第三十話:ゼロ・カラットの王冠
王都セントラルに朝日が昇る。だがその光景はあまりに無惨だった。かつて大陸一の繁栄を誇った都市は、半壊した建物と、路上に散乱する瓦礫、そして黄金の雨によって変質した黒い汚泥に覆われていた。
「食わせろ!腹が減ったんだ!」「パンを寄越せ!王城には隠し財産があるんだろ!」
王城の正門前には、生き残った市民たちが押し寄せていた。彼らの目は血走り、手には石や棒が握られている。「怪物」から解放された安堵よりも、今日を生き延びるための飢餓感が勝っていたのだ。
「下がれ!これ以上近づくと発砲するぞ!」
ボロボロになった近衛兵が、震える手で銃を構える。一触即発。暴動が起きれば、この国は内側から自壊する。
「やれやれ。英雄の凱旋パレードどころか、債権者集会だな」
城壁の上からその様子を見下ろし、カエサルはため息をついた。彼は包帯だらけの体で、手元の帳簿(といっても、拾った紙切れ)に数字を書き殴っていた。
「食料備蓄、ゼロ。国庫、マイナス。通貨価値、紙屑以下。インフラ復旧率、10%未満。倒産どころか、夜逃げレベルだ」
隣に立つリンが、不安そうに尋ねる。「どうするの、カエサル?配給しようにも、倉庫はセドリックが儀式のために空っぽにしちゃったよ」
「力で抑え込むか?」ヴォルグが斧の柄を握る。「いや、それは悪手だ。市民を敵に回せば、復興の『労働力』を失うことになる」
カエサルは、騒ぐ群衆の前に進み出た。拡声魔法のスイッチを入れる。
「市民諸君。おはようございます。本日の朝食メニューをお知らせします」
カエサルの気の抜けた声に、群衆がざわめく。「ふざけるな!何がメニューだ!」
「本日のメニューは『絶望』です。残念ながら、倉庫にはカビた小麦粉一袋残っていません。王城の金庫にあるのは、セドリックが残した請求書だけです」
「なんだと!?嘘をつくな!」石が投げられる。カエサルはそれを避けようともせず、額に受けて血を流した。
「嘘ではありません。ですが、メニューを変える方法はあります」
カエサルは血を拭いもせず、ニヤリと笑った。
「私があなたたちに『仕事』を発注します。報酬は、将来収穫される小麦の『引換券』です。今すぐ食べるパンはない。だが、パンを作るための種はある。暴れて死ぬか、働いて生きるか。選ぶのはあなたたちです」
カエサルの提案は、常識外れだった。「現物」がない状態で、「未来の約束」だけで人を動かそうというのだ。
「信用できるか!そんな紙切れ!」男が怒鳴る。
その時王城の大扉が開き、一人の少女が現れた。泥と煤にまみれたドレスを着て、頭には黒く変色した鉄の王冠を載せている。エレナだ。
彼女は無言のまま、市民の前に進み出た。そして一人の老婆の前に跪き、その荒れた手を握った。
「ごめんなさい。今は何もあげられません。でも私は逃げません。この国が豊かになり、皆さんが満腹になるその日まで、私は一番最後に食事をとります」
エレナは近くにあった瓦礫――崩れた石柱の破片を、細い腕で持ち上げた。
「私は働きます。この国を直すために。王としてではなく、一人の掃除人として」
女王が自ら瓦礫撤去を始めたのだ。その姿に群衆は言葉を失った。きらびやかな衣装で高みから手を振るだけの王族ではない。泥にまみれ、血を流し、民と同じ目線で汗を流す指導者。
「くそっ。お姫様にこんなことさせられっかよ」
一人の若者が瓦礫を持ち上げた。「俺もやる。パンはいつか食えるんだな?」
「ええ。必ず」カエサルが答える。
一人、また一人。暴徒になりかけていた市民たちが、武器を捨て、瓦礫を運び始めた。怒号は作業の掛け声へと変わっていく。
