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君の運命を食べたい

 キンモクセイの香りがする。


「危ない――ッ」


 そう思った瞬間、身体が飛び出していた。

 すぐ近くでブレーキを踏む音がする。

 伊風は駆けた。子どもを左腕に抱きかかえ、必死に身体を前へ飛ばした。


 ――――ああ、間に合わない。


 そう思った瞬間、手の中の子どもを遠くへ放っていた。

 子どもは、振り子の原理で弧を描いた。


 視線の先で、仲間が彼をキャッチしたのを見て、伊風は笑った。

 その瞬間、がつんと激しい衝撃に、伊風の身体は大きく弾かれた。



<序>



 ――――ここは一体どこだろう。


 暗闇の中、伊風はひとり、歩いていた。

 右も左もないような空間をひとり、歩き続ける。


 ふと、ぼんやりと目の前に光が見えた。

 扉だ。

 その扉を、ゆっくりと手の平で押し開ける。


 教室の半分くらいの大きさの、明るい部屋だ。

 八角形をしている。


 三人掛けのソファが、対面して二脚置いてある。

 その先には、一人がけの、ソファ、そして――、


「ようこそ、折原伊風おりはらいふうさん」


 ひとりの少年が、こちらを見て笑った。


 ビクリ、伊風の身体が揺れる。

 少年は、その釣り気味の目を細めくつくつと楽しそうに笑う。

 それから、彼は。


「折原伊風さん、あなたは一度、死にました」


 俄かに信じがたい言葉を寄越してきた。


「――――夢?」

「夢じゃありません。貴方は一度死んでいます。これをご覧下さい」


 言って、少年がその奥の壁を指さす。

 その先に、ぼんやりと映像が浮かび上がった。


・・

・・・


「折原、折原!」


 一台の車のボンネットに付着する赤い血は、全て伊風から出たものだ。


「大堀先輩、揺らしちゃマズいですって!」


 真っ青な顔をした久世が、半狂乱で伊風の身体を揺さぶり続ける大堀の肩を抑える。

 それでも大堀は、普段の穏やかさなどはじめから無かったかのような形相で伊風のくたりと動かない身体を揺さぶり続けた。


 隣で中村がガクガクと震えながら、呆然と立ち尽くしている。

 植松もまた、身を乗り出すようにして伊風の名前を呼び続け、そして早川は泣きじゃくる子どもを抱きしめながら自らもまた泣きそうな顔で、その様子を見つめていた。


「折原、折原! 目を開けろよォ!」

「折原、救急車来るまで頑張れ! 折原!」


 頭からぽたりぽたりと赤い血を流す伊風の顔は紙のように白く、その身体はぐったりと動かない。

 紺の制服が、そこここから赤く染まっていく。


・・・

・・


 映像を前に、伊風はただただ、絶句した。

 画面の中で、その身体を真っ赤な血で染めているのは紛れもない自分であり、その身体を抱きしめる男は、大堀だ。周りで叫び、焦り、涙を流しているのもまた、普段つるんでいるバスケ部の面々だった。


「……なんだこれ……」


 思わず、ごくりと喉が上下する。

 それを受けて、少年は口を開く。


「ご覧の通り、貴方は一度死にました。そしてこちらが、明日の夜」


 言った瞬間映像が切り替わる。

 通夜のようで、黒い服を着た親類と、制服のまま参列する友人らが目を真っ赤にして涙を流していた。


「……ここが、死後の世界なのか……?」


 伊風は、その目をめいっぱい見開き、映像を凝視する。

 俄かには受け入れがたいことだったが、夢を見ているのでなければ、どれもが現実、自らの身に降りかかっていることは確かだ。

 信じる、信じない、現実で起こりうる、起こりえないを関係なく、享受するしかなかった。


「いやだ……」


 口からぽろりと言葉が溢れ出る。

 急に突きつけられた自らの死という現実、別れも告げぬまま、もう二度と会えない悲しみ。「やり残したことは何か?」というレベルではない。日常の全てが未完結、未完成で、これで終わりだなんて受け入れたくなかった。


「嫌だ、こんなの、俺は死にたくない……」


 自分のものとは思えないような言葉だった。

 もう十年以上は聴いたことのないような、駄々っ子のような声。

 少年は、相変わらず、感情の読めない眼でじっとこちらを見ていた。


「方法はあります」


 その言葉に、伊風が助けを乞うような目を向ける。

 それを受け、少年はじっと見つめ返した後、再び口を開く。


「まず、ここは死後の世界ではありません。生と死の"はざま"の空間、と言うべきでしょうか。通常、一生を全うした魂はそのままあの世へと運ばれます。そのまま二度と戻ることはありません。しかし、寿命を使い果たすことのないまま死んだ魂や、やり残したことへの強い執念を持った魂が、成仏できずにこの空間に集います」

