第二十二話:二つの玉座
王都セントラル。かつて「大陸の宝石」と謳われたこの美しい都は、今や重苦しい空気に包まれていた。 街の至る所に武装した兵士が立ち、市民たちは息を潜めるように道を歩いている。酒場の笑い声は消え、市場の活気は失われた。あるのは、密告への恐怖と、明日への不安だけだ。
その中心にある王城の大広間では、煌びやかで、しかしどこか空虚な儀式が執り行われていた。
「――これより、セドリック・アルビオン公爵閣下を、王国の『終身護国卿』に任ずる!」
式部官の声が響き渡ると、整列した貴族たちが一斉に頭を垂れた。玉座の前。 豪奢なマントを羽織り、傲然と立つ男。セドリック・アルビオン。彼はまだ「国王」の称号は名乗っていない。行方不明のエレナ王女が生きている以上、即位は形式上の問題を孕むからだ。だが、その権力は既に王を超えていた。
「面を上げよ」
セドリックが鷹揚に手を振る。彼は玉座に腰を下ろした。父王が座っていた場所。エレナが座るはずだった場所。そこに座った感触は、征服者だけが味わえる甘美な震えを彼にもたらした。
(ついに手に入れた。この国は、私のものだ)
セドリックは広間を見渡した。ひれ伏す貴族たちの顔には、忠誠心よりも「恐怖」が張り付いている。 逆らう者は処刑した。カエサルに協力した商家は焼き払った。恐怖こそが秩序だ。彼はそう信じていた。
「諸君。我が国は今、危機に瀕している」
セドリックは演説を始めた。その声は朗々と響き、広間の隅々まで染み渡る。
「北の僻地にて、逆賊カエサルと、その傀儡となった『偽の王女』が反旗を翻した。彼らは秩序を乱し、平穏を脅かすテロリストだ。だが、恐れることはない」
セドリックは立ち上がり、剣を掲げた。
「我が軍は十五万。対する賊軍は、寄せ集めの三万に過ぎない。春の訪れと共に、私は自ら大軍を率いて北へ向かう。そして、逆賊どもを雪原の露と消し去りこの国に永遠の繁栄をもたらすことを誓おう!」
「セドリック閣下万歳! 新生王国万歳!」
貴族たちが唱和する。拍手の音は大きいが、目が笑っていない者も多い。彼らは知っているのだ。この「繁栄」が、異常な増税と、地方からの過酷な徴収の上に成り立っていることを。だが、誰も声を上げない。上げれば、「黒犬」と呼ばれる暗殺部隊が夜中に訪問してくることを知っているからだ。
儀式の後、軍議室にて。セドリックは、上機嫌でワインを煽っていた。
「どうだ、私の演説は。完璧だったろう?」
「はっ。閣下のカリスマに、貴族どもも震え上がっておりました」
側近が揉み手をして答える。だが、部屋の隅で腕を組んでいた一人の男だけは、浮かない顔をしていた。 帝国から派遣された軍事顧問、ゲオルグ将軍だ。
「何か言いたげだな、将軍」
「閣下。カエサルという男を、侮ってはなりません」
ゲオルグは重々しく口を開いた。
「奴は、私の『教え子』のようなものです。正規の戦術論は無視するが、盤面をひっくり返すことにかけては天才的な嗅覚を持っている。十五万対三万という数字だけで安心するのは危険です」
「フン。またその話か」
セドリックは鼻で笑った。
「カエサルは優秀な『兵站屋』だったかもしれんが、所詮は小細工師だ。物量という絶対的な暴力の前では、小細工など無意味だ。それに、奴らには『金』がないだろう?」
セドリックは、テーブルの上の地図――北の山岳地帯を指差した。
「北部は資源こそあるが、農作物は育たず、商業都市もない。三万の兵を養うには、莫大な維持費がかかる。春になる頃には、奴らは飢えと寒さで自滅しているさ」
セドリックの分析は、常識的に考えれば正しかった。戦争は金だ。王都の富を独占しているセドリックと、雪に閉ざされたカエサル。経済力の差は、大人と赤子ほどもある。
「だと、良いのですが」
ゲオルグは消えない不安を胸に抱いていた。(カエサルは、勝てない喧嘩はしない男だ。奴が北に籠もったということは、そこに『勝機』を見出したということ。一体、何を企んでいる?)
