生きる骨
私は、生きる骨である。
人は肉をまとって歩く。腹を満たし、喉を潤し、声を使って自分を説明する。笑えば親しみやすくなり、怒れば距離ができる。悩めば深みがあるように見える。生きている間、人はそうやって肉を増やしていく。
だが肉は、必ず落ちる。
年を取れば、まず顔から削げる。次に声が弱くなる。思想も丸くなり、言葉は少なくなる。それでも人は生きている。なぜかといえば、骨がまだ折れていないからだ。
骨は見えない。だが、姿勢には出る。立ち方、歩き方、黙り方に、その人の骨の太さは現れる。強い人間は声が大きいわけじゃない。折れない人間は、語らないことが多い。
私は多くの骨を見てきた。
正しいことを言い続けて、細くなった骨。
愛そうとして、歪んだ骨。
何も選ばなかったせいで、中が空洞になった骨。
そして、ひび割れてもなお立っている骨。
人は死ぬと、等しく骨になる。金も名も、思想さえも剥がれ落ちる。だが不思議なことに、同じ骨は一つもない。生き方が違えば、削れ方が違うからだ。
私は、自分の骨を感じたことがある。
それはある夜、何も守れなかったあとだった。言い訳も、正論も、もう役に立たなくなったとき、残っていたのは「それでも立つ」という感覚だけだった。理由はなかった。ただ、折れるよりは立っているほうがましだと思った。
そのとき、骨は確かにそこにあった。
人は、骨を作りながら生きている。
毎日の選択で、少しずつ削り、固め、形を変えていく。逃げた場所は薄くなり、踏みとどまった場所は太くなる。
だから私は思う。
人間は、歩く骨なのだと。
肉は滅びる。言葉も消える。だが骨は残る。
それが、その人が生きたという唯一の証だ。
私は今日も歩く。
静かに、自分の骨を鳴らしながら。