「……」


 伊風自身、そのどちらに該当するのかはわからなかったが、どちらにも該当する気がした。


「先程ご覧頂いたとおり、この空間での時間軸は、地上での時間軸とは違います」


 言われてみて、思い返す。

 確かに先程見た映像では、伊風の事故直後の映像からすぐにその翌日夜であるとされた、自身の通夜の映像へと変わった。


「じゃあ……」


 伊風が顔を上げるのに、少年は「ええ」とにこり、笑った。


「時間を貴方が死ぬ前に戻すこともできます。貴方は寿命を使い切ることなく、その命を落としました」


 伊風の顔が、驚愕と歓喜で染まる。

 藁を掴んだような、四面楚歌からの生還ともいうような表情で息を吐いた。

 しかし直後、その表情が曇る。


「でも……俺が助かることで、あの子どもは……?」


 子どもの姿を思い浮かべる。

 無事かどうかが気になっていたあの子どもは、先程見せられた映像の中で、早川に抱かれたまま元気に泣いていた。

 あの子どもの命を引き換えに、など言われたら、それは即座に拒否するつもりでいた。


 少年は「それは大丈夫です」とにっこり笑む。


「但し、未来を変えなければいけません。時間を戻そうが、同じように過ごしていたのでは、また貴方は命を落とす運命にあります」


 なるほど、あの事故の前の時間に戻り、子どもが道路に飛び出す前に、先回りして子どもを引き止めるなりなんなりして、どちらも犠牲にならずに済むようにすればいいのか。

 そう考えを巡らせた瞬間、


「但し、――」


そのタイミングを読んだような少年の言葉に、伊風の思考が中断される。


「但し?」

「七日後まさに貴方と同じ状況で死を遂げようとしている方がいます。彼と、彼がかばう命を救うことが出来たら……時を戻しましょう」


 青天の霹靂、とは、まさにこのことだろう。

 しかし、伊風はさほど驚きを見せなかった。


「やります」


 少年の目がわずかに見開かれる。

 条件がついた。それも赤の他人の命をもうふたつも救えという話だ。

 それができなければ、自らの蘇りもなくなると、そう告げられたにも関わらずだ。

 ――――威風は、いとも容易くそれを受け入れた。

 助かりたい一心からか。

 何もしなければ、生き返る権利すら与えられないからか。

 だから、折原伊風は二つ返事でそれを受け入れたとでもいうのか。

 しかし、伊風の顔からは、そんな打算や逡巡など、微塵も読み取れなかった。


「――――驚かないんですね」

「三人も人を救うことができるなんて、そうないことだ……。俺は、俺に救える命があるならば、救いたい」


 伊風は、穏やかに頬を緩めた。

 そこで少年は、伊風がこの部屋に来た経緯を思い出した。

 ――――そうだった。この男は、そもそも見ず知らずの子どもを突発的にかばって命を落としたのだった。


「――――わかりました。早速ですが、あなたに救って頂きたい方はこちら」


 画面に、ひとりの人物の姿が映る。

 その姿を見て、伊風がビクリと身を揺らした。


「――――」


 その人物とは、


「白峰瑞樹、16歳。東京都に住む高校二年生です」


 伊風も、見知った相手だった。

 ――――豊北東高校の。


 伊風は、目を見開いたまま、心の中でそう呟いた。

 その様子を受け、少年が伊風に視線を移す。


「? お知り合いですか?」

「いや――――」


 咄嗟に、伊風は嘘をついた。


「続けてくれ」

「そうですか」


 少年は訝しむ素振りもなく、また視線を映像へ移す。


「彼は、ちょうど一週間後の同じ日夕刻18時24分、東京都内のY公園前の道路で、子どもをかばって事故死します」


 映像が切り替わる。

 違う場所、違う人物だが、伊風と同じように学生服が子どもを拾い、そのまま跳ね飛ばされ、同じように仲間に囲まれる映像を見た。

 背筋がぞっと凍る。


「彼らを救うこと。それが、折原伊風さん、貴方を貴方が命を落とす前に戻す条件です」


 伊風は、上がった呼吸を落ち着かせるように二度三度こくこくと首を縦に振る。

 人が血を流す姿だなんて、ショッキングすぎる映像だった。


「では、一度貴方を現世へと戻します」


 少年の右手が、伊風の顔の前へと延びる。

 そのまま、だんだん視界がぼやけてくる。


「幸運を祈ります」


 少年のその言葉を最後に、伊風の意識は深い闇に呑み込まれた。



・・



「危ない――ッ!」


 伊風は子どもを抱きしめたまま道路を転がる。

 すぐそこまで迫っていた車はキキッとけたたましいブレーキ音を立てて止まった。

 対向車が居なかったのが幸いした。

 車は、歩道寄りで転がった伊風と子どもを避けるようにして、中央線を越えて停止していた。


「折原……!」


 植松が、大堀が、後輩たちが、叫ぶようにして伊風と腕の中の子どもの元へ駆け寄る。


「大丈夫ですか――――ッ?!」


 それと同じくして、運転席から、気の良さそうな婦人が血相を変えて降りてきた。

 伊風は、ゆっくりと上半身を起こす。

 子どもは腕の中で強ばった表情のまま、身体を固めていた。


「折原……大丈夫か?!」


 植松が支えるようにして伊風を腕の中へと抱き込む。

 それをよそに、伊風は子どもの腕や背中をひとつひとつ手で確認するようにして触れていた。


「怪我はないか……?」


 極度の緊張からか、伊風の声がかすれる。

 子どもはぶわりと目に涙を溜めたまま、こくこくと頷いていた。


「泣くの我慢してるのか、えらいぞ」


 言って伊風はよしよしと頭を撫でた。

 その瞬間、子どもの目からぽろりと大粒の涙が溢れる。

 子どもが慌ててそれを拭うのに、伊風ははは、と柔らかく笑った。


「すみませんッ!」


 遠くから、若い女性の声が聞こえる。

 目を向ければ、おおきなお腹の女性が血相を変えて慌てて駆け寄るのが見えた。

 その姿に伊風は「ああ、走らないで」と声を上げる。

 どうやら、助けた子どもの母親らしい。

 大きなお腹で走れば、お腹の子どもにさわる。


「お子さんは無事ですから」


 言って、子どもを立たせた。


「警察と救急に連絡しました」


 運転手の女性が恐る恐る声を上げるのに、伊風はありがとうございますと頭を下げる。

 のちのちのトラブルを避けるためには、小さな事故でも連絡するのが通例だった。


「折原、お前……!」


 言われて自らの手の平や肘、膝のあたりが赤く染まっているのに気づく。

 極度の興奮状態から、アドレナリンでも出ていたのだろう。

 視覚的に知覚することにより、痛みが徐々に感じられてきた。


 それでも、死ぬよりはマシだ。


 子どものお母さんと、運転手が頭を下げ、部活仲間が心配の声を上げるのを、伊風はどこか遠い出来事のように眺めていた。


<一>


 白峰瑞樹のことを、伊風は知らない。

 豊玉東高校二年生、バスケ部、ポジションはポイントガード――――これくらいしか、知らない。

 顔見知りというよりも、赤の他人という方がふさわしいくらいだった。


 "お知り合いですか?"