その頃、王都の城下町では、異変が起き始めていた。パン屋の前に行列ができ、怒号が飛び交っている。
「おい!昨日より値段が上がってるじゃねえか!」「小麦が入ってこないんだよ!嫌なら買うな!」
物価の高騰。セドリックが軍備増強のために大量の物資を買い占め、さらに地方からの輸送路が(カエサルのゲリラ戦術によって)不安定になっているためだ。
「ちくしょう……これじゃ生活できねえ」「王様が変われば良くなるって聞いてたのに……」
市民の不満は、マグマのように地下で溜まり始めていた。だが、セドリックはまだ気づいていない。彼が見ているのは「軍隊の数」と「金庫の金貨」だけであり、その価値を支えている「民の信用」が揺らぎ始めていることに。
そして、その亀裂こそが、カエサルが狙う一点突破の「急所」だった。
王都から北へ五百キロ。極寒の地にある城塞都市「黒鉄の峰」。王都の華やかさとは対照的に、ここは鉄と雪、そして熱気に満ちていた。
「いっちに! いっちに!」「気合入れろ! 春には王都へ攻め込むぞ!」
城壁の内側では、早朝から兵士たちが訓練に励んでいる。彼らの装備はバラバラだ。王軍から奪った鎧、農具を改造した槍、猟師の弓。だが、その目には光があった。「やらされている」のではない。「自ら戦う」という強烈な意志が、この軍隊の背骨となっていた。
司令室のバルコニーから、その様子を見下ろす二つの影があった。カエサルと、エレナだ。
「良い軍になりましたね」
カエサルが白い息を吐きながら言った。
「彼らは知っています。自分が何のために戦うのかを。給料のためでも、恐怖のためでもない。自分の家族と、未来を守るための『投資』として、命を賭けている」
「ええ。責任を感じます」
エレナは、手すりを強く握りしめた。彼女の服装は、以前のような豪華なドレスではない。動きやすい軍服に、シンプルなマント。そして頭には、宝石のついていない、鉄を叩いて作った無骨な「鉄のサークレット」が乗せられていた。
「カエサル。私は、本当に王になれるのでしょうか?」
「なれますよ。いや、もう『なっている』」
カエサルは、エレナの方を向いた。
「王都にいるセドリックは、玉座に座っているだけの『支配者』です。ですが、貴女は民と共に泥にまみれ、同じ釜の飯を食っている『指導者』だ。どちらが本物の王か、歴史が証明するでしょう」
その日の午後。 城塞の中庭に、三万の将兵と、避難してきた数万の民衆が集められた。雪がちらつく中、特設の演台にエレナが立つ。華美な装飾はない。だが、その凛とした姿は、どんな宝石よりも輝いて見えた。
「同志たちよ!」
エレナの声が響く。
「私はかつて、王城の奥で何も知らずに生きていた、無力な人形でした。ですが、この地に来て、貴方たちの強さを知りました。寒さに耐え、理不尽に抗い、それでも明日を信じて生きる……その尊さを知りました」
民衆が静まり返り、彼女の言葉に聞き入る。
「セドリックは言いました。力こそが正義だと。ならば、私たちは証明しましょう。『絆』こそが最強の力であり、『信頼』こそが国家の礎であることを!」
エレナは腰の剣を抜き、天に掲げた。
「私はここに宣言します!本日より、この地を『エスタード自由国』とし、王都の偽りの政府を否定する!我々の目的は、王位の奪還ではない。この国に生きるすべての人々を、搾取と恐怖から解放することである!」
「うおおおおおおおおッ!!」「女王陛下万歳!」「自由国万歳!」
歓声が、雪雲を吹き飛ばすほどの勢いで上がった。それは、単なる戴冠式ではない。新しい国家、新しい社会契約の誕生宣言だった。
その熱狂を、少し離れた場所から冷ややかに見つめる男たちがいた。カエサルと、彼の幕僚たちだ。
「盛り上がってるところ悪いが、現実は厳しいぜ、大将」
ヴォルグが腕を組み、渋い顔をする。
「士気は最高だ。だが、腹は減る。食料の備蓄はあと三ヶ月分。武器も足りねえ。特に魔導兵器の数は、向こうが十倍以上だ。精神論だけで勝てる相手じゃねえぞ」
「分かっている」
カエサルは、手元の手帳を開いた。そこには、びっしりと数字が書き込まれている。兵站、補給路、敵の配置、そして「為替レート」。
「ヴォルグ。戦争には二つの種類がある。一つは、剣と魔法で相手の命を奪う『物理戦』。もう一つは相手の生きる基盤そのものを腐らせる『概念戦』だ」
カエサルは不敵に笑った。
「正面からぶつかれば、我々は三日で全滅する。だから、正面からは戦わない」
「はぁ?じゃあどうやって勝つんだよ。魔法で隕石でも落とすのか?」
「もっと恐ろしいものを落とすさ」
カエサルは手帳を閉じた。
