最終話:最後の決算報告書
黒煙と黄金の雨が降り注いだあの日から一年が過ぎた。王都セントラルは、かつての威容とは異なる、新しい活気に満ちていた。崩れた城壁はまだ修復途中だが、その隙間を埋めるように、市民たちが建てた市場や工房がひしめき合っている。通りには、パンの焼ける匂いと、建設作業の槌音が響いていた。
だが、王城の執務室の空気は張り詰めていた。
「本日正午。約束の期限です」
カエサルが、窓の外を見下ろしながら呟いた。彼は以前よりも少し痩せたが、その瞳の鋭さは増していた。着ているのは、相変わらずつぎはぎだらけのコートだが、きちんと洗濯され、プレスが掛かっている。
「ええ。分かっています」
デスクの向こうでエレナが答えた。彼女は今、簡素だが品のある青いドレスを身に纏っていた。頭上には、あの錆びついた「鉄の王冠」。この一年、彼女はこの王冠を一度も外すことなく、執務に没頭してきた。
「隣国および帝国商連合の使節団、まもなく到着します。彼らの目的は債権の回収。あるいは、担保となっている『国土』の差し押さえです」
一年前、カエサルはハイエナのような商人たちと契約を交わした。『一年以内に借金を返済できなければ、国の主要な権利を譲渡する』という、屈辱的な不平等条約。その審判の時が来たのだ。
「カエサル。勝算は?」エレナが真っ直ぐに彼を見る。
カエサルは、分厚い帳簿をパタンと閉じた。「数字は嘘をつきません。準備は万端です。あとは、プレゼンテーション次第」
「なら、行きましょう。私たちが積み上げてきたものの価値を、世界に証明するために」
王城の大広間。そこには、豪華な衣装に身を包んだ各国の商人や外交官たちがずらりと並んでいた。彼らの視線は冷ややかで、どこか嘲笑を含んでいた。
「やれやれ。瓦礫の山が、多少はマシになった程度か」「所詮は破綻した国だ。金などあるまい」
使節団の代表である、帝国の豪商ゲルドが前に進み出た。彼は肥え太った腹を揺らしながら、エレナに一礼した。形式だけの無礼な礼だ。
「お久しぶりですな、エレナ女王陛下。さて単刀直入に申し上げましょう。期限です。約束通り、貸し付けた物資の代金、金貨500万枚相当をお支払い願いたい」
ゲルドはニヤリと笑った。「もし払えないのであれば契約通り、北の鉱山と南の港の権利書を頂戴します。安心なさい。我々が管理した方が、この国のためにもなる」
広間に緊張が走る。金貨500万枚。小国の国家予算数年分に相当する莫大な金額だ。復興途中のこの国に、そんな現金があるはずがない。
「現金はありません」
エレナが静かに答えた。ゲルドの顔に勝利の笑みが浮かぶ。「ほう!ならば」
「ですが、『支払い』は可能です。カエサル財務大臣」
エレナの合図で、カエサルが一歩前に出た。彼は商人たちの前でも堂々としていた。むしろ、彼らを見下ろすような不敵な笑みを浮かべていた。
「皆様。現金一括払いがお望みでしたか?それは少々、時代遅れ(ナンセンス)ですね」
「なんだと?負け犬が吠えるな!」
「我々は、金貨よりも価値のある『商品』をご用意しました。どうぞこちらへ」
カエサルが指を鳴らすと、大広間の扉が開かれた。そこから入ってきたのは、金銀財宝ではない。荷車に積まれた、大量の木箱だった。
「これは野菜か?」ゲルドが眉をひそめる。木箱の中には、艶やかなジャガイモ、見事な色づきの小麦、そして芳醇な香りを放つ果物が詰まっていた。
「ただの野菜ではありません」カエサルが説明を始める。
「この一年、我々はセドリックが遺した『呪い』を逆利用しました。錬金術によって変質した土壌を、リン達魔導士が浄化し、逆に『魔力を帯びた肥沃な大地』へと改良したのです」
カエサルは果物を一つ手に取り、ゲルドに投げ渡した。「食べてみなさい。通常の三倍の栄養価と、微量な魔力回復効果がある『マナ・フルーツ』です」
