第二十六話:王血の暴走
「ガァァァァァァッ!!」
地底の第3採掘場に、人の声帯から発せられたとは思えない咆哮が轟いた。それは、空気を震わせ、岩盤に亀裂を走らせるほどの衝撃波を伴っていた。
「ひ、ひぃッ!助けてくれ!」「撃て! 撃ち続けろ!近づけるな!」
セドリック軍の機械化歩兵たちが、恐怖に顔を歪ませてトリガーを引き絞る。魔導ライフル、散弾銃、火炎放射。あらゆる火力が一点、紅蓮のオーラを纏ったエレナに集中する。
だが、無駄だった。銃弾は彼女の身体に届く前に、高密度の魔力の熱で蒸発し、炎はオーラに弾かれて霧散する。
「消えろ」
エレナが虚空を掴むように手を握りしめた。ただそれだけの動作で、空間そのものが圧縮されたかのような音が響く。
グシャァッ!!
最前列にいた十数名の兵士が、目に見えない巨大な手によって握り潰されたかのように、鎧ごとひしゃげた。悲鳴を上げる暇すらなかった。鉄屑と肉塊が混ざり合い、床に叩きつけられる。
「ば、化け物だ!逃げろ!出口へ向かえ!」
敵部隊はパニックに陥り、我先にと逃走を始めた。だが、覚醒した「竜」は獲物を逃がさない。エレナの背後から伸びた赤いオーラの翼が、鞭のようにしなり、逃げる兵士たちを薙ぎ払った。岩壁に叩きつけられ、ある者は灼熱のマグマだまりへと突き落とされる。
それは一方的な虐殺だった。戦術も、装備の差も関係ない。ただ圧倒的な「個」の力が、群れを蹂躙しているだけだ。
「おいおい、冗談だろ」
岩陰に隠れていたヴォルグが、顔面蒼白で呟いた。彼は歴戦の戦士であり、数多の修羅場を潜り抜けてきた。だが、目の前の光景は、彼が知る「戦い」の範疇を超えていた。
「あれが、あのお姫様だってのか?まるで、伝説の『災厄の竜』そのものじゃねえか」
「竜血。王家の古文書に記されていた、隔世遺伝の特質系能力だな」
カエサルは、崩れ落ちそうな岩盤を背に、冷静に――いや、必死に冷静さを保とうとして分析していた。
「初代国王ライネールは、竜の力を借りて国を平定したと言われている。だが、それは御伽噺のような英雄譚ではない。人の精神を燃料にして、物理法則を書き換える『呪い』だ」
カエサルの目には、エレナの今の状態が、暴走した原子炉のように見えていた。彼女の生命力と理性が、猛烈な勢いで魔力に変換され、消費されている。敵を全滅させるのが先か、彼女の心が焼き切れて廃人になるのが先か。どちらに転んでも、待っているのは「破滅」だ。
「カエサル!敵はいなくなったよ!でも様子がおかしい!」
リンの叫び声で、カエサルはハッとした。敵兵は全滅し、坑道内には静寂が戻るはずだった。だが、エレナの暴走は止まらない。彼女は赤い瞳をぎらつかせ、破壊すべき敵を探して彷徨っている。
そしてその視線が、隠れていたカエサルたちの方へと向けられた。
「見つけた」
エレナが低く唸る。その瞳に、かつてカエサルに向けていた信頼や慈愛の色はない。あるのは、すべてを破壊し尽くそうとする純粋な殺意のみ。
「殿下!私です!カエサルです!」
カエサルが身を乗り出して叫ぶ。だが、声は届かない。エレナにとって、動くものはすべて「排除対象」となっていた。
ズンッ!
エレナが地面を蹴った。瞬間移動のような速度でカエサルの目の前に迫る。振り上げられたその手には、致死の魔力が収束している。
「大将!危ねえッ!」
ヴォルグが横から飛び込み、戦斧でエレナの一撃を受け止めた。
ガギィンッ!!
