第四話:奈落の上の決算
風が吠えていた。 いや、それは風という生易しいものではない。谷底の深淵から吹き上げる、死神の呼吸そのものだった。
断崖にへばりつくように続く獣道は、道と呼ぶにはあまりに頼りなかった。 幅はわずか三十センチ。大人の足のサイズよりわずかに広い程度だ。左手は苔むした垂直の岩壁、右手は漆黒の闇が広がる奈落の底。 一歩踏み外せば、悲鳴を上げる間もなく数百メートル下へ落下し、肉塊へと変わる。
「……手元を見るな! 岩の窪みを探せ。三点支持を崩すな!」
カエサルの声が、轟音を立てる風に混じって後続の奴隷たちに届く。 彼は先頭に立ち、四十キロ近い「魔力遮断結晶」の木箱を背負いながら、慎重に、しかし機械のような正確さで歩を進めていた。
(重心位置、修正。風速、毎秒十五メートル。……負荷係数、許容範囲内)
カエサルの脳内では、生存のための計算式が絶え間なく更新されていた。 背中の木箱は、ただ重いだけではない。中に入っている結晶が、周囲の魔力濃度に反応して微細に振動しているのだ。 もし転倒して強い衝撃を与えれば、結晶が砕け、暴走した魔力奔流によって全員が消し飛ぶ。彼らは、爆弾を背負って綱渡りをしているに等しい。
昨夜までの「無謀な訓練」が、ここで活きていた。 毎晩、睡眠時間を削って振り続けた重剣の負荷。極限まで追い込んだ体幹トレーニング。 それらが、カエサルの体を岩壁に吸い付くような安定感で支えていた。
「ひっ……! か、風が……!」
最後尾を歩いていたトビが、悲鳴に近い声を上げた。 谷底から吹き上げた突風が、彼の痩せた体を無慈悲に煽ったのだ。 湿った苔に足を取られ、トビの右足が虚空を踏み抜く。
「あ、あぁ……!」
視界が傾く。世界が反転する。 トビの体が、右側の闇へと吸い込まれていく。 死への落下。誰もが目を背けたその瞬間だった。
ガシィッ!!
泥まみれの腕が、トビの胸倉を鷲掴みにした。 カエサルだ。 彼は岩壁のわずかな突起に左足を絡ませ、上半身だけを崖の外へ大きく乗り出して、トビの体重を片腕一本で支えていた。
「カ、カエサルさん……!?」
トビは宙吊りの状態で、カエサルの顔を見上げた。 カエサルの額には青筋が浮かび、首の筋肉が断裂しそうなほど張り詰めている。 背中の四十キロの結晶と、トビの体重六十キロ。合計百キロ近い負荷が、カエサルの右腕と左足だけにかかっている。 物理的に不可能な体勢だ。普通なら、二人まとめて落下している。
「バカ野郎……!」
カエサルは歯を食いしばり、呻くように言った。
「勝手に減価償却するな……!」
「は、離してください! あんたまで落ちる!」
「黙れ! お前が死ねば、荷物の分担が増える! 俺の負担を増やすな!」
冷たい言葉だ。だが、その手は鉄万力のようにトビを離さなかった。 カエサルは咆哮と共に全身の筋肉を収縮させ、トビの体を強引に道へと引き戻した。
ドサッ。 二人は狭い道の上で重なるように倒れ込んだ。 背中の木箱が岩壁にぶつかりそうになり、カエサルはとっさに自分の体をクッションにして衝撃を和らげた。
「はぁ……はぁ……」
トビは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、震えが止まらなかった。 「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」
カエサルは荒い息を整えながら、トビの襟首を掴んで顔を近づけた。 怒鳴られる。殴られる。トビはそう覚悟して目を瞑った。 だが、カエサルの声は静かだった。
「……トビ。恐怖は『感情』じゃない。『情報』だ」
「え……?」
「足が震えるのは、体が『落ちる危険性』を察知して警告しているからだ。それは正常な機能だ。……だが、警告音に驚いて操作を誤るな」
カエサルはトビの肩を叩いた。
「お前の恐怖心を制御しろ。……深呼吸だ。吸って、吐け」
トビは言われた通りに深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たし、少しだけ震えが収まる。 カエサルは立ち上がり、再び木箱を背負い直した。
「行くぞ。……俺たちはまだ、死の淵を歩いているだけだ」