ゲルドは怪訝そうに一口かじった。瞬間、彼の目が大きく見開かれた。「なっ!うまい!それに、体が熱くなるような!」
「帝国では今、魔導士の魔力枯渇が問題になっているそうですね?この果物は、その特効薬になる。金貨500万枚?安いものです。この果物の独占輸出契約を結べば、一年でその倍の利益が生まれる」
会場がざわめき始めた。商人たちの目が、「借金取り」の目から「投資家」の目へと変わっていく。彼らは計算高い。土地を奪って反乱のリスクを負うより、このドル箱商品を扱う方が遥かに儲かることを瞬時に悟ったのだ。
「さらに」カエサルは畳み掛ける。
「我が国の新通貨『アース』は、この農作物を担保に発行されています。現時点で、アースの信用レートは、帝国の国債を上回る安定性を見せている。どうです?借金のカタに土地を取るか。それとも、我が国の『株主』となって、未来永劫の配当を受け取るか」
カエサルは、ゲルドの目の前に新しい契約書を叩きつけた。それは、対等な通商条約の草案。
ゲルドは脂汗を拭った。目の前の男は、ボロボロのコートを着ているが、その手腕は自分たちを遥かに凌駕している。「完敗だ。あんた、軍人じゃなくて、こっち側の人間だろう」
ゲルドは苦笑し、契約書にサインをした。「いいだろう。その『マナ・フルーツ』、我が商会が一手に引き受けよう」
広間に、拍手ではなく安堵のため息と、新たな商談の熱気が満ちた。エレナは玉座の上で、小さく息を吐き、カエサルに微笑みかけた。カエサルは片目を閉じて、親指を立てて見せた。
第一関門、突破。だが物語を閉じるには、まだやらなければならないことがあった。
その夜、王都はお祭り騒ぎだった。借金完済と、正式な通商条約の締結。それは、この国が「敗戦国」から「独立国」へと生まれ変わったことを意味していた。
広場では、輸入された酒や、自慢のマナ・フルーツが振る舞われ、市民たちが歌い踊っている。「カエサル万歳!エレナ女王万歳!」歓声が夜空に響く。
だがその輪の中に、カエサルの姿はなかった。
王城の裏手、静かなバルコニー。カエサルは一人、月を見上げながら、荷物をまとめていた。荷物といっても、擦り切れたリュックサック一つ。中身は着替えと、数冊の帳簿、そして壊れた魔導銃だけだ。
「やっぱり、ここか」
背後から声をかけられた。ヴォルグだ。彼は新しい近衛騎士団長の制服を着崩し、手にはワインボトルを二本持っていた。
「よお大将。主役がこんなところで何してんだ?みんな探してるぜ」
「主役は女王陛下だよ。俺はただの舞台装置係だ」
カエサルはリュックの紐を締めた。その動作を見て、ヴォルグの表情から笑みが消えた。
「行くのか」
「ああ。契約は満了した。国は黒字化し、優秀な取引先も見つかった。仕事はここまでだ」
カエサルは淡々と言った。彼の哲学は一貫している。「戦争屋」は、平和な時代には不要な存在だ。危機があるからこそ、彼の非常識な策が輝く。平和な日常において、彼はただの「劇薬」でしかない。
「水臭えじゃねえか」
ヴォルグがボトルを渡し、隣に座り込んだ。
「俺は残るぜ。柄じゃねえが、騎士団長なんて役職を貰っちまった。ガキどもに剣を教えるのも、悪くねえと思ってな」
かつての狂犬と呼ばれた傭兵は、この国で「守るもの」を見つけたのだ。
「適任だな。ヴォルグの腕なら、誰も文句は言わない」
そこへもう一人の足音が近づいてきた。リンだ。彼女はカエサルの姿を見て、泣き出しそうな顔をしていたが、ぐっと堪えていた。
「カエサル。私も残るよ」
リンは、胸元のバッジを握りしめた。それは「王宮筆頭魔導士兼財務補佐官」の記章だ。
「カエサルに教えてもらった経済学と、私の魔導知識。これを組み合わせて、もっとこの国を豊かにしたい。エレナ様を一人にしたくないから」
「賢明な判断だ、リン。リンなら、俺よりも上手くやれる」
カエサルは優しく彼女の頭を撫でた。二人とも成長した。カエサルという「劇薬」がいなくても、自力で歩いていける強さを手に入れた。それが、カエサルにとっては何よりの報酬だった。
