歪む骨
骨は、削れるだけじゃない。
曲がることもある。
それはたいてい、誰かのそばに立とうとしたときだ。
一人で立っている骨は、案外まっすぐだ。倒れやすくはあるが、無理な力はかからない。だが誰かを守ろうとすると、骨は自然と傾く。相手に合わせ、距離を測り、踏ん張る方向を変える。
その結果、歪む。
私は誰かを大切にしようとして、自分の骨を曲げたことがある。頼まれたわけじゃない。期待されたわけでもない。ただ、そうしたほうが正しい気がした。
正しさは、重い。
重さに耐えるために、骨は姿勢を変える。最初はわずかな違和感だった。だが次第に、立っているだけで力が要るようになった。休もうとしても、まっすぐ戻れない。
それでも人は言う。
「誰かのためなら仕方がない」と。
私はその言葉を信じた。信じた結果、歪んだ。
歪んだ骨は、折れにくい。衝撃を受け流すことができるからだ。だがその代わり、常にどこかが軋む。歩くたびに、小さな音が鳴る。
それを私は、成長だと思い込もうとした。
ある日、鏡の前で自分の立ち姿を見た。肩の高さが違っていた。顔は笑っていたが、足元が不安定だった。そこに立っているのは、私であって、私じゃないようにも見えた。
骨が、自分の形を忘れ始めていた。
人のために曲がった骨を、私は悪いとは思わない。歪みは、生きた証でもある。ただ、曲がったまま正しいふりをするのは、違うと思った。
骨は正直だ。
嘘をつくのは、いつも肉のほうだ。
その夜、私は一人で立った。誰にも寄りかからず、誰も支えず。ただ、歪んだままの骨で、静かに立った。まっすぐに戻そうとはしなかった。
もう、無理はしないと決めた。
歪んだ骨でも、立てる。
立てるなら、それでいい。
誰かのために曲がったなら、せめて自分が曲がっていることだけは、忘れないようにしようと思った。
骨は、元には戻らない。
だが、どの方向に立つかは、まだ選べる。