凄まじい金属音が響き、ヴォルグの巨体がボールのように吹き飛ばされた。「ぐあぁッ!?」彼は岩壁に激突し、血を吐いて崩れ落ちる。あのヴォルグが、たった一撃で戦闘不能にされたのだ。
「ヴォルグ!」
カエサルは唇を噛んだ。逃げ場はない。戦力差は絶望的。手持ちのカードは、知識も金も通用しない。
「私の描いた絵図が、彼女をここまで追い詰めたのか」
カエサルは自嘲した。経済戦争、心理戦、そしてこの籠城戦。すべては勝利のための計算だった。だがその計算の重圧を誰よりも背負っていたのは、まだ二十歳にも満たない彼女だったのだ。王としての責任、民を守る義務、そして仲間が傷つく恐怖。それが臨界点を超え、彼女を怪物の殻に閉じ込めてしまった。
「ならば、責任を取らねばなりませんね」
カエサルは、懐から取り出しかけた魔導銃を捨てた。そしてゆっくりと両手を広げ、暴走する女王の前に立ち塞がった。
「殿下。商談の時間です」
カエサルは、赤いオーラが渦巻く死の領域へと足を踏み入れた。肌が焼けるような熱気。重力が歪み、立っているだけで骨が軋むようなプレッシャー。
「殺す」
エレナが右手を掲げる。そこから放たれた衝撃波が、カエサルの頬を切り裂き、背後の岩柱を粉砕した。 血が流れる。だが、カエサルは一歩も引かなかった。
「安いですね」
カエサルは静かに言った。
「その程度の絶望で、貴女の魂を売り渡すのですか?貴女の価値は、そんな暴落した相場ではないはずだ」
「うるさい……消えろ!」
エレナの攻撃が激しさを増す。真空の刃がカエサルの肩を、足を、脇腹を切り裂く。激痛が走る。 普通なら恐怖で足がすくむ状況だ。だが、カエサルは歩みを止めない。
(痛いな。だが、彼女が背負っていた痛みに比べれば、こんなものは経費ですらない)
彼は知っている。王宮で孤独に耐えていた彼女を。泥にまみれて民を鼓舞していた彼女を。そして誰よりも優しく、誰よりも傷つきやすい、一人の少女としての彼女を。
「リン!大将が死んじまう!援護しろ!」
倒れていたヴォルグが叫ぶ。リンはナイフを構えたが、投げることができなかった。「ダメだよ!下手な攻撃は、今の彼女を刺激するだけだ!それにあれは、二人の問題だ」
リンは唇を噛み締めて見守ることしかできなかった。カエサルはボロボロになりながらも、エレナとの距離を詰めていく。
「殿下。思い出してください。我々の契約を。『私は貴女を王にする。貴女は私に国を任せる』」
カエサルは血を吐きながら笑った。
「まだ契約は履行されていませんよ。私が商品を納品する前に、クライアントに逃げられては困るのです」
「アァァァァッ!!」
エレナが頭を抱えて絶叫した。カエサルの言葉が理性の奥底に届き、獣の本能と拮抗しているのだ。彼女の周囲で魔力が暴走し、落雷のように地面を打ち砕く。
カエサルの足元の地面が爆ぜ、彼は吹き飛ばされた。全身打撲。肋骨が数本折れたのがわかった。視界が霞む。
(計算しろカエサル。 この状況での生存確率は?ゼロだ。説得の成功率は?ゼロに近い。だが)
彼は地面を這い、再び立ち上がった。
(商人は、ゼロをイチにする生き物だ)
カエサルは、懐からあるものを取り出した。それは、かつてエレナが「王の冠なんていらない」と言って切り捨てたドレスの切れ端で作った、あの「鎖を切った獅子」の旗の切れ端ではなかった。もっと粗末な、しかし彼らにとっては何よりも価値のあるもの。
黒鉄の峰で鍛冶屋が廃材を叩いて作った、無骨な「鉄のサークレット」だ。戦闘の衝撃で外れ、地面に落ちていたそれを、カエサルは拾い上げていた。
「金貨も宝石も、貴女には似合わない」
カエサルはエレナの目の前までたどり着いた。彼の体は血まみれだったが、その瞳だけはどんな宝石よりも強く輝いていた。
「貴女に似合うのは、この傷だらけの鉄です。民と共に傷つき、共に錆び、それでも折れない鉄の意志だ」
エレナの動きが止まった。彼女の目の前で、赤い瞳とカエサルの黒い瞳が交差する。
「カエ、サル……?」
獣の咆哮ではない、微かな震える声。オーラの熱量がわずかに下がった。
今だ。カエサルは残った力を振り絞り、一歩を踏み出した。防御も回避も捨てた、完全な無防備。もしエレナが腕を振れば、彼の首は飛び、物語はそこで終わる。
だが彼は賭けた。彼女の中に眠る「エレナ・ライネール」という人間の優しさに、自身の命すべてをベットした。