 あの空間で、あの少年からそう問われたときに、伊風は咄嗟にNOと答えた。

 それもあながち間違いではない。

 しかし、あの時威風は、それが本心ではなく嘘の上で出た言葉だと自覚していた。

 ならば、何故嘘をついたのか。


 ――――直感である。


 直感的に、この場の情報を動かさないほうがいいと判断したのだ。

 せっかく、話がトントン拍子に進んでいるのだ。

 何かしら新たな情報を与えて、コトが悪い方に転ぶのを直感的に避けたのだった。



 まずは、白峰瑞樹のことを知るところからはじめよう。

 そう思い、伊風は翌日、月曜日の夕刻、地元神奈川から東京へと足を向けた。


 前日事故に遭い、検査や手当を受けた伊風は、今日一日は大事をとって学校も部活の練習も休むように言われていた。

 通常ならば家で安静にするところだろうが、コトはそれ以上に深刻である。

 なにしろ、三人分(厳密に言えば、万が一伊風が救済を失敗しても、白峰瑞樹が助ける子どもだけは死なずに済む為二人分であったが)の命がかかっているのだ。

 とはいえ、日曜日当日、白峰瑞樹とその子どもの命を救えば良いだけの話である。

 別段、瑞樹本人と関わりを持つ必要はなかったが、しかし、念には念を入れておきたいという気持ちと、そして、自分と同じ運命を持った男というのに、ほんの少しだけ興味があった。


*


 過去に一度、練習試合で豊玉東高校を訪れたことがある。

 二度目の豊玉東高校は、西日に照らされて橙色に輝いていた。

 放課後特有の落ち着いた喧騒と、帰路へ向かう生徒たちの靴音、秋の澄んだ空気と、すぐそこまで迫った冬の足音。校門の前で目を閉じ、伊風はすんっと胸いっぱいに空気を吸い込む。

 脳裏に、映像で見た瑞樹の姿を思い浮かべる。

 一気に空気を吐き出す。

 そして、真新しい校門をくぐり、あらかじめ調べていた生徒玄関へと足を急がせた。

 テスト前の部活停止期間初日の今日は、授業が六時間。掃除、それからホームルームを済ませて全てが終わるのは16時10分――――現在の時刻は16時ジャスト。

 そろそろ出てくる頃だろう。


 見慣れぬ高校の制服を身に纏った、ひときわ目立つ長身に、すれ違う生徒たちが振り返って視線を向けるのには目もくれず、伊風は生徒玄関に次々と現れては去る黒い影たちに余すことなく目を向ける。

 ここで見過ごせば、貴重な一日を無駄にすることになる。

 そう思った瞬間、ひときわ光を放つ黒髪が、視界の中に映りこんできた。

 声を掛けようと一歩踏み出した瞬間、二歩目が止まる。

 ――――彼の後ろには、いずれも見覚えのある、バスケ部の面々が続いていた。


 今日は、部活は休みじゃないのか。

 伊風はこっそり臍を噛む。

 自主練でもするつもりだろうか。

 ならば、伊風がコンタクトを取るのは難しくなる。

 あれこれ思考を巡らせていると、視線の先で、声が上がった。


「――――折原さん?」


 その声に続いて、十数対の視線が、伊風を射抜く。

 わかりにくい場所に立っていたので油断していた。威風は不意に声を掛けられ、思わず息を呑む。


「あ、やっぱり悠坂さんだ」


 そう、目の前の黒髪が駆けてくるのを、伊風はらしくもなく黙ったままで、見つめていた。

 人垣に入れば、頭半分くらいは飛び出るような身長であることは自覚している。

 また「残念な」という頭語はつくものの、「イケメン」と呼ばれることも多いことから、どうやらイケメンであることは自覚している。

 けれども。

 何故、瑞樹は自分に気がついた?

 そう内心首を傾げたところで、目の前まで距離を詰めたその瞳を目の当たりにし、あぁと合点がいった。――――どうやら、自分は彼の観察眼と注意力を舐めていたらしい。練習試合のときにも、嫌というほどその観察眼と注意力には苦しめられたではないか。

 伊風は、いつもの調子で「やぁ」と声を返す。

 彼越しに見る豊玉東高校バスケ部の面々が、口々に「ちわっす」などと声を掛けながら不思議そうにこちらを見つめているのに、同じようにして「どーも」と、やや声を張る。


「どうされたんですか? ――――って、折原さん」


 言って瑞樹の視線が下がる。伊風もその先を追ってあぁ、と苦笑いを返した。


「怪我されているんですか?」

「いや、たいしたことないんだけどね」


 包帯に覆われた両手をなんともないとぶんぶん振って、はは、と笑みを零す。制服に隠れて見えないものの、その肘も膝も、同じように包帯で覆われていた。

 服の上から擦ったというにも関わらず、ついた勢いからか、はたまた二人分の体重がかかったからか、昨日着ていた制服は、肘と膝の部分が破れてしまっていた。制服越しにでも擦り傷がついたのだ。制服が無かったらと思えば、ぞっとした。


「港北第三高校もテスト期間ですか?」

「あ、あぁ――――そうだね」


 嘘をつく。テストは明日からだが、部活を休んでまで豊玉東に顔を出したとなれば、不審がられることはわかっている。


 ――――"白峰瑞樹に対して、この部屋で知り得た一切のこと、それから彼に降りかかる運命のことを話してはいけません"。


 あの部屋での、少年の声が蘇る。

 核心をうまく避けながら、この状況をうまく説明できるだけの自信は、伊風には無かった。


「誰かに用事でも……?」


 瑞樹が首を傾げるのに、伊風はこくりと肯く。


「実はね、白峰くんと少しお話したいなぁと思って」


 言いながら伊風は、先程から不思議そうな視線を寄越してくる豊玉東の面々の方へ向かって、一歩二歩、歩みを進める。それにつられるようにして瑞樹もまた、従った。


「ごめん、白峰くんのこと、少し借りてもいい?」


 すぐ済むから、と伊風はぐるり、その集団へ視線を配る。見覚えのある、短髪の眼鏡の彼――――道向といったか、――――の前で、その視線を止めた。確か彼が主将だったはず。


「いいですけど……」


 何か言いたそうな声を遮るようにありがとう、と微笑み返すと、伊風は集団のどこかにいるであろう、あの小柄な少年を探した。一年の黒川だ。伊風の後輩の久世の中学時代の友人にあたる。


「それから、黒川くん、――俺が今日ここに来たこと、久世には黙っててくれない?」


 困ったように眉を下げながら笑顔で頼めば、黒川は温度のない声で「わかりました」とだけ小さく頷いた。

 それを確認し、伊風は依然、訝しげな空気を纏った集団に背を向ける。

 背後で瑞樹が「連絡入れるから、先に山上ん家行っといて」と誰かに言付けるのを聞きながら、伊風はゆっくりと彼らとは反対方向へ歩き出した。


 **


 彼らとは別のルートを通り、少し遠回りして山上の家まで瑞樹を送ることにした。

 歩く間も、瑞樹は伊風の傷を気遣ってか、嫌味のないレベルで速度を落として歩いてくれた。

 おそらく、伊風の歩きが自然に両膝の傷をかばうのに、彼は気づいているのだろう。

 一言も触れずとも気遣う姿勢に、伊風は有り難く甘えることにした。


"「俺に用事ってなんですか?」"


