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成り上がり王譚 ~奴隷から国王への成り上がり~  作者: 竜神


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第一話:泥と血の損益分岐点

エスタード王国の北端、対魔戦線の最前線に位置する「第十三奴隷兵団」の野営地。 そこは、世界で最も「命の値段」が安い場所だった。


時刻は丑三つ時。月明かりさえ届かぬ森の深淵は、腐ったわらと排泄物、そして幾重にも塗り固められた絶望の臭いが充満していた。 正規兵のテントから漏れる暖かな灯りとは対照的に、奴隷たちの居住区――単なる泥濘ぬかるみの広場――には、死のような静寂と闇だけが横たわっている。


その闇の奥で、異質な音が響いていた。


ブォン。


一呼吸おいて、ブォン。


重い鉄が空気を引き裂く音だ。 他の奴隷たちが、明日をも知れぬ恐怖と過酷な労働の疲労から、泥の中で重なり合うようにして眠りを貪る中、カエサル・ヴァレリアンは一人、腕の感覚がなくなるまで剣を振るっていた。


彼が握っているのは、支給されたなまくらの剣ではない。 つかの空洞に鉛を流し込み、刀身に湿った布を何重にも巻きつけ、重心を狂わせた上で通常の三倍の重量に調整した、特製の「負荷剣」だ。


「……六千、八百……二十、三」


掠れた声で数を数えるたびに、肺が焼けつくような熱を発する。 指の皮はとうに破れ、柄に滲んだ血が潤滑油のように滑るのを、握力だけで強引にねじ伏せる。手首の関節が悲鳴を上げ、背中の筋肉が断裂寸前まで張り詰める。


奴隷に与えられる食事は、薄い麦粥と固いパンの切れ端のみ。カロリー計算をすれば、この運動量は明らかに「赤字」だ。肉体は休息を求めて悲鳴を上げている。


だが、カエサルの瞳にある冷たい光だけは、決して消えることはない。


(まだだ……まだ、足りない。この程度の負荷コストで、明日が買えると思うな)


彼は、かつてこの国の地方都市で、数字と帳簿に囲まれて育った。 商人の息子として、「投資」と「リターン(利益)」の概念を骨の髄まで叩き込まれた。 だからこそ、彼は知っている。今の自分――「奴隷兵番号404」という名の資産価値は、使い捨ての銅貨一枚にも満たないことを。


魔法の才能ギフトもない。剣聖の血筋もない。異界の知識もない。 そんな「不良債権」のような自分が、この地獄で生き残り、あまつさえ全てを奪った者たちを見返すには、常人の想像を絶する「設備投資」が必要なのだ。


その投資資源は、今のところ「睡眠時間」と「寿命」しかないとしても。


「……六千、八百……三十ッ!」


最後の一振りを、全身全霊で振り抜く。 遠心力に振り回されそうになる体を、体幹だけで強引に留める。 その瞬間、カエサルは膝から崩れ落ちた。


バシャリ。 泥水が頬を打ち、鉄と腐敗臭の混じった泥の味が口の中に広がる。 指一本動かせない。意識が遠のく。だが、これは休息ではない。明日の生存率を0.1%でも上げるための、必要なメンテナンスだ。


泥の中で荒い息を吐きながら、カエサルは夜空を見上げた。 そこには星すら見えない。あるのは、カエサルの未来を暗示するような、どこまでも深く、底のない闇だけだった。


泥の冷たさが、カエサルの意識を半年前の記憶へと引き戻した。 あの日も、今日のように冷たく、骨まで凍るような雨が降っていた。


エスタード地方の商業都市。その一等地に構えられた、ヴァレリアン商会の屋敷。 暖炉の火が消え、使用人たちも去った広間で、カエサルは震える父の背中を見ていた。


机の上に散らばっているのは、かつて父が誇らしげに見せてくれた「魔法資源採掘権」の証書。 だがそれは今、ただの紙切れへと変わっていた。


「騙されたんだ。最初から、仕組まれていたんだ……」


父がうわ言のように繰り返す。 父の計算が間違っていたわけではない。地質調査も、市場予測も完璧だった。父は全財産を投じ、未開の鉱脈に賭けた。 だが、採掘開始の当日、現場で原因不明の魔物災害が発生し、坑道は崩落。直後に、債権者であるアルビオン公爵家が「救済」の名目で乗り出し、二束三文で権利を買い叩いたのだ。


それは、商売ではない。 力を持たぬ平民商人から、富を搾取するために仕組まれた、人為的な「倒産劇」だった。


ガチャリ。 屋敷の扉が無遠慮に開け放たれ、冷たい風と共に、濡れたマントの男たちが入ってきた。 アルビオン公爵家の代理人だ。整った顔立ちだが、その目は、人間ではなく家畜を見るような冷徹さを湛えていた。


「期限だ、ヴァレリアン。負債の返済が滞っている」


「ま、待ってください! あの事故さえなければ! 鉱脈はあるんです! 時間さえあれば、必ず!」


父が床に額を擦り付けて懇願する。母が後ろで泣き崩れる。 だが、代理人は靴底で父の手を踏みにじった。


『商売も戦争も同じだ。持たざる者が、分不相応なリソースを見てはいけない』


「あ……あぁ……」


『血筋だよ、小僧。血筋こそが、この世で唯一絶対の通貨なのだ』


代理人の視線が、カエサルに向けられた。 カエサルは恐怖を押し殺し、震える声で抗議した。 「これは違法だ! 商工会の規定では、災害時の猶予期間が――」


ドゴォッ!