復興作業が始まって数日。王都の広場には、仮設のテント村ができていた。市民たちは、カエサルが発行した「労働証明書(未来のパンの引換券)」を大事に懐に入れ、瓦礫の撤去と畑の耕作に精を出していた。
だが問題は山積みだった。特に深刻なのが、「物資不足」だ。
「カエサル殿。お客様です」
仮設の執務室に入ってきたのは、身なりの良い商人風の男たちだった。隣国や、帝国の商社から来た使節団だ。彼らの目は、獲物を狙うハイエナのようにぎらついていた。
「お初にお目にかかります、カエサル軍団長。いやあ、ひどい有様ですな。食料も薬もないとは」
商人の代表が、大げさに嘆いてみせる。
「我々は人道的支援を惜しみませんよ。小麦、毛布、建材必要なものはすぐに手配しましょう」
「ほう。それはありがたい。で、対価は?」カエサルが冷ややかに尋ねる。
商人は下卑た笑みを浮かべた。
「お金がないのは存じております。ですので『土地』で結構です。北の鉱山採掘権、あるいは南の港湾地区の租借権。それを我々に譲渡していただければ、すぐにでも支援物資を」
いわゆる「火事場泥棒」だ。国が弱っている隙に、重要拠点をタダ同然で買い叩き、経済的植民地にするつもりなのだ。
「ふざけるな」傍にいたヴォルグが唸る。
だがカエサルは表情を変えなかった。
「なるほど。土地、ですか。悪くない取引ですね」
「カエサル!?」リンが驚く。
「ですが、少し条件を変えましょう。あなた方が持っている物資をすべて『寄付』してください。そうすれば、この国での『商売の許可』を与えます」
「は?何を言っているんだ?」商人が呆気にとられる。
「この国は今、ゼロです。これから急速に復興需要が生まれる巨大市場だ。今恩を売っておけば、将来的に莫大な利益になる。土地を奪えば我々は敵になる。敵になれば市場は閉ざされる。どちらが得か、計算できないあなた方ではないでしょう?」
カエサルのハッタリだ。今のこの国に、そんな将来性がある保証などどこにもない。だがカエサルの目は、まるで勝者の余裕に満ちていた。
「クックック。面白い」商人の一人が笑い出した。
「死に体の国の宰相が我々を脅すとは。いいでしょう。賭けに乗りますか。ただし、期限は一年。一年以内に経済が回らなければ、借金のカタに国ごと頂きますよ」
「商談成立です」
カエサルは、悪魔のような契約書にサインをした。これで当面の物資は確保できた。だがそれは「一年以内に奇跡を起こす」という、時限爆弾のスイッチを入れたことと同義だった。
輸入物資が届き始め、市民の飢えはひとまず解消された。だが、次なる問題がカエサルを悩ませていた。
それは、セドリックが遺した負の遺産、「通貨の崩壊」だった。
「これを見ろ」
カエサルは机の上に一枚の金貨を投げ出した。セドリックが錬金術で大量生産した金貨だ。
「見た目は純金だ。だが」
カエサルが金貨に薬品を垂らすと、ジュッという音と共に、金貨は黒い灰へと崩れ去った。
「えっ!?偽物?」リンが目を丸くする。
「物質的には金に近いが、構成が不安定なんだ。時間が経つと崩壊する『時限式ゴールド』だ。市場には、これが大量に出回っている」
これが意味することは恐怖だ。今日パンを買った金貨が、明日には灰になるかもしれない。誰も貨幣を信用しなくなり、経済活動が完全にストップしていた。物々交換だけでは、都市の復興など不可能だ。
「新しい通貨を作るしかねえな」ヴォルグが言う。
「ああ。だが、何を担保にする?」カエサルは頭を抱えた。通常、通貨は金や銀、あるいは国の信用によって価値が保証される。今のこの国にはそのどれもない。
