骨になる日
人はいつ、自分が骨になることを意識するのだろう。
老いたときか。
病を得たときか。
それとも、誰かの死を見送ったときか。
私はある日、道の端に座り込んでいる自分を、少し離れた場所から見ているような感覚になった。息はしていた。心臓も動いていた。ただ、もう急ぐ理由がなかった。
肉は、十分に働いた。
若いころは、肉の声がうるさかった。欲しい、怖い、認められたい、失いたくない。骨はその下で、黙って耐えていたのだと思う。
今は逆だ。
肉は静かで、骨のほうがよく分かる。
立ち上がるとき、どこに重さをかけるべきか。
誰の言葉を受け取らずに、通り過ぎるか。
何をもう、守らなくていいのか。
判断は速くなった。
迷いは、減った。
それは賢くなったからじゃない。削れるものは削れきり、歪むところは歪みきったからだ。残っているのは、どうしても手放せなかった形だけだった。
私は人を見る。
若い骨、柔らかい骨、無理に太く見せている骨。
そして思う。
ああ、この人もいつか、骨になるのだと。
それは冷たい考えじゃない。むしろ、平等で、優しい考えだ。人は最後、みな同じ場所に立つ。肉も言葉も思想も脱ぎ捨てて、ただ骨として残る。
そのとき問われるのは、何を成したかじゃない。
どれだけ愛されたかでもない。
どう立っていたか、だ。
私は自分の骨が、太かったかどうかを知らない。歪んでいなかったとも言えない。削れた場所も、数え切れないほどある。
それでも、確かなことが一つある。
私は、自分の骨で立っていた。
誰かの骨を借りていない。
折れた骨を誇ってもいない。
ただ、最後まで、自分の重さを引き受けていた。
それでいいのだと思う。
人間は、生きているあいだ、歩く骨だ。
そして死んだとき、ようやく骨になる。
その日が来たら、私は静かに横たわるだろう。肉を離し、声を失い、それでもなお残るものとして。
もし誰かが、その骨を見つけたなら。
名前を知らなくてもいい。
物語を知らなくてもいい。
ただ、こう思ってくれれば十分だ。
――ここに、確かに、立っていた人間がいた。