 まず、その言葉が飛び出すかと思いきや、瑞樹は何事も無かったかのように、伊風の隣でにこにこと人好きのする穏やかな表情を浮かべている。

 伊風の通う港北第三高校バスケ部のレギュラーメンバーの中で、一番身長の低い植松よりも更に四センチ程低い位置にある頭は、伊風にとって新鮮だ。

 クラスの男子と話せばこのくらいの位置や、これより更に低い位置にあることもざらだが、そういう面子とふたりきりで並んで言葉を交わすことなど滅多にない為、やはりどこか真新しい心地がした。


「テスト期間も豊玉東はバスケ部で下校するの?」


 ――――集団で何をする予定だったのか。


 それを聞き出す為に、布石を打つ。

 その返答次第で、今後の予定が変わってくる。

 重要な答えが返ってくれば、本当に、先程彼らに言った言葉通り、瑞樹をすぐに彼らの元へ返さねばならないし、そう重要でないのならば、このままもう少し一緒に話を交わしていたい。

 一年の山上の家に行くと言っていたようだったが、と思考を巡らした瞬間、隣で瑞樹が口を開いた。


「これから一緒にテスト勉強をするんです」

「テスト勉強? ――――へぇ」


 伊風がこぼした言外の驚きを「真面目だなぁ」というような揶揄の意味に取ったのか、瑞樹が困ったように眉を下げて笑う。


「ウチ、テストで下位100人に入ると、強制的に部活禁止になるんです」

「――――それは、……なんとも」


 豊玉東高校は去年新設されたばかりの高校だ。新設校となれば、やはり一期生二期生あたりの進路状況がその後の入学希望者の質を決めるだろうことから、教師陣も躍起になっているんだなぁ、と伊風は人ごとのように考える。

 港北第三高校も文武両道を謳いこそしていたが、やはりスポーツ特待生でもトップクラスを担うような人材になれば、部活の成績あっての勉強といった様子で、まず何を差し置いても部活動の成績が優先されるような風潮があることは否めなかった。


「試験結果次第で各人の練習時間が減るから、試験も集団戦だって、顧問の先生が」

「そっか……それじゃあ……大事な時間を邪魔しちゃって悪かったなぁ」


 伊風が済まなそうに眉を下げるのに、瑞樹はいえいいんです、と人の良さそうな笑顔で返す。伊風の心臓がどくどくと脈打つ。

 実は、今日瑞樹に会った当初から、彼の顔を見る度に、伊風は昨日あの部屋で見た、瑞樹の無残な姿が透けて見えるようで、気が気でなかった。

 その悪いイメージを払拭するかのように、伊風は矢継ぎ早に口を開く。


「それにしても――――よく、俺のことわかったね。白峰くんの観察力、すごいなぁ」


 彼を誉める方へ話題を持っていこうかと、伊風がそうアクセルを踏んだ瞬間、不意に瑞樹の目が見開かれた。不思議に思った伊風が視線を送れば、弾かれたようにその視線が外される。

 それから、何かを堪えるように唇を噛んだり、開きかけたりを繰り返した後、瑞樹は、消え入りそうな声でこう言った。


「――――折原さんのこと、前から見てましたから」


 不意に、鼓動が高く跳ねる。

 突然の邂逅に、伊風が言葉を失っていると、瑞樹は何かを決したようにぽつりぽつりと口を開いた。


「最初は、――――道向がきっかけだったんです。あ、道向って、あの、眼鏡の、主将の、シューティングガードの」


 瑞樹が慌てて説明を加えるのに、伊風も「ああ、うん」と理解を示す。


「俺、道向と同じ中学で。でも、中学では公式戦では一回も勝てなくて」


 伊風が目を丸くしたのをどう解釈したのか、瑞樹は自嘲気味に「情けないですよね、一度も勝てないとか。でも、本当にそういう学校も存在するんですよ」と困ったように笑った。

 彼が謙遜するのに伊風も「そうじゃなくて」と、急いで声をかぶせる。

 瑞樹は、思考を結べないといった表情で、きょとんと目を丸くした。


「君と、道向くんが揃うような学校が一度も勝てないって、信じられなくて。だから、本当にそんな、貶したつもりじゃなかったんだ」


 ごめんね、と言えば、瑞樹はゆっくりと首を左右に振る。それから、静かに「ありがとうございます」と答えた。

 きっと、この話題をする度に、よくあるようなやりとりなのだろう。

 瑞樹の表情は、何か達観したような、この件に関して既に何か答えを見つけたような、そんな静けさを纏っているように見えた。


「俺も、――――それは常々感じていました。俺のことは……まぁいいとして、道向は本当にすごいシューターだったから。だから、高校ではたくさん勝ちたい、勝たせたいって思って、中三のとき、こっそりいろんな高校の試合を見に行ったんです」

 そこから先、苦い思いを瑞樹は人知れず飲み込んだ。

 伊風の知るところではなかったが、瑞樹は、道向と揃って進学する為の高校を、道向には内緒にしたまま片っ端から見て回っていたのだ。

 道向を強いチームのシューターにすることを夢見て。

 けれども、それは心が折れかけた道向の一言であっさりと無意味に成り果てた。

 ――――『俺、バスケ辞めるわ』

 伊風は、瑞樹の目元が一瞬ぴくりと動くのを見逃さなかった。

 何か、こらえるようなそんなニュアンスに見えた。が、なんとなく、何か繊細な部分に触れる気がして、あえて何も突っ込まなかった。そうしているうちに、瑞樹の表情は普段の涼しい色を取り戻す。


