噛みたい
オメガバース設定を使用。※作中、オメガバースについての説明は何もありません。
『美味しぃですぅ~。お伊勢参りで伊勢うどん!この喉越し、最っ高ですね!!頬っぺたが落っこちちゃいますぅ~!!』
アナウンサーの白々しい食レポと満面の笑みにイラッとする。そんな訳あるか、とコシの無いうどんが通過しているだろう喉をリモコンで撃ち抜くように、ブチンッと電源を切った。
部屋干しした洗濯物のせいでいつもに増して室内が狭い。
ベランダを打つ雨音は尚も続いていて、今年の梅雨らしい梅雨にうんざりする。うんざりしていると、うんざりしている自分にもうんざりしてきて、そんなうんざりする自分にイラッとする。イライラするのはカルシウム不足が原因の一つかもしれない、と思い至り、冷蔵庫を開けるも牛乳のストックは無く、開けかけのパックを持ち上げてみるも悲しいかな、底で僅かに揺れ動く程度の軽さしかない。グラスに注いでみたところで半分にも満たない半端な量しかなく、それでも貴重なカルシウム、と最後の一滴が垂れてくるまで辛抱強く待ち、綺麗に飲み干した。
グラスを置き、はぁ、とほぼ無意識で深い息を吐き出して動こうとしたら、くらっとして一瞬、世界がモノクロになった。
頭を急に上下させたから、血液が一気に下がったのかもしれない。睡眠不足もあってか、最近はこういったことが増えた。きっと血も足りていない。
噛みたい。
ガムなんてぐにぐにしたものはお呼びじゃない。
もっと顎にも脳にも衝撃、振動が到達するように、強く強く噛みたかった。
赤ん坊が歯固めを欲するように、噛みたいという欲でうずうずし、唾液が溜まる。
歯応えが欲しい。
梅干しの種もポップコーンの弾け損ねも、歯が欠ける恐れがあるから決して無理をしてはならない。慎重に、そろりそろり噛んで割る、噛んで砕く。
鉄分が不足すると氷を噛みたくなるらしい。氷食症は鉄欠乏性貧血のサイン。
でも今は……あの白い首筋に歯を立てたい。愛しくも忌々しいネックガードを突き破るくらい、思い切り噛んで噛んで、首の骨にも歯形を刻んで、ほとばしる鮮血を啜りたい。
『それ、ちゃんと番いたいって思ってくれてる?それだと俺、死んじゃわない?とっととサプリメントでも食べて、鉄分摂れよ。 吸血鬼じゃないんだからさ』
着信音がする前、スマホが光ってすぐに通話ボタンを押した。今なら競技かるたで優勝できるかもしれない。でもオカルトは苦手だ。
決して高い声でも女性的な喋りでもないが、鈴を転がすようなと形容したくなるくらい可愛い番の声を聞き、一時的にイライラが霧散し癒される。最初のうちはホームのざわつきも電話越しに幾らか耳に入ってきていたが、この永遠とも束の間ともいえる崇高で神聖な通話時間中に、愛しい番の声だけを拾うために全集中の呼吸を体得したと思ったのはあながち間違いじゃないだろう、きっと。
イライラしたり精神的に落ち着かない理由は幾らか考えられるが、鬱陶しい長雨と不快な湿度と、先月やっと出逢えた愛しい番とまだ正式に番えていないことも大きな理由だろう。
むわりじとりとした今の暑さが、じんじん肌を焼くような夏の暑さに変わるまでは、このイライラはきっと続くだろう。番に次の発情期がやって来てうなじを噛むその日まで、他の α にとられてしまいやしないかと気が気じゃない。
あぁ……やっぱり無性にイライラする。落ち着かない。胸の奥の方がざわざわする。噛みたい。噛み締めたい。抱き締めたい。閉じ込めたい。愛しい番のフェロモンを嗅ぎたい。愛しい番のフェロモンを一身に浴びたい。
通話が終了し、愛しい番の声及び通話内容を録音機能によりスマホの中に閉じ込めるというミッションに成功した。この調子ならば愛しい番の寝起きの声を閉じ込める日も近い。次のクエストは愛しい番のお迎え。夕食作成のタスクは既にクリアしており、温め直せばすぐに提供可能だ。時間に余裕はあるのだが、待ち切れないため早々に家を出る。
電車の到着時刻は分かっているが、愛しい番を待たせるくらいなら自分が十分でも二十分でも一時間でも待てばいい。万が一にも道路が混んで到着が遅れ、その間に迎えを待っていた愛しい番が噛まれでもしたら……噛んだ α を殺すのは当然として、到底自分自身を許せるはずがないので、自らをこの手で殺すことにもなるだろう。
