない。そういう設計の研究室も珍しくない。しかし、初めから愛娘を住まわせるつもりだったのなら、こんな無機質な佇まいに仕上げるだろうか。

 

 なんだか妙な気分になった。モヤモヤとしたものを感じる。

 

 どうも、良くない兆候が出ている。事実から仮説を立てることは結構なことだが、そこに主観的意見を挟むなんてことは、あってはならない。そんなことは、馬鹿のすることだ。もちろん俺は、そんな馬鹿になるつもりはない。

 

 外に出れば、少しは頭がすっきりするだろうか。そういえば、昨日ライラが「一応、裏庭もありますよ。本当に狭いですが」と言っていた。

 

 どうせこれ以上館内でできることもない。裏庭を見に行くことに決めて、館の外に出た。ドアを出て、敷地内を半周するように、建物と外壁の間を進む。庭へ向かう道を歩いている、という感じは全くしない。道と言うよりはむしろ、ただの隙間と呼んだ方がふさわしいだろう。歩いていると、なんだか、設備の点検にきたような心地になってくる。

 

 しばらくして館の背面に差し掛かり、広場に出た。とはいえそれも、本当に狭くて裏庭を名乗るにはおこがましい、建築の都合上設けられただけの空白のようだった。

 

 灰白色の壁に囲まれ、おそらく常は非常に淡白であろうその場所は――今、金糸で彩られていた。上りかけの朝日に照らされて、キラキラと輝いている。

 

 そこにいること自体、想定外だった。その上、裸足で、座り込み、目を瞑ったまま空を仰ぎ――ただならぬ様子に驚愕し、目を見張った。

 

「ルルセラ様!」

 

 ほとんど何も考える前に、叫びながら駆け寄っていた。

 

 僅かな間に、最悪の事態がいくつか思い浮かんだ。

 

 幸いにして、その全ては現実にはならず、すぐにルルセラは目を開いた。まぶし気にアメシストの瞳を細め、俺の方に視線を向けた。

 

「ご気分が優れないのですか?」

 

 何はともあれ、それでも尋常でない状態であることは間違いなかった。割と本心で、心配していた。だというのに、ルルセラは、無情にもぷいと顔を逸らした。

 

「別に。日光浴をしていただけです」

「はあ……」

 

 なんだ、それは。

 

 意図が全く理解できず、思わずじろじろと見つめてしまった。それで心の内まで見透かせるはずもなかったが、顔色が悪くないことだけはわかった。どうやら本当に、体調に問題があるわけではないらしい。

 

 つまり、彼女はただ、裸足で、座り込んで、目を瞑っていただけ――要するに、たまに見る、天才の奇人の類のようだった。良く見れば、傍に開きっぱなしのノートとペンが転がっている。こういう奇行から人並み外れた魔法が生まれるのだろうか。

 

 ほとんど無意識にノートに目をやっていると、急に、バタン! と勢いよく閉じられてしまった。ルルセラはそれを手に、すっくと立ち上がった。

 

「私が家でこんなんだってこと、外では言いふらさないで下さいね!?」

 

 ルルセラが、下からキッと睨みつける。だが、残念なことに、まるで威圧を感じられなかった。靴の嵩増しがない分、小さく見えるせいだろうか。それともほんのり赤く染まった頬のせいだろうか。

 

 どうやら人並みの羞恥心はあるらしい、と思うと、少し微笑ましい気持ちになる。

 

 ルルセラは俺の返事を待つことなく、くるりと回れ右して、歩き出してしまった。

 

 一歩進むごとに、背の上で猫っ毛がふわふわと揺れる。それが建物の陰に消えて見えなくなった後、思い切り自分の頬をつねった。

 

 何を、微笑ましくなっているんだ、俺は。

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