「神奈川県予選、一回戦。そこで、コートに立っていたのが、折原さんでした」

「――あ、」


 ――――思い出した。

 植松が入学したとき、監督は明らかに、彼に対して期待を寄せていた。

 彼は、いずれチームを背負う柱になるだろうと。

 実際、伊風のひとつ上の代は贔屓目抜きにも粒ぞろいだった。

 その代が三年生になり、植松が二年生になる年には、全国制覇も夢ではないだろうと、監督はまっすぐに頂点を見つめていた。

 そしてその、植松が三年生になったときに、彼を支えるうちのひとりとして一年生のときから目をかけられていたのが伊風だった。

 その為、一回戦、二回戦くらいまでは、当時の二、三年生を差し置いて試合に出してもらうことも多かった。


 瑞樹へと視線を向ける。

 瑞樹がくすぐったそうにはにかんだ。


「俺はポイントガードで、道向がシューティングガードだから、どうしても見る先がポイントガードと、それからその後シューティングガードがどう動くのかというところに集中してしまって」

「それで、覚えてくれていたんだね」

「ええ、きっかけはそれだったんですけど、――――折原さんのきれいなシュートフォームに驚いて」


 その言葉に、「あぁ、……あぁ~よく言われる」とおどけるように笑えば、瑞樹もおかしそうに首を横に振る。


「いえ、まあ――全国に目を向けると、本当にいろんなすごいプレイヤーがいるんだなぁって感動したんです。下ばかりを見ていては駄目だなって、気合が入りました」

「それはよかった」

「バスケがうまいのは当たり前で、それに加えて自分だけの武器を持っていないと、上にはいけないんだって思ったんです。だから、――――視野を生かしたゲームメイクをしようと本格的に思えたのは、折原さんのおかげなんです」


 そう言われて、伊風の動きが止まった。

 豊玉東高校は、創部二年目、しかも三年生のいない状況で、今年都大会の決勝リーグまで上り詰めた強いチームだ。

 その、チームを支えた司令塔の、彼特有の武器の根本に、自分が絡んでいたとは。

 ――――心がじんわりむずがゆくなる。


 残念なイケメンだと笑われることも多く、バスケしているときだけはかっこいいなど、いじられキャラに抵抗のない伊風は、さほど気にはしていなかったものの、やはり心のどこかで悔しい気持ちもあった。

 見た目だけじゃない、もっと別なところも見て欲しいと思っていた。

 シュートの間合いを外せることだったり、その正確性だったり。

 弱い人間程、そういうところには触れず、見た目にわかりやすい、ビジュアルと性格のギャップだけを笑おうとする。

 別にそれで構わない、全ては戦績で示せばいいと、誰がなんと言おうと、伊風のシュートは威風だけのものだと思っていたけれども。

 だから、こうして自分の意図しないところで、見てもらえていて、更に白峰瑞樹というひとりの選手の根幹に絡めているということが、素直に嬉しかった。


「ここです」


 言って瑞樹が建物を見上げる。

 山上の家のことだろう。

 察した伊風は自然と、瑞樹の連絡先を聴いていた。それに応じながら瑞樹は視線だけ威風の方へ向ける。


「ところで折原さん、――――用事って?」


 その質問に、急激に現実に引き戻される。脳裏をまた赤い色がちらつくのに折原は必死で胸を落ち着かせた。何度か視線を左右にブラした後、口を開く。


「あぁ、えっと……俺もさ、あの、ゲームメイクについてちょっと勉強したくて」


 きっかけが曖昧かと気にはなったが、いいわけに夏の敗戦を持ち出したくはなかったので、そこはやんわりと誤魔化す。


「ゲームメイクだったら、植松さんの方が詳しいんじゃないですか?」

「まぁ、植松も凄いんだけどさ、――――植松はもう、海常に居るから。俺が別な方向から切り込めればバリエーション出るかな、と思って。だから、いろんな人の話が聴きたいなぁって」


