第二話:在庫処分の行軍
死地へ向かう足音だけが、湿った土を踏み鳴らしていた。
奴隷兵団が進む先は、エスタード王国の国境付近に広がる「鉄鉱山資源地帯」。 通常の森とは違う。大気中に充満する過剰な魔素の影響で、樹木は捻じ曲がり、葉は鉄錆のような赤褐色に変色している。吸い込む空気すらも金属の味がした。
カエサルは、縦列の中ほどに位置取りしていた。 先頭は「即死」のリスクが高すぎる。最後尾は督戦隊である正規兵に「遅延」を理由に斬られるリスクがある。 統計的に生存率が最も高いのは、全体の30%から40%の位置――いわゆる「集団の腹」だ。
「おい、見ろよ……あの木、動いてねぇか?」
前を歩く痩せこけた少年兵が、震える指で森の奥を指差した。 周囲の奴隷たちが過敏に反応し、列が乱れかける。
「余計な口を叩くな、進め!」
後方の正規兵が怒鳴り、威嚇射撃の矢が少年兵の足元に突き刺さった。 少年は小さな悲鳴を上げて、再び泥まみれの足を動かす。
カエサルは無言で、少年が指差した闇を見据えた。 動いていたのではない。あれは「擬態」だ。 商人時代の父の書斎で盗み読んだ『魔物生態学』の記述が、脳内の引き出しから検索される。
(植生に紛れているが、あれは植物じゃない。……《シャドウ・クロウ》。群れで狩りをする中型の魔獣だ)
カエサルは鼻を鳴らすことなく、呼吸を浅く、静かに整えた。 風向きは向かい風。獣の臭いが漂ってくる。腐肉と、古い油のような独特の悪臭。
(臭いの濃度からして、数は少なくとも二十。……完全に包囲されているな)
正規兵の指揮官たちも、恐らく気づいている。気づいていながら、奴隷兵という「安価な探知機」を先に進ませ、魔物が飛び出してくる位置を特定しようとしているのだ。
これは戦争ではない。 不良在庫を使った、ただの「地雷処理」だ。
カエサルは、手にした錆びついた剣の柄を、布切れできつく縛り直した。手汗で滑るという初歩的なミスは、即ち死(破産)を意味する。
(来るぞ)
カエサルの背筋に、氷のような戦慄が走った瞬間だった。
「ギャァァァァッ!!」
先頭を歩いていた男の悲鳴が、森の静寂を切り裂いた。 それを合図に、左右の茂みから黒い影が弾丸のように飛び出した。
「敵襲! 敵襲だぁぁっ!」 「うわぁぁ! 来るな、助け――!」
《シャドウ・クロウ》だ。 体長は狼ほどだが、全身がカラスのような硬質の黒い羽毛に覆われ、両腕には鋭利な鉤爪がついている。 奴らは驚くべき跳躍力で奴隷兵の首筋に飛びかかり、その鋭い嘴で喉笛を正確に抉り取っていく。
一瞬にして、隊列は崩壊した。 鮮血がスプリンクラーのように撒き散らされ、逃げ惑う奴隷兵たちが将棋倒しになる。
「陣形を崩すな! 盾を構えろ! 盾を……ぐあっ!?」
叫ぼうとした小隊長格の奴隷が、三匹の魔獣に同時に飛びかかられ、肉塊へと変わる。 指揮系統は開戦から五秒で消滅した。
カエサルは動かなかった。いや、闇雲には動かなかった。 パニックになった周囲の奴隷兵が右往左往する中、彼は重心を極限まで低くし、半身の姿勢で「静止」していた。
(動体視力だけに頼るな。予測線を見ろ)
魔獣は、背中を見せて逃げる獲物を優先的に狙う習性がある。 今、悲鳴を上げて逃げ出した者たちは、自ら「私を食べてください」と広告を出しているようなものだ。
カエサルの目の前で、逃げようとした男が背後から襲われた。 男の体が盾になる。魔獣の爪が男の背肉に食い込み、動きが止まる。
(今だ。投資のタイミングは、ここしかない)
カエサルは地を蹴った。 昨夜までの「重い剣」の記憶が、筋肉に残っている。今、手にある錆びた剣は、羽のように軽い。
「シッ!」
短く息を吐き、男に噛み付いている魔獣の無防備な脇腹へ、最短距離で剣を突き入れる。 硬い羽毛の隙間、肋骨の下。魔獣の急所だ。 手応えがあった。刃が内臓を突き破る、嫌な感触。
「ギャッ……!?」
魔獣が驚愕に目を見開くのと同時に、カエサルは剣を引き抜き、返り血を浴びながらその場を転がって離脱した。 欲張って追撃はしない。一撃離脱。
確殺した。 だが、安堵している暇はない。血の臭いが、さらなる捕食者たちを呼び寄せている。
「……赤字が大きすぎる現場だ」
カエサルは血を拭うこともせず、次の獲物が飛びかかってくる軌道を予測し、泥まみれの戦場で剣を構え直した。 彼の計算機の中では、生き残るための方程式がフル回転していた。
剣を構え直したカエサルの視界の隅で、先ほどの少年兵が尻餅をついたまま、迫りくる黒い影に絶叫していた。
「ひぃっ、嫌だ、嫌だぁ!」
魔獣は少年の怯えを楽しみ、喉笛を噛みちぎろうと口を大きく開ける。 カエサルは舌打ちをした。 少年を助けたいという人道的な慈悲ではない。ここで彼が死ねば、右翼側の「壁」がなくなり、カエサル自身の死角が増える。それは損害だ。
