第六話:腐敗した血管
アルビオン連隊の兵站部。 そこは、戦場の最前線よりも遥かに澱んだ空気が支配する場所だった。
天幕の中に一歩足を踏み入れたカエサルを最初に出迎えたのは、鼻をつく異臭だった。 古びた羊皮紙の埃っぽさと、インクの鉄臭さ。それに混じって、安酒の甘ったるい匂いと、脂ぎった体臭が漂っている。 血と泥の臭いではない。ここにあるのは、人間の欲望が腐敗して発酵した、独特の悪臭だ。
「……おい、元奴隷。突っ立ってないで中に入れ」
書類の山に埋もれた奥の席から、気だるげな声が飛んできた。 声の主は、兵站部を取り仕切る下級貴族、ガストン准尉だ。 小太りで、脂ぎった顔には無精髭が生えている。軍服のボタンは弾け飛びそうで、机の上には昼間からワインの空き瓶が転がっていた。
「本日から配属されました、カエサル・ヴァレリアンです」
カエサルが直立不動で敬礼するが、ガストンは鼻で笑っただけで、視線すら合わせようとしない。
「セドリック閣下の気まぐれで拾われたそうだが、勘違いするなよ。ここは神聖な軍務の場だ。泥遊びしか知らない奴隷に務まる場所じゃない」
周囲の事務官たちが、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべてカエサルを見る。 彼らは皆、コネで入隊した商家の次男坊や、剣の腕が立たずに前線から逃げ帰ってきた下級貴族の落ちこぼれだ。 彼らにとって、実力だけで這い上がってきたカエサルは、生理的な嫌悪と、隠しきれない嫉妬の対象でしかなかった。
「……承知いたしました。私の席はどこでしょうか」
「席? ああ、そこだ」
ガストンが顎でしゃくった先は、部屋の隅にある物置同然のスペースだった。 足の折れた机が傾いて置かれ、その上にはいつの時代のものか分からない書類が雪崩を起こしている。椅子はない。代わりに木箱が置いてあった。
「……ありがとうございます」
カエサルは表情を変えず、その粗末な「執務席」へと向かった。 背後から、「奴隷にはお似合いだ」「字なんて読めるのか?」という嘲笑が聞こえる。 カエサルは内心で冷ややかに彼らを観察していた。
(整理整頓が全くなっていない。書類の分類コードもバラバラ。……この部屋自体が、この国の『血管』が詰まっている証拠だ)
カエサルが木箱に腰を下ろそうとしたその時、ガストンが立ち上がり、ドスドスと歩み寄ってきた。 彼の手には、抱えきれないほどの分厚い帳簿の束があった。
「おい、新入り。手始めにこれを片付けてもらおうか」
ドサッ!! カエサルの机に、埃まみれの帳簿が叩きつけられる。衝撃で机が軋み、舞い上がった埃がカエサルの軍服を白く汚した。
「これは?」
「先月の『青晶石資源地帯』遠征における、糧食と矢弾の消費報告書だ。……数字が合わん」
ガストンは意地悪く口元を歪めた。
「明日までに全て照合し、誤差の原因を突き止めろ。原因が分かるまで、飯抜きだ。もちろん、眠ることも許さん」
周囲の事務官たちが吹き出した。 それは明らかに、新入りへの洗礼であり、不可能な命令だった。 帳簿は数百ページに及び、筆跡は乱雑で、インクの染みだらけ。まともに計算すれば、熟練の会計士でも一週間はかかる分量だ。 しかも、数字が合わないのは「計算ミス」ではないことなど、誰の目にも明らかだった。
「……准尉。この量は、一晩では物理的に――」
「口答えするな!」
ガストンが唾を飛ばして怒鳴った。
「出来なければ『能力不足』として閣下に報告し、奴隷兵団へ逆戻りだ! ……それとも、泣いて詫びるか? 『私には無理です、許してください』となあ!」
事務官たちが手を叩いて喜ぶ。彼らはカエサルが絶望し、無様な姿を晒すのを期待しているのだ。 カエサルは、ガストンの顔を静かに見つめた。 その瞳の奥にあるのは、怯えでも怒りでもない。 「仕事」を前にした職人の、冷徹な分析眼だけだった。
「……泣き言は不要です。直ちに取り掛かります」
カエサルは淡々と答え、ガストンが拍子抜けした顔で去るのを待ってから、静かに帳簿を開いた。
「インクと計算盤、それに新しい蝋燭を支給してください。……長い夜になりそうだ」
カエサルの呟きは、嘲笑の渦にかき消された。 彼らは知らない。 この薄汚れた部屋に、彼ら自身の破滅を招く「監査官」を招き入れてしまったことに。
