第三話:死路の損益計算書
鉄鉱山の入り口に急造された前線基地は、残酷な格差によって二つの世界に分断されていた。
一方は、防風の魔法が施された天幕が並び、焚き火の暖かな光と、焼けた肉の脂っこい匂いが漂う正規軍のエリア。そこには笑い声があり、勝利の安堵があり、「人間」の生活があった。 もう一方は、泥と排泄物の臭いが立ち込め、負傷者のうめき声だけが低く響く奴隷兵のエリアだ。風除けなどない。彼らは家畜のように身を寄せ合い、泥濘の上で震えている。
カエサルは、その境界線にある岩陰で、泥にまみれた自分の指先を凝視していた。 震えはない。だが、爪の間に入り込んだどす黒い血が、先ほどの殺戮の感触を生々しく思い出させる。 初陣で投入された奴隷兵百名のうち、五体満足で生き残ったのはわずか十二名。損耗率は八十八%。 通常の商売なら即座に撤退し、法的整理を行うレベルの大惨事だ。だが、この戦場の「オーナー」にとって、奴隷の命など帳簿に乗らない消耗品に過ぎない。
(……コスト計算が杜撰すぎる。これでは、勝利しても収支が合わない)
カエサルが冷徹に戦況を分析していた、その時だった。
「……おい、404番。貴様、呼ばれているぞ」
正規軍の下士官が、汚いものを触るように革ブーツの爪先でカエサルの肩を小突いた。 カエサルは無言で立ち上がる。疲労で鉛のように重い体を、意志の力だけで制御する。 周囲の奴隷たちが、同情と恐怖の入り混じった視線を向ける。「処刑か?」「それとも別の実験か?」という囁きが聞こえる。
連れて行かれた先は、基地の最奥。最も地盤が固く、清潔な板張りの床が敷かれた巨大な天幕――セドリック・アルビオンの指揮所だった。
「入れ」
下士官に背中を押され、天幕の入り口をくぐった瞬間、カエサルは軽いめまいを覚えた。 外の腐敗臭とは無縁の世界。最高級の香油の香りと、淹れたての紅茶の湯気。暖炉の魔道具が、快適な室温を保っている。 そこには、戦場の泥臭さなど微塵も存在しなかった。
部屋の中央には、この地方の精巧な地形図が広げられた執務机が置かれている。 その奥で、セドリック・アルビオンは優雅に脚を組み、陶磁器のカップを傾けていた。 銀の髪、陶器のような肌、一点の汚れもない純白の軍服。彼は泥まみれのカエサルが入室しても、視線すら合わせようとしなかった。
「……奴隷兵404番、参りました」
カエサルが膝をつき、深く頭を垂れる。 しばらくの間、カップをソーサーに置くカチャリという音と、ペンが書類の上を走る音だけが響いた。それは意図的な無視であり、相手を会話の通じる人間として認めていないという無言の宣言だった。
「カエサル。……先ほどの戦闘での判断、悪くはなかったぞ」
数分後、ようやくセドリックが口を開いた。だが、その声色は愛犬を褒める飼い主のそれよりも冷たく、感情が欠落していた。
「貴様に新しい仕事を与えてやる。光栄に思え」
セドリックが指を鳴らすと、控えていた従卒が、机の上に一つの木箱を置いた。 一辺が五十センチほどの、黒塗りの木箱。だが、カエサルの研ぎ澄まされた感覚は、その箱から発せられる異質な圧力を感じ取っていた。 箱の隙間から、微かな冷気と、耳鳴りのような不快な高周波が漏れ出ている。
「中身は『魔力遮断結晶』だ」
セドリックの言葉に、カエサルは息を呑みそうになるのを堪えた。 それは、国家機密レベルの戦略物資だ。展開すれば一定範囲の魔力供給を完全に遮断する希少鉱石。魔獣の巣穴を封鎖し、あるいは敵の魔法使いを無力化するための切り札。 同時に、極めて不安定な物質でもある。強い衝撃や、外部からの不用意な魔力干渉を与えれば暴走し、周囲一帯のマナを根こそぎ枯渇させる「魔力爆弾」にもなる代物だ。
「明日の正午までに、これを最奥の『第三採掘所』まで運べ。現在、あそこは魔獣の群れに包囲され、孤立している。魔力障壁の燃料も尽きかけているそうだ」
セドリックは地図上の、谷底を貫く太い赤い線を指でなぞった。