カエサルは泥を蹴り、少年の襟首を掴んで強引に引きずり倒した。魔獣の牙が空を切る。
「立て! 槍を拾え!」
カエサルは怒鳴りつけながら、空振って体勢を崩した魔獣の脳天に、全体重を乗せた剣の柄頭を叩きつけた。ゴシャッ、と頭蓋が砕ける鈍い音が響く。
「え、あ……」 「走るな! 背中を見せれば即座に『処分』されるぞ! 生きたければ背中を合わせろ! 円陣を組め!」
カエサルの声は、悲鳴と咆哮が支配する戦場で、異質なほど冷静に響いた。 それは指揮官の命令というより、混乱した市場で暴落を食い止めようとする現場監督の指示に近かった。
パニックに陥っていた周囲の奴隷兵数人が、カエサルの迷いのない声に本能的に反応した。彼らは震えながらも集まり、互いの背を守るように武器を外へ向ける。
「そうだ、闇雲に振るな。奴らが飛びかかってきた瞬間だけ突き出せ!」
即席の防衛線が完成した。 孤立していた時は次々と狩られていた奴隷たちが、密集したことで「棘のある塊」へと変わる。魔獣たちは攻めあぐね、威嚇するように周囲を回り始めた。
(よし、持ち堪えた。だが……)
カエサルは乱れた呼吸を整えながら、冷や汗を流した。 これで時間は稼げる。だが、決定打がない。このままジリ貧になれば、いずれ疲労で陣形が崩壊し、全滅(倒産)だ。
その時だった。
ドォォォォン!!
凄まじい轟音と共に、森の奥から灼熱の火球が着弾した。 カエサルたちの目の前で群れていた魔獣たちが、一瞬にして爆炎に飲み込まれ、炭化して吹き飛ぶ。
「な……!?」
熱波に煽られ、カエサルは顔を覆った。 圧倒的な破壊力。そして、鼻をつくオゾンと焦げた肉の臭い。 これが「魔法」だ。選ばれた血統のみが持ち得る、理不尽なまでの暴力装置。
「遅いぞ、雑魚ども。露払いにどれだけ時間をかけている」
炎の向こう側から、蹄の音が近づいてくる。 現れたのは、白銀の甲冑を纏い、美しい白馬に跨った一団。泥まみれの奴隷兵とは対照的に、彼らの装甲は一点の曇りもなく輝いている。
その先頭に、冷ややかな瞳をした青年将校がいた。 セドリック・アルビオン。
彼は燃え上がる魔獣の死骸を一瞥もしない。手にした杖から残り火の粉を払いながら、生き残ったカエサルたちを見下ろした。
「ほう。全滅しているかと思ったが……奇妙な陣形だな」
セドリックの視線が、円陣の中心にいたカエサルを射抜く。 カエサルは即座に剣を収め、その場に膝をついて頭を垂れた。他の奴隷兵たちも慌ててそれに続く。
「奴隷兵番号404、カエサル。……現場の混乱を収拾し、戦力を維持するための緊急措置でした」
カエサルは地面の泥を見つめながら、抑揚のない声で報告した。 セドリックは馬を進め、カエサルの目の前で止まる。見上げることすら許されない威圧感。
「誰が指揮を執れと言った? 道具が勝手に思考するな」
冷徹な声が降ってくる。 セドリックは、カエサルが命がけで作った防衛線を評価していない。むしろ、道具が持ち主の意図を超えて動いたことに不快感を示している。
「申し訳ございません。しかし、ここで我々が壊滅すれば、閣下の高貴な軍靴が、魔獣の返り血で汚れる恐れがありましたゆえ」
カエサルは言葉を選んだ。命乞いではなく、相手の利益を提示する。 セドリックは一瞬、眉をひそめた後、鼻で笑った。
「……口の減らない道具だ。だが、理屈は通っている」
セドリックは馬首を巡らせ、後続の正規兵たちに合図を送った。
「進軍を再開する。この先の坑道入り口まで、再びこいつらを先頭に立たせろ。生き残った運の良さを、精々私のために使い潰すがいい」
そして、去り際にカエサルへと言い捨てる。
「貴様、名は?」 「カエサルであります」 「覚えておこう。次に余計な真似をすれば、その首を跳ねる。……行け」
正規軍が通り過ぎていく。 カエサルは彼らが去った後、ゆっくりと顔を上げた。 泥にまみれた手、錆びた剣。対して、彼らの圧倒的な武力と魔法。
(……今はまだ、お前の盤面の上で踊ってやる)
カエサルは拳を握りしめ、立ち上がった。 生き残った。そして、敵の懐に入り込むための、最小限の接点を作った。
「おい、立て。まだ終わりじゃない」
カエサルは呆然としている少年兵の肩を叩き、再び死地への歩みを進める。 その背中は、ただの奴隷のものではなく、虎視眈々と市場の支配権を狙う野心家のそれだった。
(まずはこの『鉄鉱山』だ。ここで成果を出し、必ず次のステージへ這い上がる)
カエサル・ヴァレリアンの眼前に、巨大な坑道の入り口が、まるで魔物の大口のように黒々と口を開けて待っていた。