 よくもまぁ、こんな口から出まかせが次から次にと自分でも驚く。

 心の奥底のどこかにある考えだからこそ、出てくるのかもしれなかったが。

 伊風の言葉に、瑞樹は照れくさそうな表情で俯く。

 その視線の先のスマートフォンが、連絡先の交換完了を告げているのを見て、彼は端末を胸ポケットに滑り込ませた。

「俺、折原さんのそういうところ、好きです」

「え?」

 突然の言葉に威風の目が見開かれる。

「強豪校のレギュラーなのに、驕ってなくて、格下なはずの、年下の俺にもそうやって、訊いてくれて」

「あ、――――ああ」

 急ごしらえのいいわけに対して、驚くような評価が飛び出るのに、今更「嘘なんだ」とも言えず、伊風は曖昧に笑う。

「ストイックですよね。俺も、折原さんみたいな人になりたい」

 チクリ、胸の奥が痛む。

 今の威風にとっては、未来を匂わすような言葉もまた、そのどれもが、あの赤い記憶を呼び起こさせた。

 自分を指標にしてくれるだなんて、身に余ることこの上なかったが、――いずれにしても、このままでは、瑞樹に、そんな未来が来ることはないのだ。

「いま、――――いえ、もっと他にもたくさんポイントガードがいらっしゃる中で俺を選んでくれて、その、ありがとうございます」


 ――――"いま"。

 彼は濁したが、伊風は反射的に察した。

 おそらく「今崎さん」と出かけたのだろう。しかし、彼が、折原たちの港北第三高校をインターハイで負かした相手だと思い至り、すぐに引っ込めたのだ。

 気配りの出来る子だと素直に感心した。


「突然押しかけてごめんね」


 別れ際特有の、しんとした空気が胸を刺す。


「こんなに話せて、嬉しかったです。今度は俺も遊びにいきますね」


 向けられる視線があまりに綺麗なので、つい、伊風の表情が歪む。

 歪むのに、瑞樹は、不思議そうな、気遣わしそうな顔をした。


「ごめん、えっと、」

「あ、痛いんですね? 折原さん」


 瑞樹は威風の両手に視線を落とし、眉を下げた。


「そう、――――痛くて」


 ――――胸が。


 こんなにいい子が、六日後に命を落とそうとしているなんて。

 絶対に、救わなければ。

 威風は痛む胸の中、強くそう誓った。



<二>


 それからの五日間、伊風は毎日瑞樹とラインのやりとりをした。

 本当は、実際に会いに行きたいくらいであったが、流石にそれは迷惑がかかると、ぐっと我慢する。

 そうこうするうちに、週末が近づいてきた。


 瑞樹のことを知る度に、伊風の胸の痛みが増していく。

 守りたいという気持ちと、それから、――――。


 それは、金曜日の夜だった。


『日曜午後、一緒に勉強できないかな?』


 ラインの入力画面にそう表示されたまま、既に五分以上が経過していた。

 ついにやってくる、その時への不安や緊張感。

 機会は一度きりであるという不安。

 いつ、どこで、だれが、どうなるということはわかっているのだ。

 その原因を、瑞樹が助けるとされているあの子どもを、意地でも引き止めればいいだけの話だ。

 ――――なのに。


 震えが止まらないのは、なぜだろう。


 威風は、震える体を抱きしめるようにしてベッドに丸まる。

 歯がカタカタと鳴り、身体は面白いくらいにガクガク跳ねた。


 ――――死が、近づいてくる。


 一度経験した"死"という恐怖が脳内に蘇り、伊風は叫びだしそうになる。

 怖い。純粋な恐怖だった。

 突然ひとりぼっちにされる恐怖。

 二度と誰とも話せなくなる。やり残したことも、全て中途半端なまま置き去りにして、自分ひとりだけが、別の世界へと行ってしまうのだ。

 それは、ヒトの静脈についている逆流防止の弁と同じ。二度と戻れない。


 この数日を過ごす中で威風は考えた。

 万が一、チャレンジを失敗した時の為に、周りの人たちへ別れの言葉を残していこうか、と。身辺整理だけでも済ませておこうかと。

 しかし、そう考えた瞬間手が止まった。

 ――――そうだ。

 失敗した瞬間、時間は伊風が事故死したあの時へ戻る。

 今、伊風が過ごしている一週間はいわば、パラレルワールド。

 伊風があの時点で命を落としていれば、過ごすことのなかったはずの時間だ。

 ここで何を残そうが、自分の死後には何も影響を与えられない。

 何も残ることなく、はじめから無かったことになるのだ。


 家族の顔を見ても、植松の顔を見ても、大堀の顔を見ても、後輩たちの顔を見ても、友人の顔を見ても、――――伊風は、こみ上げる涙を抑えるのに、必死だった。


"さようなら"


 伝えたくて、届くことのない、その五文字を。


"ありがとう"


 日頃感じて居たけれど、伝えることはなかった、その気持ちを。


 胸に抱いたまま、最後の授業を受け、帰宅した。

 母の料理も、父との会話も、家族と過ごす時間も。

 全てカウントダウンを始めている。

 砂時計の砂は、もう、底の方をわずかに残すばかりだった。


 家族は何一つしらない。

 伊風も、知らなかった。


 日常とは、いつ崩れるのかわからないということを。

 当たり前のように、過ごせていることが、どれだけ幸せなのかということを。

 小説や漫画の中でしか聞いたことのないような言葉の意味を、伊風は初めて理解した。


 そして、生き返ることが出来たら、今まで以上に一生懸命生きることが出来る気がしていた。



 手元の端末の画面が、ラインの送信が完了したことを告げる。


 日曜日の午後を共に過ごす。

 その約束は、本来ならば、何よりも優先事項だった。

 そうわかっていながら、何故だか伊風はラインの送信をためらい、そうするうちに今日になってしまっていた。

 ラインの未送信メモの中、五日もくすぶっていたメッセージがようやく送信済の履歴の中へと移動する。


 会話履歴をぼんやりと眺めていた瞬間、画面がひときわ明るくなり、この一週間でだいぶ見慣れたその名前の着信通知が浮かび上がった。

 慌てて、一度喉を整え、それから通話ボタンを押す。


「もしもし……?」


 声を乗せる。


『折原さん? こんばんは、白峰です』


 機械を通した声は初めて聴く。


「こんばんは」

『すみません、つい、電話しちゃいましたけれど……お時間大丈夫でしたか……?』

「大丈夫だよ」


 正直、いろんな思いで気が狂いそうだった。

 プレッシャーなんて、滅多に感じたことがない身体が、重圧から悲鳴をあげているのが自分でもわかる。

 生きていて、これ以上に失敗の許されないことなんて、伊風 は知らない。

 失敗も含めての人生だ、と思っているが、こればかりはそう悠長なことは言っていられなかった。


『日曜日は……どうしても、外せない用事があるんです』

「そっか」


 予想はついていた。

 あの部屋で見た映像で、血にまみれた瑞樹の周りには、彼の仲間が居たから。


 カレンダーの上、右端の10月23日の欄をじっと見つめる。


「突然誘ってごめんね。白峰くん、次の日からテストだしね」

『いえ、とんでもない! また、よかったら、誘ってください』


 ――――また。


 涙が、胸の中で溢れてくる。


 今すぐ、電波の向こうの彼に泣いてすがりたい。

 同じ運命を背負った相手だというだけで、何故か、共闘意識が芽生えていた。

 自分ひとりだったらきっと耐えられない。

 この一週間、伊風が気持ちを保っていられたのは、瑞樹の存在が大きかった。

 彼が居るから、ひとりじゃないと思えた。


『? ――折原さん?』


 声が、出せない。


『……大丈夫ですか?』


 瑞樹にとって、電波の向こう側にあるはずの伊風の声が、薄く聞こえるのだろう。

 電波の不調だと思われて、瑞樹に電話を切られたら、そのふりをするつもりでいた。

 けれども、電波は、言葉にならない、伊風の言葉をまた、彼の鼓膜へと届けてくれたらしい。


「――だいじょうぶ、ごめんね」


 なんとか、喉を絞るようにして、普段通りの声を出す。

 顔は笑えていなかったけれど、声だけはなんとか笑うことができた。


 彼に逢いたい。

 会って、全てを打ち明けたい。

 ――――できない……!