「寂しくなるな、大将」ヴォルグが酒を煽る。
「感傷は金にはならない」カエサルは笑って、自分の分のボトルを一口だけ飲んだ。
「ヴォルグ、リン。殿下を頼んだぞ。彼女は強いが優しすぎる。時々、損得勘定を忘れて無茶をする。その時は、君たちがブレーキになってくれ」
「任せとけ。あんたの教えは骨の髄まで染み込んでる」
三人は月明かりの下で最後の乾杯をした。言葉は少なかったが、そこにはどんな契約書よりも強固な絆があった。
宴もたけなわの頃。カエサルが城を抜け出そうとすると、影から近衛兵が現れた。
「カエサル様。女王陛下がお呼びです。『黙って出て行くなど、契約違反です』とのことです」
カエサルは苦笑いした。やはり、彼女にはお見通しか。
「了解した。最後の決算報告といこうか」
カエサルはリュックを背負い直し、エレナの待つ「一番高い場所」へと向かった。それは玉座の間ではなく、かつて二人が出会った時に見上げた、城の尖塔の最上階だった。
尖塔のテラス。そこは風が強く、王都の輝きが一望できる場所だった。エレナは手すりに寄りかかり、夜景を見つめていた。鉄の王冠は外され、銀髪が風になびいている。
「逃げる気ですか、カエサル」
彼女は振り返らずに言った。
「人聞きの悪い。『戦略的撤退』と言ってください」
カエサルが隣に並ぶ。一年前、ここは焦げ臭い煙に包まれていた。今は、家々の灯りと、星空が繋がっているように見える。
「この国はもう大丈夫です。アースの価値は安定し、貿易も始まった。ヴォルグが治安を守り、リンが財政を回す。そして何より貴女という『信用』がある」
カエサルはエレナを見た。彼女は美しくなった。少女の儚さは消え、一国の主としての強さと、母性のような温かさを兼ね備えている。
「私には、もう売るものがありません。在庫切れです」
「嘘つき」
エレナがようやく彼を見た。その瞳は潤んでいた。
「貴方は、自分が平和な場所に馴染めないと思っているだけでしょう?自分が過去に手を染めた汚い商売その影が、新しい国の光を曇らせると」
図星だった。カエサルは過去、多くの戦場で武器を売り、死の商人として生きてきた。その業は消えない。清廉潔白な「新生王国」の宰相の座に、血まみれの商人が座り続けることは、いつか政治的なリスクになる。
「さすがは女王陛下。リスク管理も完璧だ」
カエサルは自嘲気味に笑った。
「でも、タダで帰すわけにはいきません」
エレナは涙を拭い、真剣な表情で手を差し出した。
「請求書を出してください、カエサル。貴方がこの国のために費やした、知恵、労働、血、そして命。そのすべての対価を、私はまだ支払っていません」
カエサルは少し考え、懐から一枚の古びた紙を取り出した。それは、物語の始まり――彼がエレナと初めて出会った時に交わした、最初の契約書の裏紙だった。
彼は万年筆を取り出し、サラサラと何かを書き込んだ。そして、それをエレナに渡した。
「これが、最後の請求書です」
エレナは紙を受け取った。そこには、膨大な項目の代わりに、たった一行だけが記されていた。
『請求額:ゼロ・カラットの王冠』
「え?」エレナが顔を上げる。
「金貨も、地位も、名誉もいりません。ただ貴女が被っていた、その『価値のない王冠』を頂きたい」
カエサルは、ベンチに置かれていた鉄の王冠を指差した。
「それは、市場価値ゼロの鉄屑です。ですが私にとっては、貴女が『王』になった証であり、私たちが成し遂げた不可能の象徴です。それを、私の報酬として持ち帰らせてほしい」
それはカエサルらしい、ひねくれた、しかし最大の愛情表現だった。彼は、彼女の重荷を半分持ち去ろうとしているのだ。そして、彼女には「新しい王冠」を作らせる。平和な時代にふさわしい、新しい象徴を。
エレナは王冠を手に取り、しばらくそれを見つめていた。そして、ふっと柔らかく笑った。