「カエサル」エレナがテントに入ってきた。彼女の手には、泥だらけのじゃがいもが握られていた。
「畑から、最初の収穫がありました。小さくて不格好ですが、味は本物です」
カエサルは、そのじゃがいもを受け取った。土の匂い。生命の重み。セドリックの作り出した、美しくも虚ろな黄金とは違う、確かな「実体」。
「これだ」
カエサルの脳内で、回路が繋がった。
「金本位制は捨てる。この国は、世界で初めての実験を行う。『カロリー本位制』だ」
翌日、広場に市民が集められた。カエサルの前には、巨大な焚き火が用意されていた。
「皆さん。懐にあるセドリック金貨や、旧王国の紙幣を出してください」
市民たちが恐る恐るお金を出す。カエサルはそれをひったくり、焚き火の中に放り込んだ。
「うわあああ!何をするんだ!」「俺たちの財産が!」
悲鳴が上がる。だが、カエサルは燃え上がる炎の前で叫んだ。
「それは財産ではない!毒だ!持っているだけで、あなたたちの生活を腐らせる呪いだ!」
カエサルは一枚の新しい紙幣を掲げた。粗末な再生紙に、エレナの横顔と、麦の穂が印刷されただけの紙切れ。
「今日からこれが新しい金だ。単位は『アース(大地)』。この紙幣は、金とは交換できない」
市民がざわめく。「じゃあ、ただの紙屑じゃないか!」
「いいや。この紙幣は、国営農場から収穫される『穀物』および『土地』と交換できる。100アースあれば、一家族が一ヶ月暮らせるだけの小麦を、政府が保証する!」
カエサルの宣言。それは、通貨の価値を「金属」という幻想から、「食料」という生存の根源に紐付ける荒療治だった。金は食えないが、麦は食える。飢えた市民にとって、これほど分かりやすく、信頼できる裏付けはなかった。
「本当に交換してくれるのか?」
「ああ。女王陛下が保証人だ」
エレナが一歩前に出る。「私の命に代えても約束します。この紙幣は、皆さんの労働と、大地の恵みの結晶です。決して紙屑にはしません」
市民たちの間に静かな熱狂が広がった。彼らは燃え尽きていく偽の黄金を見捨て、新しい紙幣「アース」を手に取る。それは彼らが自分たちの手で国を作るための、最初の道具だった。
新通貨の発行により、市場は息を吹き返した。だが、経済という生き物は単純ではない。復興需要による資材の高騰、闇市での投機。激しいインフレの波が襲いかかる。
カエサルは戦場での指揮官のように、執務室で指示を飛ばし続けた。
「ヴォルグ!北区の闇市を摘発しろ!物資の買い占めは重罪だ。見せしめに財産を没収しろ!」
「リン!輸送部隊を護衛だ!隣国からの資材が届かなければ、通貨の信用が崩れる!」
カエサルは不眠不休で働いた。彼の武器は、剣でも魔法でもなく、「金利操作」と「流通規制」。数字という弾丸で、見えない敵と戦い続ける。
「カエサル、少しは休んで」エレナがコーヒー(代用品のタンポポ茶)を持ってくる。
「休めませんよ。今気を抜けばアースは暴落し、一年後の約束が守れなくなる。そうなれば、この国は外国に切り売りされて終わりだ」
カエサルの目の下には濃いクマができていた。かつて「金がすべて」と言っていた男が、今は一銭の得にもならない国家運営のために、命を削っている。
「貴方は変わりましたね」エレナが微笑む。
「商人が、自社株の暴落を防ぐのは当然の義務です」カエサルは照れ隠しにそっぽを向いた。だがその横顔は、かつての冷徹なものではなく、職人のような真剣さを帯びていた。
季節が巡った。瓦礫の山だった王都には、簡素ながらも新しい家々が立ち並び、市場には活気が戻り始めていた。「アース」は安定し、市民たちはその日暮らしの恐怖から解放されていた。