深夜二時。 事務官たちは仕事を放り出し、街へ酒を飲みに出かけていった。 静まり返った執務室には、カエサルの机の上の蝋燭だけが揺らめいている。
カリ……カリカリ……。
静寂の中で、カエサルのペンが走る音だけが響いていた。 机の上には、カエサルが自作した「集計表」が広げられている。 彼の右手は羽根ペンを操り、左手は計算盤の玉を弾く。その速度は、人間の指とは思えないほど速く、正確だった。
(……酷いな。予想以上だ)
カエサルは、呆れを通り越して、ある種の感心を覚えていた。 この帳簿は、ただ乱雑なだけではない。 「嘘」で塗り固められた迷宮だった。
ページをめくるたびに、腐敗の臭いが立ち上ってくるようだ。 カエサルは、数字の羅列を追うのではなく、その向こうにある「金の流れ」を透視していた。
(まず、兵士の数がおかしい)
カエサルは、先月行われた作戦の動員記録と、食料の配給記録を照らし合わせた。 動員兵数、三千五百名。 配給食料、三千六百五十名分。 一見、予備を含めた誤差に見える。だが、カエサルは配給リストの末尾にある名前の羅列に違和感を覚えた。 同じ筆跡。存在しない小隊名。 架空の兵士――「幽霊兵」だ。百五十名分の食料と給与が、毎月誰かの懐に消えている。
(次に、納入価格。……小麦一袋、金貨二枚?)
カエサルは眉をひそめた。 先月の市場価格は、干ばつの影響で高騰していたとはいえ、金貨一枚あれば上質な小麦が買えたはずだ。 それなのに、軍が購入したのは、市場価格の二倍の値段がついた「等外品(くず米)」だった。 納入業者のサインを見る。 『ガストン商会』。 准尉の実家だ。
「なるほど。実家の売れ残りを、税金を使って高値で買い取らせているわけか」
カエサルは冷たく呟いた。 これは氷山の一角に過ぎない。 破損として処理された数百本の槍が、実際には闇市へ横流しされた形跡。 負傷兵のための治療薬が、「在庫不足」として処理され、実際には貴族の屋敷へ「贈答品」として送られている記録。
数字は嘘をつかない。 カエサルが計算盤を弾くたびに、この組織の腐った内臓が解剖され、白日の下に晒されていく。
(前線では、俺の部下たちが腐ったパン一つで命を懸けていた。……治療薬さえあれば助かった命もあった)
カエサルの脳裏に、死んでいった奴隷たちの顔が浮かぶ。 彼らが死んだのは、魔獣が強かったからではない。 こいつらが、後方から彼らの血を吸っていたからだ。
カエサルのペンを持つ手に力がこもる。 「ミシッ」と音がして、ペンの軸にヒビが入った。 だが、彼は感情に溺れない。怒りは、彼を動かす燃料でしかない。
(ガストン准尉。貴方は私に、私が無能だと証明するための罰を与えたつもりでしょうが……)
カエサルは、計算盤の最後の玉を弾き、合計値を出した。 全ての帳尻が合った。 そして、その横には、彼が独自に作成したもう一つの書類――「裏金リスト」が完成していた。
(逆に、自分の首を絞める縄(証拠)を、私に渡してしまったことに気づいていない)
カエサルは、完成した書類を見つめ、残酷な笑みを浮かべた。 彼は不正を告発するつもりなどない。 告発すれば、ガストンは更迭されるだろうが、代わりの誰かが来るだけだ。 カエサルが必要なのは「正義」ではない。 この腐敗したシステムを乗っ取り、自分の力とするための「支配権」だ。
「……手術の準備完了だ」
空が白み始め、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。 カエサルは一度大きく伸びをし、新しいインク壺の蓋を開けた。 さあ、これからは「治療」の時間だ。
翌朝。 宿酔いの青白い顔をしたガストン准尉が、重い足取りで出勤してきた。 執務室のドアを開けると、そこには既に他の事務官たちが集まり、ひそひそと話をしていた。
「おい、どうした?」
「あ、准尉殿! ……あれを見てください」
事務官が指差した先。 部屋の隅の、あの粗末な机に、カエサルが座っていた。 彼は軍服の汚れを落とし、襟を正し、まるでここが自分の城であるかのように背筋を伸ばしていた。 その机の上には、美しく製本された書類の束が、塔のように積み上げられている。
「……おい奴隷。まさか、逃げずにいたのか?」
ガストンは鼻で笑いながら近づいた。
「どうせ一行も書けずに泣いていたんだろう? 潔く認めれば、慈悲を与えてやらんでも――」