「ルートはこの『赤線』を通れ。最短距離だ。……ただし、正規軍は護衛につかない」
カエサルはようやく顔を上げ、セドリックを見た。 その瞳は、実験動物の生態を観察する科学者のように無機質だった。
「貴様らは、この結晶の運搬者であると同時に、囮も兼ねている」
セドリックは悪びれもせずに続けた。
「魔獣は強い魔力に惹かれる習性がある。その結晶を持っていけば、谷中の魔獣が餌に群がる虫のように貴様らを襲うだろう。……その隙に、我が本隊は別ルートから安全に進軍し、手薄になった魔獣の背後を突く」
あまりに合理的で、反吐が出るほど非人道的な作戦だった。 生き残ったわずかな奴隷兵と、高価な結晶を天秤にかけ、さらにそれを「撒き餌」として使う。 成功すれば、正規軍は無傷で勝利を得る。失敗しても、失うのは「補充可能な奴隷」と「保険をかけた結晶」だけ。 セドリックにとって、これはリスクゼロの完璧な投資なのだ。
「……質問は?」
「……報酬は、いかほどでしょうか」
カエサルの問いに、セドリックは呆れたように眉を上げた。執務の手が止まる。 奴隷が、主人に対して条件闘争をするなど、この世界の常識ではあり得ない。
「貴様、立場を弁えているのか? 奴隷ごときが対価を求めるな。命令拒否は即時処刑だぞ」
「いいえ。取引の確認です、閣下」
カエサルは床を見つめたまま、しかし声には鋼の意思を込めた。
「ハイリスクな案件には、それに見合うリターンが提示されなければ、現場の士気に関わります。士気の低下は、任務遂行率の低下に直結します。それは閣下にとっても損失のはず」
カエサルは怯まなかった。ここで引けば、ただの使い捨ての道具で終わる。商談のテーブルにすら着けない。 セドリックは鼻で笑い、食べかけの干し肉を皿から放り投げた。 それは乾いた音を立てて床を転がり、カエサルの膝元で止まった。泥のついた床の上にある、一片の肉。
「……面白い理屈だ。よかろう」
セドリックは、慈悲深い王を演じるように言った。
「成功すれば、明日の夕食に肉をつけてやろう。それと、生き残った部下には新しいブーツくらいは支給してやる。……私の慈悲に感謝しろ」
肉一切れと、命の交換。 市場価格と比較するまでもない、詐欺同然の不当契約。 だが、今のカエサルに拒否権はない。契約を成立させ、生き延びるチャンスをもぎ取るしかない。
「……商談成立です、閣下」
カエサルは恭しく頭を下げ、床の肉を拾うことなく、木箱と地図の写しを受け取った。 木箱はずっしりと重く、まるで死神の頭蓋骨を持っているかのようだった。
「精々励めよ、道具。……壊れるなら、私の役に立ってから壊れろ」
背中に突き刺さる冷笑を感じながら、カエサルは天幕を出た。 夜の冷気が頬を刺す。 赤字だ。圧倒的な赤字案件だ。だが、商機がないわけではない。 カエサルは、渡された地図を握りしめた。
(……甘いな、お坊ちゃん。契約書にサインした以上、成果は俺のやり方で出させてもらう)
「お、おい……カエサル……」
奴隷兵たちのたまり場に戻ったカエサルを、生き残った数名が不安げに取り囲んだ。 泥と血にまみれ、瞳から光を失った男たち。その中には、前回の戦闘でカエサルに助けられた少年兵――トビの姿もあった。彼は恐怖で青ざめ、小刻みに震えている。
「隊長に呼ばれてたけど……何を言われたんだ? 俺たち、またあの森に戻るのか? もう嫌だ、もう戦いたくない……」
カエサルは無言で、セドリックから預かった木箱を地面に置いた。 ドサリ、という重い音が、周囲の空気を一層重くする。
「任務だ。明日の正午までに、この箱を第三採掘所へ運ぶ」
カエサルは手元の地図を広げ、月明かりの下で仲間たちに見せた。 彼が指差したのは、セドリックが指定した「赤線」のルート――比較的道幅が広く、平坦な渓谷を真っ直ぐに抜ける道だった。
「貴族様は、ここを通れと言っている」
「こ、ここなら……」 年配の奴隷兵が、すがるような目で地図を覗き込む。 「道幅も広いし、森の中よりは見通しがいい。これなら、なんとかなるんじゃないか?」 「そうだよ、正規軍も後から来るって言うし……」