 彼を求める気持ちはきっと、運命共同体だからだ。

 そうに違いない。


 けれども、伊風は自らの心の隅に芽生えた、激しい感情に目をつぶることが出来なかった。

 正体のわからない何かが、伊風の心を、深い奥底から突き上げる。


『……折原さん……』

「――――」

『この時期、窓を開けると、キンモクセイの香りがするんですよ』


 突然の瑞樹の言葉に、伊風の思考が止まる。


『キンモクセイって、たいてい、住宅地のどこかにあるんですよ。だから、全国どこでも、今はキンモクセイの香りがするんです』


 その言葉に、窓を開ける。からからから、その音が、心の奥底、深く張った水面をことこと、揺らす。

 ベランダに一歩踏み出す。

 つめたい。

 足の裏がつめたい。

 つめたいのに、つめたいのが、こんなにも嬉しい。


 目を閉じ、空気をおおきく吸い込む。

 懐かしい香りが胸いっぱいに広がる。

 そうだ。

 そういえば、この前豊玉東高校に行った時も、校門の前で、同じように深呼吸をした。

 それから瑞樹に会い、――――。

 ゆっくりと吐き出す。


「したよ」

『しました?』

「キンモクセイの香り」


 言えば、電話の向こうで空気が揺れるのがわかった。

 深呼吸をしろ、と。年上の自分に伝えるのに彼は金木犀を使った。

 言葉は無限にあった。

 瑞樹が選んだその言葉が胸に広がる。

 ――――あぁ、俺は。きっと君のことが――――、


 ――――"折原伊風さん、ひとつ、忘れないでください。"

 もうひとつ、あの部屋の記憶が蘇る。

 "貴方が白峰瑞樹と子ども、ふたりの命を、それから貴方と貴方が助けた子どもの命を救い、生き返ることができた後、貴方はこの部屋に関わる全ての記憶を失います。無論、猶予期間の一週間の記憶も全て無かったことになります。いいですね?"

 ――――わかってる。覚えてるよ。

 ――――全部、忘れてしまうんだって。

 ――――。


「白峰くん、もしさ、土日を無事に過ごすことができたら、」

『……?』

「月曜日が来たならさ」

 ――――白峰くん、俺たち、全部、忘れてしまうんだって。だから、


「また、俺のこと、見つけてくれな……」


 ――――俺は、きっと白峰くんのことが、好きなんだ。

 それが恋か友情かなんてわからない。でも、


「頼む……」


 ――――忘れたくない。


 おかしなことを言っている自覚はあった。

 突然わけのわからないことを頼んできた他校の上級生に、瑞樹は今きっと、どう反応していいのかわからないことだろう。

 気持ち悪いと思われたかもしれない。


 でも、この一週間のことを、全て忘れてしまうだなんて、伊風は嫌だった。

 無事、生き返ることができたとしたら、こんな辛い一週間のことなんて、そして自分の遺体や、瑞樹の遺体だなんて、全て忘れてまた暮らせたら、それに越したことはないのかもしれない。

 でも、この一週間が伊風にもたらしたものは、恐怖や重圧だけじゃなかった。

 この一週間、瑞樹の存在がどれだけ伊風の支えになったかはわからない。


 関わり始めてたった一週間だなんて、そんなことは関係ない。

 知れば知るほど彼の人柄が好きになった。

 自分の命を守るための条件に関わらず、彼を守りたいと心から思った。

 吊り橋効果かもしれない。

 それでもいい。

 彼が、運命の人で本当によかった。


『折原さん……』

「ごめんね、俺、なんか今日おかしくて。気持ち悪いよね」


 はは、と乾いた笑いが溢れる。


「通話、切ろうかな」


 言って、通話終了ボタンに手を掛ける。


『――――折原さん、やっぱり日曜日、会いましょう』

 心地よい声に遮られ、再び左耳が熱を取り戻す。

「――――いや、いいよ」

『いえ、時間作ります』

「大丈夫だから」

『迷惑ですか……?』


 一瞬、空気が震える。

 伊風の口元が緩やかな弧を描いた。


「――じゃあさ、」

『はい』

「月曜日の放課後、また、校門の前で待っていても、いいかな?」



 ――――そんな日は、来ない。


<三>


 日曜日の午後は、清々しい程の秋晴れに恵まれた。

 伊風は、動きやすさを重視した服装で、日曜日の東京へと赴く。

 全てが今日、決まると思えば、心臓が高鳴る。

 だが、赤いものを見るたびに吐き気を催していた昨日や、食事も喉を通らず、一睡も出来なかった昨晩に反して、今、伊風の心は驚く程に凪いでいた。


 最後の食事は、母が作ってくれたロールキャベツ。

 行ってきます、と笑顔で声を掛けた。

 父にも、そして家族全員に声を掛けてきた。

 机の引き出しの一番上には、手紙も書いた。

 家族と、バスケ部と、それから植松、大堀へ。

 それが読まれることはないのはわかっている。

 けれど、書かずにはいられなかった。

 そうすることで、伊風の中の、未練や、未完結な何かが少しは落ち着く気がしていた。


 昨晩、伊風は母の肩をもんだ。

 食欲のない我が子を心配し、あれこれ薬まで出してくれた母だ。

 それを受け取り、さらさらと口にした後、伊風は母の背中側にまわった。

 久しぶりに触れた母の背中は、その肩は、前よりも少し小さく見えた。


「お母さん、身体大事にしてくれな」


 華奢な肩を揉みほぐしながらつい、ぽろっとそんなことを漏らしてしまうものだから、母に本気で心配されたけれど、それでも伊風はその背中の感触を、魂に焼き付けた。


 両親よりも先に逝くかもしれない不孝を、どうか許してください。



***



 夕暮れが迫る。

 時計は、二つ、持ってきた。

 そのどちらもを、きっちりとずれのないように合わせてきている。


 18時。

 運命の時刻まであと24分。


 既にY公園の件の道路、そのすぐ傍まで来ていた。

 あとは、記憶の中のあの子どもの姿を探し出し、その子が道路に飛び出すことのないように抱きかかえるだけだ。


 と、視界の端に、見覚えのある集団が映った。

 物陰に隠れ、やり過ごす。

 瑞樹に見つからないように、伊風にしては珍しく、帽子とマスクを持ってきていた。

 それを装着して、身を隠す。


「ホントありがとなー」

「いいっていいって!」


 瑞樹がにっこりと笑うのに、猫のような――――小深田、といったか、――――彼が返す。

 他の部員も思い思いに瑞樹へ言葉を掛けていた。

 瑞樹は、部員たちから何かをしてもらったのだろうか?

 そう、伊風が帽子のつばの下からそっと視線を巡らせた瞬間、ひときわ高い声が鼓膜を刺す。


「――――黙っておごられとけよ! お誕生日様なんだから!」


 ――――。


 10月23日日曜日。


『日曜日は……どうしても、外せない用事があるんです』


 あの日の、電話越しの彼の言葉が蘇る。

 ――――ああ。

 伊風は納得した。


 ――――瑞樹くん、今日は君の……。


 伊風の拳に、ぐっと力が入る。


 ――――絶対に、救ってみせる……!