カエサルの経済政策と、エレナの献身的な指導力が、奇跡的なスピードで国を蘇らせつつあった。
今日は正式な「復興宣言式」の日だ。王城の前広場はきれいに清掃され、数万の市民が集まっていた。
だが、主役であるエレナの姿が見当たらない。
「殿下はどこだ?」正装(といっても、修繕した軍服)のカエサルが慌てる。
「あっちだよ。まだ迷ってるみたい」リンが指差した先には、城のテラスの隅で、小さな箱を見つめるエレナがいた。
「カエサル」エレナはカエサルが近づくと、恥ずかしそうに箱の中身を見せた。そこに入っていたのは、あの「黒ずんだ鉄の王冠」だった。
セドリックが作った豪華な王冠は溶けてなくなり、残ったのは土台の鉄枠だけ。宝石の一つもついていない。錆びて、歪んで、とても一国の王が被るような代物ではなかった。
「こんなボロボロの王冠で、民の前に出てもいいのでしょうか。諸外国の使節も来ています。国の恥になるのでは」
エレナは不安げだった。国は豊かになりつつあるが、王家には新しい王冠を作る予算などない。
カエサルはその王冠を手に取った。ずしりと重い。だがその重さは、黄金の重さではない。
「殿下。宝石とは、何のためにあると思いますか?」
「え?美しさのため?権威のため?」
「いいえ。あれは『値札』です。この王にはこれだけの財力がある、という威嚇のための値札に過ぎない」
カエサルは、鉄の王冠を布で丁寧に磨いた。錆は落ちないが、鈍い銀色の光沢が浮かび上がる。
「この王冠には、値札がありません。鑑定に出せば、価値はゼロ(ゼロ・カラット)でしょう。ですが」
カエサルは、エレナの前に跪き、王冠を捧げ持った。
「貴女が、泥の中を這いずり、民と共に汗を流して手に入れた信頼。それがこの鉄には染み込んでいます。どんな巨大なダイヤモンドよりも、今の貴女にふさわしい」
エレナの瞳が潤む。彼女はゆっくりと頭を垂れた。
カエサルは、その頭に静かに王冠を載せた。
「胸を張ってください。貴女は、ゼロから価値を生み出した、世界で一番豊かな王です」
エレナがバルコニーに姿を現した。豪華なドレスではない。清潔な白いシャツと、実用的なスカート。そして頭上には、装飾のない無骨な鉄の王冠。
一瞬の静寂の後。広場を埋め尽くす市民から、割れんばかりの歓声が上がった。
「エレナ陛下万歳!」「我らの女王万歳!」
彼らは知っている。その王冠がなぜ黒いのか。その手がなぜ荒れているのか。そのすべてが、自分たちのために捧げられた犠牲の証であることを。
諸外国の使節たちも、その光景に息を呑んだ。黄金で着飾った王よりも、遥かに圧倒的な「権威」がそこにあった。
「民よ」エレナの声が響く。
「冬は終わりました。私たちは多くを失いましたが、それ以上に大切なものを得ました。それは、互いを信じ、助け合う力です」
エレナは空を見上げた。かつて紫色の雲に覆われていた空は、今は澄み渡るような青空だった。
「この王冠に誓います。私は、この国を二度と戦火には晒しません。剣ではなく、知恵と汗で、世界に誇れる国にします。さあ共に行きましょう。新しい時代へ!」
大歓声が王都を包む。カエサルはその喧騒から少し離れた場所で、リンやヴォルグと共に空を見上げていた。
「終わったな、大将」ヴォルグが笑う。
「いや、始まりだ。これから借金の返済と、本格的な黒字化計画が待っている」
カエサルは肩をすくめたが、その表情は晴れやかだった。彼の懐には一枚の羊皮紙が入っている。それは彼がこの国に来てからの、すべての収支を記録した帳簿の最後のページ。
戦争の時代は終わり、計算と建設の時代へ。
そして長い冬が終わり、季節は巡り――決算の時が来た。