「セドリックの最大の武器は『金』だ。奴は金で兵を雇い、金で貴族を縛り、金で物資を集めている。ならば、その『金』を紙切れに変えてしまえばいい」
カエサルの瞳の奥に、冷徹な光が宿る。それは、戦場で見せる狂気とは違う。商人が、競合他社を完全に潰すと決めた時の、静かで残酷な光だった。
「行くぞ。作戦会議だ。この国の経済を殺すための、処方箋を書く」
夜。城塞の地下にある作戦指令室。部屋の中央にある巨大な地図を囲み、カエサル、エレナ、ヴォルグ、リン、そして北部の有力諸侯たちが顔を揃えていた。
空気は重い。地図の上に置かれた駒の数は、圧倒的に赤(セドリック軍)が多く、青(自由国軍)は北の端に追い詰められているように見える。
「春の雪解けと共に、セドリック軍十五万が北上を開始する」
元帝国軍人の参謀が、杖で地図を示した。
「敵の主力は、重装機甲師団と、宮廷魔導師団。平地での会戦になれば、我が軍の歩兵部隊は一瞬で蹂躙されます。籠城したとしても、補給路を断たれれば干上がるのは我々の方です」
「勝算は万に一つもありません」
諸侯たちが沈痛な面持ちで俯く。エレナもまた、唇を噛み締めていた。精神論で兵は鼓舞できても、物理的な戦力差はどうにもならない。
「ふむ。随分と悲観的ですね」
沈黙を破ったのは、カエサルだった。彼はコーヒーカップを片手に、まるで他人事のように呟いた。
「カエサル殿!貴方はこの状況を分かっているのか!」「何か策があるなら早く言ってくれ!」
諸侯たちが詰め寄る。
「策ならありますよ。ただし、剣は使いませんが」
カエサルはテーブルの上に、一枚の硬貨を放り投げた。チャリン、と乾いた音が響く。セドリックの横顔が刻印された、新しい「新王金貨」だ。
「敵の強さは、その巨大な『軍事費』にあります。十五万の兵を養うには、一日で小さな城が買えるほどの金が消えていく。セドリックは今、その費用を捻出するために、強引な増税と『通貨の改鋳』を行っています」
カエサルは金貨を指差した。
「この金貨、以前のものより色が薄いと思いませんか? 金の含有量を減らし、混ぜ物を増やしているのです。同じ量の金で、より多くの枚数を作るためにね」
「それがどうしたというのだ?」諸侯の一人が首を傾げる。
「信用、ですよ」
カエサルはニヤリと笑った。
「通貨の価値とは、国家への信用そのものです。セドリックは今、目先の軍資金を作るために、未来の信用を切り売りしている。これは、巨大な風船のようなものです。膨らめば膨らむほど、針の一突きで破裂する」
カエサルは、部屋の奥から木箱を運ばせてきた。「開けてみてください」
諸侯がおそるおそる箱を開ける。中に入っていたのは、武器でも魔道具でもない。大量の、印刷された「紙」だった。
「紙? 何だこれは?」
「『自由国証券』です」
カエサルは一枚を手に取り、説明した。
「我々はこれから、この証券を担保に、物資やサービスを取引します。そして、この証券の価値を『絶対的なもの』にするために、ある魔法をかけます」
「魔法だと?」
「ええ。セドリックの金貨を『ゴミ』にする魔法です」
カエサルは地図上の「王都」にナイフを突き立てた。
「我々は、軍事的な防衛戦を行いつつ、経済的な攻撃を仕掛けます。具体的には、偽情報の流布、主要物資の買い占め、そして……この『新通貨』を使った為替操作です」
カエサルが語る作戦は、諸侯たちの理解を超えていた。だが、その恐ろしさは本能的に理解できた。それは、敵を殺すのではなく、敵の社会そのものを崩壊させる計画だった。
「セドリック軍は、戦う前に負けることになります。彼らの持つ金貨で、パン一つ買えなくなるのですから」
会議の最後。 カエサルは全員の顔を見回し、静かに告げた。
「これは、血の流れない戦争ではありません。飢える者、破産する者、絶望する者が、敵国に溢れるでしょう。それでも、やりますか?殿下」
エレナは少しの間、目を閉じた。そして、カッと目を開き、カエサルを見据えた。
「やりましょう。セドリックの圧政を終わらせるためなら、私は悪魔の手でも借ります。ただし、その罪は、王である私が全て背負います」
「了解しました。では、契約成立です」
カエサルは不敵な笑みを浮かべ、手に持っていたセドリックの金貨を指で弾いた。金貨は空中で回転し、床の隙間に落ちて消えた。
「ヴォルグ、リン。準備はいいな?工作部隊を南へ送れ。噂を流せ。『王都の金はもうすぐ紙屑になる』とな」
カエサルは立ち上がり、新しい「紙幣」の束を掴み取った。それは、剣よりも鋭く、魔法よりも広範囲を焼き尽くす、近代戦最悪の兵器。
「さあ、始めようか、セドリック。インフレという名の攻城兵器で、貴様の城を内側から溶かしてやる」