カエサルは、震えるエレナの手を恐れずに掴んだ。その手は高熱を発しており、カエサルの皮膚を焦がす。だが、彼は決して離さなかった。
「熱いですね。それが、貴女が一人で抱え込んでいた怒りの温度ですか」
カエサルは優しく微笑み、もう片方の手で、鉄のサークレットを彼女の頭に乗せた。
「もう、一人で燃える必要はありません。その怒りも、絶望も、罪も。すべて、私が買い取りましょう」
カエサルは、エレナの額に自らの額をコツンと当てた。
「戻ってきなさい、私の女王。世界を変える仕事は、まだ山積みだ」
その瞬間。エレナの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「カエサルっ!私……私はッ!」
彼女の涙が頬を伝い、地面に落ちる。同時に、荒れ狂っていた赤いオーラが嘘のように霧散していった。 竜の呪いが解け、ただの一人の少女がそこに残された。
エレナは力が抜けたように倒れ込み、カエサルはそれをしっかりと抱き止めた。二人ともボロボロで、血と煤にまみれている。だがその姿は、どんな戴冠式の肖像画よりも美しく、崇高に見えた。
「へっ。やってくれるぜ、大将」
ヴォルグが痛む体を起こし、安堵の息を吐いた。リンも涙目で駆け寄ってくる。「バカ!二人ともバカだよ!心配させやがって!」
だが、感傷に浸っている時間はなかった。ゴゴゴゴゴ。 度重なる戦闘とエレナの力の暴走によって、鉱山の岩盤が限界を迎えていたのだ。天井から巨大な岩が崩落し始める。
「脱出だ!急げ!」
カエサルは意識を失ったエレナを背負い、叫んだ。「第4通気口が生きてるはずだ!そこから地上へ出る!」
一行は崩れゆく地底世界を背に、必死で走った。背後で坑道が潰れ、マグマが噴き出す。間一髪、彼らは通気口の梯子を登り、雪の積もる地表へと飛び出した。
ドォォォォォン!!
直後、地下で大爆発が起き、地面が陥没した。黒鉄の峰の地下施設は、敵兵もろとも完全に埋没し、歴史から消滅した。
早朝の冷たい空気が、カエサルの肺を刺した。彼らは雪原に倒れ込み、荒い息を整えていた。
空を見上げると、白々と夜が明けようとしている。だがその朝日は、希望の光というにはあまりにも寒々しかった。
「生き残ったのは、これだけか」
ヴォルグが周囲を見渡す。脱出に成功した兵士と民は、約一万人。三万いた勢力の、実に三分の二を失ったことになる。城塞は破壊され、物資も拠点も失った。完全な「敗走」だ。
カエサルは、背中で眠るエレナの寝顔を見た。彼女は守れた。だが、代償はあまりにも大きかった。
「カエサル」
リンが、震える声で指差した。「あれ見て」
カエサルが顔を上げ、南の方角を見る。そこには、まだ無傷の「重魔導戦車部隊」が、整然と隊列を組んで待機していた。彼らは坑道に入らず、地上で包囲網を敷いていたのだ。そしてその中央には、一際巨大な移動要塞のような指揮車が鎮座している。
指揮車の甲板にゲオルグ将軍の姿があった。彼は拡声魔法を使い、敗走したカエサルたちに向けて語りかけた。
『しぶといな、カエサル。だが、貴様らの「軍隊」は消滅した。拠点も、金も、兵力もない。あるのは、雪原に放り出された難民の群れだけだ』
ゲオルグの声は勝利者の傲慢さに満ちていたが、どこか以前とは違う「狂気」を含んでいた。
『貴様らが地下で遊んでいる間に、王都から新たな命令が届いた。セドリック閣下は、もはや「王国」という枠組みすら不要とお考えだ。全てを効率化し、全てを資源として消費する。貴様らも、その燃料の一部となるのだ』
カエサルは目を細めた。ゲオルグの背後に見える戦車群。その砲身は、もはや人間同士の戦争をするためのものではない。国そのものを解体し、別の何かに作り変えるための、無機質な工場のラインのように見えた。
カエサルは、背中のエレナを抱き直した。彼の目から光は消えていない。だが、それは以前のような計算高い商人の目ではなく、すべてを失った者が抱く昏い復讐の炎だった。
「勘違いするなよゲオルグ。我々は破産したわけではない。不良債権を整理し、身軽になっただけだ」
カエサルは雪原に一歩を踏み出した。その先には人間性を捨て、経済と軍事の怪物が融合した、真の地獄が待っている。
かつての祖国は死んだ。そこにいるのは、膨張しすぎた欲望の成れの果てだった。