「完了しました」
カエサルは言葉を遮り、一番上の書類を両手で差し出した。
「は?」
ガストンは目を白黒させながら書類を受け取る。 表紙には美しいカリグラフィーで『青晶石資源地帯・遠征費決算報告書』と記されている。 ページをめくると、そこには乱雑だった数字が完璧に整列し、消費、在庫、損失の全てが1コパー単位まで整合されていた。
「バ、バカな……あの一晩で、これを一人で……?」
ガストンの手が震え始めた。 ただ計算が合っているだけではない。 見やすく、分かりやすく、そして何より「美しい」。 熟練の書記官が十人がかりでやる仕事を、この元奴隷はたった一晩で完遂したのだ。
「数字が合わない原因も特定しました」
カエサルは立ち上がり、周囲に他の事務官たちが聞き耳を立てていることを確認してから、よく通る声で言った。
「単純な記載ミスが多発していました。特に、『ガストン商会』からの納入品と、廃棄処分の項目に、計算上の特異点が集中しておりましたので……」
ガストンの心臓が止まりそうになった。 気づかれた。バレた。 この男は、全ての不正を知った上で、ここに立っている。
「……き、貴様……!」
「ですので」
カエサルは声を潜めず、しかし穏やかに続けた。
「私が『適切な修正』を施し、帳尻を合わせておきました。……セドリック閣下がご覧になっても、一切の疑念を抱かないように」
「な……ッ!?」
ガストンは書類を凝視した。 確かに、不正の痕跡は消えていた。 架空の兵士は「一時的な増員と解散」として処理され、高値の小麦は「緊急輸送費込み」として正当化されていた。 完璧な隠蔽工作。
カエサルはガストンに一歩近づき、耳元で囁いた。 その声は、悪魔の誘惑のように甘く、そして冷たかった。
「准尉殿。……私は、貴方の不正を告発するつもりはありません。誰も得をしませんから」
「な、なら、何が望みだ……金か? 昇進か?」
「いいえ。……『環境』です」
カエサルは、ガストンの手にある報告書を指先でトントンと叩いた。
「私は数字が得意です。貴方が今後、私を『適切に』扱ってくださり、この部署の決裁権の一部を私に委ねてくださるなら、この帳簿はずっと綺麗なままでしょう」
カエサルの目が細められた。
「ですが、もし私の仕事を邪魔するなら……」
カエサルは、机の引き出しを少しだけ開けて見せた。 そこには、修正前の「元データ」と、不正の証拠をまとめた「裏帳簿」が入っていた。
「次回の報告書では、全ての『特異点』を、セドリック閣下に直接、解説付きで提出することになります」
「ひぃっ……!」
ガストンは腰を抜かしそうになりながら後ずさった。 彼は悟ったのだ。自分が虐げようとした元奴隷が、自分たちの生殺与奪を握る「怪物」であることを。 もはや、上司と部下の関係ではない。 首根っこを押さえられた獲物と、捕食者の関係だ。
「……わ、わかった。……好きにしろ」
ガストンは呻くように言い、逃げるように自分の席へと戻っていった。 事務官たちが、呆然としてその様子を見ている。 何が起きたのかは分からない。だが、序列が変わったことだけは、誰の目にも明らかだった。
カエサルは再び椅子に座り、新しい羽根ペンを手に取った。 周囲の空気が変わった。 彼に雑用を押し付ける者はいなくなった。むしろ、誰もが彼のご機嫌を伺うように、遠巻きに見ている。
カエサルは、この腐敗した部署を内側から掌握した。 これで、軍全体の物流データは彼の手の中だ。
「まずは掃除だ。……効率にならないゴミは排除し、使えるゴミは再利用する」
カエサルは手元の白紙に、次なる計画のタイトルを書き込んだ。 『兵站輸送ルートの抜本的改革案』。
その時、一人の伝令兵が慌てて部屋に飛び込んできた。
「き、緊急報告です! 『青晶石資源地帯』の前線より、至急報!」
伝令兵は青ざめた顔で叫んだ。
「敵軍の攻勢により、補給線が寸断! 砦の備蓄食料はあと三日で尽きます! 直ちに支援を!」
執務室がパニックに包まれる中、カエサルだけが静かに顔を上げた。 彼の瞳が、獲物を見つけた狩人のように鋭く光った。
(来たか。……俺の『改革案』を売り込む、絶好の商機だ)
カエサルは書きかけの書類を掴み、立ち上がった。 目指すは、軍の上層部が集まる作戦会議室。
「道を開けろ。……俺が配達に行く」