 目に、光が灯る。

 18時20分。


 折原の肩に力が入る。

 全てうまくいけば、折原はまた、あの日々に戻れる。

 背中で語る、男気あふれる主将の鏡な植松と、穏やかだが試合になると途端に好戦的な大堀、うるさいけれど可愛い早川、最初は嫉妬もあり生意気だと思っていたけれど時間を共に過ごすうちに大好きになっていたエースの久世、素直じゃないけれど誰よりも熱いものを持っている中村、――みんな。

 ウィンターカップ、優勝しような。


 視界の端に、映像で見たあの子どもが映る。

 服装も間違いない。この子さえ、この子さえマークしておけば、間違いない。


 ――――マークだなんて。

 こんなときにもバスケ思考な己の思考回路に、ほんの少し笑みがこぼれる。

 頬の筋肉ががちがちに固まっていることに気づいた。


 この子さえ。


 18時23分。

 間違いない、映像の中で瑞樹をはねたのは、シルバーの車だった。


 視界の中心に件の子どもを捉えながら、視界の端では、シルバーの車と、それから瑞樹の姿を気にかける。

 ――――集中、集中しろ……。

 頭まで心臓になったように、鼓動が駆け巡る。


 その瞬間、瑞樹の影と、シルバーの車が、ほぼ同時に視界に入った。

 目の前には、件の子ども。


 ――――どうして? どうして、この子は道へ駆け出さない?


 たまらず伊風がくるりと振り返る。

 その先にもまた、似た容姿をした子どもが居た。

 既に、歩道から車道へと足を踏み入れようとしている。

 視界の端で、瑞樹が駆け出すのが見えた。

 キキキキ、ブレーキ音が宵の空気を切り裂く。

 そこここから悲鳴が上がる。


 ――――双子か……!


 そう思った瞬間、伊風の身体もまた、車道へと飛び出していた。

 手を伸ばす。

 子どもを左腕に抱きかかえ、必死に身体を前へ飛ばした。


 ――――よし、間に合った。


 そう思った瞬間、手の中の子どもを遠くへ放っていた。

 子どもは、振り子の原理で弧を描いた。


 視線の先で、瑞樹が子どもをキャッチしたのを見て、伊風は笑った。

 その瞬間、――――。


 アスファルトの上を転がりながら、伊風は考えた。

 ――――この場合はどうなるのだろう?


 子どもの代わりに、瑞樹の代わりに、10月23日、伊風が命を落とした場合には。

 そのケースについてだけ、伊風は聞いていなかった。

 『10月23日日曜日に、子どもと、白峰瑞樹の命を救うこと。』

 それが、伊風に課された使命だった。

 守れは、した。多分。

 でも、代わりに威風が轢かれてしまった。


 ――――どうなるの、だろう。

 ――――。

 ――――この際もう俺はどうでもいいから、子どもと瑞樹は助かってくれ。

 ――――。

 ――――もう、俺にはどうすることもできない。

 ――――悔しい。

 ――――。



「――――折原さん!」


 声が掛かる。

 伊風は、思考の片隅で、自らを呼ぶ声を聴いた。

 霞む視界の中で、伊風は、瑞樹の泣き叫ぶ声を聴いた。




━━

━━━━

━━━━━━

━━━━━━━━


<跋>


「――りはら――、折原――!」


 遠く、声が聞こえる。

 身体中が熱い。痛い。

 刺激が強すぎて、脳がうまく受信できていないような気がする。

 そのまま、意識は暗闇の中へ落ちていった。


****


(――――あれ? 俺は、どうしたんだろう?)


 伊風は、うっすらと目を開ける。水中で目を開けた時のような、ぼんやりとした視界の中、ただ、白だけが見えた。


「折原……! 気がついたか!」


 右耳が、植松の声を受信する。

 そっと目を横に向ける。そこにはほっとしたような顔をした植松と、それから大堀、早川、逆サイドには久世、そして中村の姿があった。


 その奥には、


「――やあ」


 言って、伊風は、その目をにっこりとさせた。

 あの、子ども。

 そうだ、子どもをかばって、車道へ飛び出した。


「折原、お前の反射神経には、驚いたぞ」


 奇跡的に、伊風は打撲と、それからいくつかの擦り傷で済んだらしい。

 慎重に、その身体を起こす。


 視界の先で、おなかを大きくしたご婦人が、涙を流していた。

 それから、自動車の運転手だったらしい女性も。


「ありがとうございます、ありがとうございます」


 こうべをたれ、涙を流す子どもの母親らしき女性へ、伊風は「顔を上げてください」と、柔らかな声を掛ける。

 それから、そのとなりで涙を目に溜めた、子どもの頭をよしよしと撫でた。


「泣くの我慢しているのか、えらいぞ」


 その瞬間、子どもの目からぽろりと大粒の涙が溢れる。

 子どもが慌ててそれを拭うのに、伊風ははは、と柔らかく笑った。

 ――――もうすぐ、お兄ちゃんになるのか。

 子どもの、大きな目をじっと見つめる。

 ――――頑張れよ。

 おなかの子どもが元気に生まれてきますように。


 それから、


「大事にしてしまって、すみませんでした」


 運転手の女性へ頭を下げる。女性は、とんでもない、こちらが悪いのです、とばかりに否定を繰り返すが、伊風としても軽傷で済んだし、子どもも無事で済んだなら、これ以上のことはなかった。


 ――――ただ、何か、ひとつ忘れているような気がする。



・・

・・・



 生と死に挟まれたその空間で、少年は笑った。


「子どもと白峰瑞樹を救うこと、それが貴方への使命でした」

 視線の先、映像の中で白い病室が映る。


 その通り、伊風は彼らの命を救うことに成功した。

 そのまま、伊風は10月23日日曜日の一週間前、10月17日日曜日まで、時間を遡ったのだ。



 ――――ある、ひとつの想いを、置き去りにして。



 でも。


 生きていれば、また、巡り会える。

 ――――きっと。



・・・

・・



 金木犀の香りを乗せた風に、病室の白いカーテンがたなびく。

 目を閉じ、それからゆっくりと空気を吸い込み、――――。

 あぁ……。

 キンモクセイの、香りがする――。

 目尻を伝う温かな気持ちの意味を、伊風はまだ、知らない。



 君の運命を食べたい 【了】

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