カエサルの背中が、以前よりも大きく見えた。 ただの計算高い商人ではない。この男は、部下という「資産」を絶対に損なわせないという、奇妙な執念を持っていた。
(ついていこう。この人なら、本当に地獄を抜けられるかもしれない)
トビは涙を拭い、泥だらけのブーツで、カエサルの足跡をしっかりと踏みしめた。 風は依然として吠え続けていたが、彼らの足取りに迷いはなくなっていた。
行軍開始から三時間。 夜明け前の最も暗い時間帯「暁闇」。 カエサルたちは、ついに断崖エリアを抜け、本来通るはずだった「赤線」の渓谷を見下ろす高台に到達した。
「……休憩だ。五分だけ止まる」
カエサルの合図で、奴隷たちはその場に崩れ落ちた。 全員、生きた心地がしなかった。手足は泥と血で汚れ、顔色は死人のように白い。だが、誰も欠けていない。 彼らは不可能と言われた断崖ルートを踏破したのだ。
「……見ろ」
水を回し飲みしている部下たちに、カエサルが顎で崖の下を指した。 そこには、月明かりに照らされた「赤線」の渓谷が広がっていた。
「ひっ……!」
誰かが短い悲鳴を上げた。 そこは、静寂に包まれた森ではない。蠢く地獄の釜の底だった。
岩陰、木々の隙間、川のほとり。ありとあらゆる場所に、無数の赤い光が点滅している。 魔獣の瞳だ。 岩塊に擬態した《アース・ゴーレム》の群れ。樹上に潜む《シャドウ・クロウ》。そして、川の中には巨大な《マッド・スライム》が波打っている。
その数、優に三百を超える。 彼らは皆、渓谷の入り口――正規ルートの方角を向いて、じっと獲物を待ち構えていた。殺気と魔力の澱みが、谷底を紫色に染めている。
「……これが、セドリック閣下の描いた作戦図だ」
カエサルは汗を拭い、冷ややかに告げた。
もし、命令通りにあそこを通っていたらどうなっていたか。 想像するまでもない。最初の悲鳴を上げる間もなく、三百の魔獣に圧殺され、肉片一つ残らず食い尽くされていただろう。 結晶を囮にするどころの話ではない。ただの屠殺だ。
「……ふざけるな」
年配の奴隷兵が、震える拳で地面を叩いた。
「俺たちは……あいつらにとって、餌ですらなかったのか。ただのゴミ捨てみたいに……」
怒りと絶望が混ざり合った呻き声が広がる。 貴族たちは、安全な天幕の中で紅茶を飲みながら、地図の上に線を一本引いただけだ。その線の上に、これほどの死が待っていることを知りながら。
「……計算通りだ」
カエサルが低く呟いた。 部下たちが彼を見る。カエサルの表情には、怒りも悲しみもなかった。あるのは、帳簿を確認する監査官のような、冷徹な納得だけだった。
「これが『貴族の常識』と『現場の現実』の乖離だ」
カエサルは谷底を見下ろしながら言った。
「貴族は地図の上で最短距離を引く。数字上の効率だけを見る。……だが、商人はリスク(魔獣)が潜むコストを計算し、泥を被ってでも裏道を探す」
カエサルは部下たちに向き直った。
「怒りを捨てるな。だが、今はそれを飲み込め。……その怒りは、生き残って『成果』として叩きつけてやるための燃料だ」
カエサルの言葉に、奴隷たちの目に光が宿った。 それは怯えではなく、理不尽な運命に対する反骨の光だった。 彼らは悟ったのだ。自分たちを生かしたのは、貴族の慈悲でも神の奇跡でもなく、目の前にいる薄汚れた男の「計算」だったと。
「行くぞ。……納期まで、あと二時間だ」
カエサルが木箱を背負うと、トビが駆け寄った。 「カエサルさん、代わります! あんた、ずっと背負いっぱなしだ!」 「いや、俺が持つ。……これは不安定な荷物だ。重心移動に慣れている俺が運ぶのが、最も事故率が低い」
カエサルは断ったが、その声は以前より柔らかかった。 彼は知っていた。この過酷な行軍を通じて、単なる烏合の衆だった奴隷たちが、一つの「チーム」に変わりつつあることを。
「……第三採掘所まで、あと少しだ。そこに着けば、俺たちの勝ちだ」
カエサルたちは再び歩き出した。 背後には、死の待ち伏せが続く渓谷。 彼らは誰にも気づかれることなく、死神の顎をすり抜けていった。
夜明け前。空が白み始め、朝霧が立ち込める刻限。 鉄鉱山最奥部、「第三採掘所」。