彼らは縋りたかったのだ。貴族の命令に従えば、わずかでも生存の可能性があるという幻想に。 思考を停止し、従順な家畜になれば、飼い主が守ってくれると信じ込みたかったのだ。 だが、カエサルはその幻想を、冷徹な事実で粉砕した。
「ああ、歩きやすいだろうな。魔獣にとってもな」
カエサルの冷ややかな声に、場の空気が凍りついた。 彼は地図の上に、足元の小石を数個拾って並べた。
「見ろ。この渓谷は『風の通り道』だ。上流からの魔力がここに溜まる構造になっている。俺たちのような魔力を持たない人間には快適かもしれないが、魔獣にとっては極上の餌場だ」
カエサルは、行軍中に感じ取った大気の淀みと、父の書斎で盗み読んだ『魔物生態学』の知識、そして先ほどの戦闘で見せた魔獣の連携パターンを統合していた。
「セドリックはそのことを知っている。だからこそ、このルートを指定した」
カエサルは地図上の赤線を、ナイフの切っ先でなぞった。
「この箱の中身は、魔力を遮断する結晶だ。だが、運搬中は微量の高周波魔力を発する。……つまり、ここを通れば、俺たちは暗闇の中で鐘を鳴らして歩く『動く餌』になる」
カエサルはトビの顔を見た。
「四方八方から魔獣が湧いてくるぞ。正規軍はその間に、安全な高台から見物する腹積もりだろうよ。……俺たちは、奴らのための生贄だ」
「そ、そんな……じゃあ、どうすればいいんだ!?」
トビが泣きそうな顔で叫ぶ。 「行けば食われる、行かなくても命令違反で殺される……! 結局、俺たちは死ぬしかないのかよ!」
絶望が伝染する。泣き崩れる者、怒りで地面を叩く者。 「畜生! なんで俺たちがこんな目に!」 「親父の借金なんて、俺には関係なかったのに!」
彼らの嘆きはもっともだ。だが、嘆いても現実は変わらない。 市場は冷酷だ。弱者の事情など斟酌しない。 生き残りたければ、ルールの穴を突くしかない。
カエサルは彼らのパニックを静かに見据え、そして地図の端にある、誰も見向きもしない「黒いギザギザの線」を指差した。
「ここを通る」
そこは、断崖絶壁に沿って続く、かつての廃坑道へ繋がる獣道だった。 地図の等高線は異常に密で、道幅は人一人がやっと通れるかどうか。地図上では明確に「通行不能」の印が打たれている。
「バ、バカな! ここは崖じゃないか!」 年配の兵が叫ぶ。 「落ちたら即死だぞ! こんな道、まともな人間が通れるわけがない!」
「その通りだ」
カエサルは頷いた。その瞳は、月光を受けて鋭く光っていた。
「まともな人間なら通らない。だからこそ、魔獣も罠を張らない」
カエサルの論理は、あまりに冷徹で、かつ合理的だった。 魔獣は賢い。獲物が通る確率の高い場所に巣を作り、待ち伏せをする。 だが、獲物が絶対に通らない断崖絶壁に、わざわざ労力を割いて罠を張る捕食者はいない。
「ここなら、敵は魔獣じゃなく、重力だけだ」
カエサルはトビの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「魔獣の待ち伏せ(アンブッシュ)に遭えば、生存率はゼロだ。どんなに剣術があろうと、数で圧殺される。……だが、重力は違う。注意深く足を運び、恐怖心を管理すれば、回避できるリスクだ」
「で、でも……」
「俺は商人だ。勝ち目のない博打は打たない。……俺は、生き残るためにこのルートに投資する」
カエサルは木箱を背負い上げた。四十キロ近い重量が肩に食い込むが、表情一つ変えない。
「お前たちに強制はしない。赤線を行きたい奴は行けばいい。……だが、生きてそのブーツを履き続けたいなら、俺についても来い」
カエサルは背を向け、闇の中へと歩き出した。 迷いはない。彼にとって、これは賭けではなく、最もリターンの高い選択肢を選ぶ「業務」に過ぎない。
数秒の沈黙。 風が吹き抜け、焚き火の爆ぜる音が響く。 そして、ジャリ、と砂利を踏む音が続いた。