そんなこんなの心配と、一分、一秒でも早く愛しい番に会いたい気持ちとで気が急くばかりだが、文系の人間なので素数ではなく九九を思い浮かべることでどうにか心を落ち着け、三点式シートベルトを装着し、安全第一、右左右を心の合言葉に発車した。と思ったのだが、フットブレーキが掛かったままだったのでブオンと大きな音を発しただけに留まり、改めて、フットブレーキを解除し、家内安全、右左右を心の合言葉に発車した。
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日が変わっても雨は止まず、時にしとしと、時にザァザァと地に降り注ぐ。空を覆うどよんとした灰色の雲は、下水道がオーバーフローしたり道路が冠水しやしないかという世間の心配などつゆも知らないのだろう。梅雨だけに。
イライラも相変わらずで、Feとデカデカ表示されたサプリメントを口に投げ入れ、島根県雲南市木次町産のパスチャライライズ牛乳で流し込む。投入堂というお堂が鳥取県東伯郡三朝町にある。国宝である。山陰は魅力で溢れている。
ここ最近のお気に入り、小振りの堅焼き煎餅が十枚くらい入っている袋を手に取り、上部端の切り込み部分から指でびりびりと横に引っ張り開け、ボリ、ガリ、ボリ、ガリ、ガリ、ムシャムシャと無心で食べる。
求める歯応え、ここにあり。
袋破れて煎餅があり、足首には愛しい番が作ってくれたミサンガあり。ミサンガは梅雨が開けて夏真っ盛りになる頃に切れて夢を叶えてくれるはずだ。
煎餅一枚を食べる毎にゴクゴク水を飲んで喉を潤す。また次の煎餅を摘まんで口に放り、ボリ、ガリ、ボリ、ガリ、粉々のモロモロになるまで細かく噛んで砕いていく。
口が空になれば水を含み喉を潤し、また次の煎餅を口に入れる。
また一枚、また一枚。袋の中、残り三枚があり。
電話が光った。
「はいもしもし」
反応速度は音速を超えた。着信音が鳴る間を与えなかった。
愛しい番は今から電車に乗るところだという。通話を終え、すぐさま車のキーを持って家を出た。昨日のように駅のロータリーで三十六分待つことになろうと構いやしない。が、すぐさま帰宅し、部分的にゴールドカラーのAT限定運転免許証を胸元のポケットに差し込み、改めて家を出た。現在の心の合言葉は、洗濯時のポケット確認。
「ただいま」
「ただいま。おかえり、お疲れ」
愛しい番を家に迎え入れる幸せを噛み締める。先に靴を脱いで前を行く番を後ろから抱き締め、ふわりと良い香りのするうなじをネックガードごと甘く噛む。発情期ではなくても、愛しい番からはいつも好ましい香りがする。
「こら、噛むなよ。汗かいてるし。それに、せっかく綺麗でカッコいいネックガードをくれたのに、噛むばっかりするから痛むじゃん。丈夫だから壊れはしないだろうけど、不安になるから即刻やめろ。……次の発情期が来たら好きに噛んでくれていいんだからね。今は氷でも食っとけ」
「我慢する。歯がしみるから氷はヤダ。知覚過敏のつもりはないけど。……煎餅にする」
「すぐに夕食だろ。 少しだけにしとけよ。俺は先にシャワー浴びたい」
腰に回していた腕をほどいて愛しい番を泣く泣く解放する。
番の風呂が済んだらすぐに食べられる状態にすべく、煎餅をかじりながら再加熱を始めようとしたのだが。
「しけてる……」
「あれま、残念。それ、いつ開けたやつ?」
「迎えに行く前。一時間も経ってないのに。輪ゴムしてなかったからかな」
余程落ち込んで見えたのか、よしよし、と頭を撫でられた。
実際、かなり落ち込んでいたが、よしよしされて気分は急上昇している。
「梅雨だから、しょうがないな。……しょうがないから、ちょっとだけなら、やっぱり今少し噛むか?優しくな」
嬉し過ぎる申し出に心踊らせ、愛しい番のうなじに顔を寄せる。
ほんのりと香るその心地よさに、鼻息荒く、顔はによによしてくるが、これは最早不可抗力。
梅雨が開けることを待ち望む気持ちに変わりはないが、梅雨とぬれ煎餅をほんのちょっとだけ好きになった。
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I give a nure-senbei to you.
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Because of the Tsuyu.