言葉は続かなかった。 護衛の騎士が振るった鞘が、カエサルの顔面を直撃したのだ。 視界が明滅し、口の中に鉄の味が広がる。地面に叩きつけられたカエサルの首に、冷たい革靴が乗せられた。


「法? 規定? 我々が法だ」


薄れゆく意識の中で、カエサルは両親が鎖に繋がれ、引きずられていく姿を見た。 父の絶望した顔。母の悲鳴。 そして、代理人の嘲笑。


(絶対に、許さない)


カエサルは泥の中で拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。 半年前の痛みは、今も鮮明に焼き付いている。 血筋という通貨が全てなら、俺はその通貨の価値そのものを暴落させてやる。 俺自身の価値を、奴らが無視できないほど高騰させて、市場せかいごと乗っ取ってやる。


憎悪は、最高の燃料だ。 どんな過酷な訓練も、どんな理不尽な暴力も、この胸の奥で燃える復讐の炎がある限り、カエサルの心を折ることはできない。 彼は復讐者として、地獄の淵で覚醒していた。


「起床ォォォッ!! ゴミ虫ども、起きろォッ!!」


耳をつんざくような鐘の音と、監督官の怒号が静寂を引き裂いた。 カエサルは弾かれたように目を開けた。まどろみの中にいた時間は、体感でわずか数分。だが、体内時計は正確に4時間の経過を告げていた。


野営地がパニックに包まれる。 寝ぼけた奴隷兵が蹴り起こされ、悲鳴が上がる。遅れた者は鞭で打たれ、泥水を跳ね上げながら転げ回る。 これが日常だ。だが、今日の空気は明らかに違っていた。


カエサルは瞬時に思考を切り替え、誰よりも早く立ち上がった。 冷たい井戸水で顔の泥を洗い流し、ひび割れた唇を舐める。視線を鋭く巡らせる。


やってきたのは、いつも怒鳴り散らす下級監督官ではない。 この戦線を指揮する、セドリック・アルビオン直属の正規軍部隊長だ。 馬上の彼は、一点の曇りもない磨き上げられた軍服に身を包み、鼻をハンカチで押さえながら、汚らわしいものを見る目で奴隷たちを見下ろした。


「喜べ、貴様らに出番が来た」


部隊長の声は、死刑宣告のように冷酷だった。


「西方『鉄鉱山資源地帯』にて、大規模な魔力反応が確認された。正規軍の本隊が到着する前に、貴様らには『露払い』をしてもらう」


ざわり、と奴隷たちの間に戦慄が走る。 鉄鉱山資源地帯。そこは、魔力に汚染された凶暴な魔物――「魔獣」の巣窟だ。 正規軍ですら近づきたがらない死地へ、鎧もまともな武器もない奴隷を送る。それは戦争ではない。


「道中の魔獣を一匹残らず駆除し、安全な進軍ルートを確保せよ。なお、逃亡者はその場で弓兵のまととする」


露払いではない。「捨て駒」だ。 魔物の位置を特定するために、人間の餌をばら撒くのと同義だ。


「あ、あぁ……」


隣にいた元農夫の男が、ガチガチと歯を鳴らして失禁した。 「無理だ、あんなところに行ったら死ぬ、みんな食われる……嫌だ、死にたくない」


絶望が伝染していく。泣き叫ぶ者、許しを乞う者、恐怖で動けなくなる者。 集団心理パニックが場を支配する。このままでは、戦う前に心が壊れる。


だが、カエサルだけは違った。 彼の脳内では、恐怖ではなく、冷徹な計算式が高速で回転していた。


(装備は錆びた剣一本。防具なし。敵戦力は不明だが、魔獣の群れであることは確実。生存率、5%未満)


彼は、泥まみれのボロ布の下に隠し持っていた、自作の粗末な地図と、昨夜研ぎ澄ませたナイフの感触を確かめる。


(5%。だが、ゼロじゃない)


昨夜までの「無謀な訓練」は、この瞬間のためにあった。 重い剣を振り続けたことで得た、一瞬の爆発力。夜目が利くように調整した視覚。 そして、商人の息子として叩き込まれた「リスク管理」の思考。


(魔獣は、強い魔力エサに群がる。正規軍が来る前なら、あえて魔力溜まりの逆、風下に回れば接敵回数は減らせる。パニックになった他の奴隷をデコイにすれば、俺が生き残る確率は20%まで上がる)


冷酷な計算だった。 だが、今は感情などという贅沢品を持っている余裕はない。 生き残る。何が何でも生き残り、這い上がる。


「総員、前進!」


鞭が鳴り、死への行軍が始まった。 カエサルは、震える足を叩き、泥濘でいねいを踏みしめる。 その背中は、ただの奴隷のものではなく、虎視眈々と市場の支配権を狙う野心家のそれだった。


ここが底値だ。これ以上、落ちる場所はない。


「さあ、稼ぎに行こうか」


カエサル・ヴァレリアン、18歳。 後にとある物語で歴史に名を刻む男の、最初の戦いが始まろうとしていた。

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