最初はトビだった。 「……信じるぞ、カエサル。死んだら化けて出てやるからな」 続いて、他の奴隷たちも、震える足でカエサルの背中を追う。彼らは悟ったのだ。この男についていくことだけが、唯一残された希望なのだと。
「安心しろ。幽霊になっても、俺の計算能力は変わらん」
カエサルは振り返らずに答えた。 こうして、十三人の死出の旅が始まった。
野営地の監視塔に立つ見張り兵は、焚き火の前で居眠りをしていた。 奴隷たちが逃げ出すはずがないという油断と、正規軍特有の傲慢さが、彼らの目を曇らせていた。
カエサル率いる小隊は、物音一つ立てずに柵の切れ目を抜けた。 彼らの足には、カエサルが指示して作らせたボロ布が何重にも巻かれている。これにより足音は消え、同時に滑りやすい岩場でのグリップ力も増していた。
森を抜け、岩場を登り、彼らは目的の地点へとたどり着く。 そこは、断崖絶壁の入り口だった。
「……冗談だろ」
誰かが呻いた。 目の前に広がるのは、道と呼ぶにはあまりに頼りない、岩壁にへばりついたわずかな出っ張りだった。 幅は三十センチほど。左手は垂直に切り立った岩壁、右手は底の見えない漆黒の闇が広がる奈落。 谷底から吹き上げる風が、彼らの髪を乱暴に撫で上げ、体を谷底へと引きずり込もうとする。
「ここを……荷物を持って渡るのか?」
トビが絶望的な声で問う。 カエサルは背中の木箱の位置を直し、重心を確認した。 箱の中の「魔力遮断結晶」は、衝撃を与えれば爆発する。つまり、一度でも転べば、全員が吹き飛ぶということだ。
「足元を見るな。……前だけを見ろ」
カエサルは静かに告げた。
「人間の脳は、高さを認識すると恐怖で身体を硬直させる。だから、深さを測るな。ただ、次に足を置く岩の形だけを見ろ」
カエサルは先頭に立った。 彼が最初の一歩を踏み出さなければ、誰も続けない。 一歩。 ブーツの裏が岩を噛む感触。風が体を揺らす。 カエサルの脳裏に、かつて父に教わった言葉が蘇る。
『相場が荒れた時こそ、商人は冷静であれ。嵐の中で舵を離せば、船は沈む』
(そうだ。ここは嵐の中だ。だが、舵は俺の手にある)
カエサルは二歩目を踏み出した。 毎晩、睡眠時間を削って振り続けた重剣の負荷トレーニング。 奴隷仲間から「狂人」と笑われたあの無謀な訓練が、今の彼の体幹を鋼のように支えていた。 重心がブレない。足の運びが正確だ。四十キロの荷物を背負っているとは思えないほど、その動きは洗練されていた。
「続くぞ。……俺の足跡をなぞれ」
カエサルが振り返ると、奴隷たちは恐怖に顔を引きつらせながらも、必死に彼に続こうとしていた。 ここを引き返せば、待っているのは魔獣の牙か、処刑人の斧だ。 進むしかない。この細い糸のような道だけが、未来へと繋がっている。
「カエサルさん……」 トビが震える声で呼ぶ。
「なんだ」
「……あんた、怖くないのか?」
カエサルは一瞬、谷底の闇を見下ろした。 怖い? もちろん怖い。 心臓は早鐘を打ち、掌は脂汗で濡れている。一歩間違えれば死ぬ。その事実が、生物としての本能を警報のように鳴り響かせている。
だが、それ以上に、カエサルの胸には熱いものが渦巻いていた。 それは、自分の運命を、他人に委ねずに自分で切り開いているという高揚感だった。
「……怖くはないな」
カエサルはニヤリと笑った。暗闇の中で、その白い歯だけが浮かび上がった。
「これは『投資』だ、トビ。リスクのない投資に、リターン(利益)はない。……俺たちは今、自分の命を使って、最高の賭けをしているんだ」
「……変な人だ」 トビは少しだけ笑ったようだった。「でも、あんたが言うなら、勝てる気がするよ」
「ああ。勝つぞ。……この闇を抜けて、必ず夜明けを拝む」
カエサルは前を向いた。 風が強くなる。 奈落が口を開けて待っている。
「行くぞ。……契約履行の時間だ」
カエサルが大きく踏み出したその先で、風が獣のように吠えていた。 彼らの運命を分ける、決死の綱渡りが始まろうとしていた。