砦の防壁の上で、守備隊長である騎士は、血走った目で森を睨んでいた。 状況は絶望的だった。 備蓄食料は底をつき、魔力障壁を維持する燃料もあと数時間で切れる。周囲の森からは、包囲する魔獣たちの飢えた唸り声が聞こえている。
「クソッ……見捨てられたか。アルビオン公爵め……」
隊長は剣の柄を握りしめた。 援軍要請を出して三日。届いたのは「奴隷兵による輸送隊を送る」というふざけた返答だけ。 正規軍の精鋭ですら突破不可能な魔獣の包囲網を、軽装備の奴隷が抜けられるはずがない。それは事実上の「見殺し宣言」だった。
「隊長! き、霧の向こうから人影が!」
見張り兵が叫んだ。 魔獣か? 隊長は緊張して身を乗り出した。 霧の中から現れたのは、泥と苔にまみれ、ボロボロの布を纏った亡霊のような集団だった。
彼らはよろめきながらも、砦のバリケードの前までたどり着くと、その場に崩れ落ちるように足を止めた。 その先頭に立つ男――カエサルだけが、背中の木箱を慎重に地面に下ろし、直立不動の姿勢をとった。
「……誰だ?」
隊長の問いに、カエサルは肺が破裂しそうな呼吸を整え、静かに答えた。
「第十三奴隷兵団、識別番号404、カエサル。……任務により、魔力遮断結晶をお届けに上がりました」
「な……!?」
隊長は目を疑った。 カエサルと、背後の十二人の奴隷たち。全員が生還している。 しかも、彼らの背にある木箱からは、間違いなく結晶特有の冷気が漏れ出している。
「バカな……『赤線』ルートには、魔獣の大群がいるとの報告が入っていたのだぞ! あの道を突破したというのか!?」
隊長の声が裏返る。 「はい。……ただし、『赤線』は通っていません」
カエサルは懐から、道中で記録した羊皮紙を取り出し、バリケード越しに隊長へ差し出した。
「我々は断崖ルートを迂回しました。あのような高リスクな市場には手を出せませんから」
「断崖だと? あの通行不能の獣道をか!?」
「それより、これをご覧ください」
カエサルは隊長の驚愕を無視し、羊皮紙を指差した。
「高台から観測した、渓谷に潜む魔獣の配置図です。……奴らは今、正規ルートからの獲物を待ち伏せすることに集中し、背後が完全にがら空きになっています」
隊長はその羊皮紙を引ったくるように見た。 そこには、魔獣の数、種類、潜伏場所、そして予想される移動ルートまでが、驚くほど緻密な筆致で、完璧な縮尺で記されていた。 それは単なる地図ではない。勝利への「設計図」だった。
「今、この結晶で巣穴の魔力供給を断ち、同時に正規軍の本隊が南側から挟撃をかければ、奴らは混乱し、壊滅するでしょう」
カエサルは淡々と告げた。 隊長は震える手で地図を握りしめ、そしてカエサルの顔をまじまじと見た。 泥だらけの奴隷の顔。充血した目。 だがその瞳は、歴戦の将軍のように理知的で、不遜なほどに冷徹だった。
「……貴様、何者だ?」
「ただの奴隷です。……今のところは」
カエサルは微かに口角を上げた。
「商品は届けました。あとは、正規軍の仕事を見せていただけますね?」
数時間後。 カエサルの情報に基づき、正規軍は見事な奇襲を成功させた。 魔力供給を絶たれた魔獣たちは弱体化し、背後からの突撃を受けて総崩れとなった。 鉄鉱山資源地帯の奪還。それは、膠着していた戦争の局面を動かす、大きな一石となった。
砦の上から、カエサルは敗走する魔獣の群れと、勝ち鬨を上げる正規軍を見下ろしていた。 朝日が昇り、雪化粧をした山々が赤く染まる。
「……終わったな」 トビがへたり込みながら笑った。 「ああ。……だが、俺たちの仕事はまだ残っている」
カエサルは、遠くに見える正規軍の本陣――セドリック・アルビオンがいる天幕の方角を見据えた。
あの傲慢な貴族は、今頃どんな顔をしているだろうか。 捨て駒にしたはずの道具が生還し、あまつさえ正規軍以上の功績を上げた報告を聞いて。 その顔を想像するだけで、カエサルの疲れは吹き飛んだ。
(さあ、支払い(ペイ)の時間だ、セドリック閣下。この成果に見合う対価、きっちりと払ってもらおうか)
カエサルは首に巻かれた錆びた鉄の首輪を指で弾いた。 硬質な音が、朝の冷気の中に響く。
市場は開かれた。 ここからが、本当の成り上がりの始まりだ。