「本当に貴方という人は。いつも、損な取引ばかりする」
エレナは王冠をカエサルに差し出した。
「いいでしょう。商談成立です。この王冠は貴方に譲渡します。ですが、条件があります」
「条件?」
エレナは背伸びをして、カエサルの頬に、軽く口づけをした。
「二度と、これを『価値がない』なんて言わないこと。それは、私の誇りであり、貴方との絆そのものですから」
カエサルは目を見開き、そして深く頭を下げた。王冠を受け取る手は、わずかに震えていた。
「承知いたしました(イエス・ユア・マジェスティ)。家宝にします」
カエサルは、その黒ずんだ鉄の輪を、リュックの大切な場所にしまった。これさえあれば、彼はどこへ行っても誇り高く生きられる。世界を変えた少女の、最初の騎士であったという事実と共に。
東の空が白み始めていた。王都の門はまだ閉まっていたが、脇の通用口が開いていた。ヴォルグとリンが、衛兵を追い払って開けておいてくれたのだ。
カエサルは振り返らなかった。背中で感じる王都の気配が、心地よかった。パンを焼く匂い。早起きの鳥の声。平和の音だ。
彼は荒野へと続く道を踏み出した。目的地は決めていない。世界は広い。まだ混乱の中にあり、彼の「経営コンサルティング」を必要としている場所はいくらでもあるだろう。
(さて、次はどんな商品を売るか。『希望』の相場は、今、底値だからな。買い時だ)
カエサルは口笛を吹いた。足取りは軽い。リュックの中の王冠が、カタカタと音を立てて、彼の背中を押しているようだった。
数年後――。大陸中央部に、「奇跡の復興」を遂げた農業大国があった。その国は、独自の通貨制度と、魔導技術を応用した農業で莫大な富を築き、周辺諸国の紛争を調停するほどの力を持っていた。
その国の女王、エレナ・ライネールは「賢王」と呼ばれ、国民から深く愛されていた。彼女の頭上には、新たに作られたプラチナの王冠が輝いていたが、彼女は常に「私の宝物は、もっと無骨で、もっと温かいものだ」と語っていたという。
近衛騎士団長のヴォルグは、若手騎士たちを「計算のできない筋肉ダルマはクビだ!」と怒鳴りながらも慕われる名物教官となり、財務大臣のリンは、他国の商人が「氷の才女」と恐れるほどの交渉人として国庫を守り続けていた。
そして、世界各地の戦場や貧困地帯では、奇妙な噂が流れていた。ボロボロのコートを着た、「商人」を名乗る男が現れると。彼は武器ではなく、「知恵」と「パン」を売り、絶望的な状況を黒字に変えて去っていく。彼の報酬は、いつも奇妙なガラクタばかりだという。
ある晴れた日。エレナは執務の合間に、一通の手紙を受け取った。差出人の名はなく、消印は遠い異国のものだった。
封を開けると、中には一枚の紙が入っていた。それは、どこかの国の経済改革案のメモのようだったが、余白に走り書きがあった。
『追伸:こちらの市場調査は順調です。そちらの株価は、まだ上昇トレンドを維持していますか?暴落しそうになったら、いつでも呼んでください。法外なコンサルティング料を請求しに駆けつけます』
エレナは窓の外を見た。広がる青空、黄金色に輝く小麦畑、笑顔の子供たち。
彼女は万年筆を取り、手紙の裏に返事を書いた。届くあてのない、しかし、必ず届くと信じている返事を。
『安心して。こちらの経営は、創業者の予想を超えて、最高益を更新中よ。いつか、貴方が戻ってきた時、驚いて腰を抜かすくらいにね』
エレナは手紙を胸に抱き、空に向かって微笑んだ。
物語はここで閉じられる。だが、彼らの人生という帳簿には、これからも数え切れないほどの「利益」と「幸福」が記されていくだろう。
これが、国を買い叩き、再生させた、一人の商人と女王の記録。最後の決算報告書は、以上をもって承認とする。
(完)
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。




