プリンと月蝕の予兆
会議室を出た私たちは、まるで嵐の目の中にいるような不思議な静けさに包まれていた。さっきまでの異界空間との戦いが嘘のように、オフィスは普通の夕方の雰囲気に戻っている。
「ねぇ…今のは本当に起きたことなの?」
勇田花子の声が、やけに現実味を帯びて響いた。私は自分の手を見つめる。さっきまで触手になっていた部分だ。今は普通のサラリーマンの手。
「起きたよ…多分」
間苧谷部長は無言で自分のデスクに向かい、重々しく椅子に腰を下ろした。元魔王の威厳はどこへやら、ただの疲れた中年男性の姿がそこにあった。
「部長…大丈夫ですか?」
私が声をかけると、部長はゆっくりと顔を上げた。
「粘田…お前、あの契約書を触手で掴んだな」
「は、はい…」
「よくやった」
部長の言葉に、思わず背筋が伸びた。褒められるのは久しぶりだ。
「でも、触手って…」花子が不思議そうに私を見る。「粘田さん、スライム時代の能力が残ってるってこと?」
「わからない…緊張すると床に溶けちゃうのは前からだけど、触手は初めて出たよ」
会話の途中、エレベーターの到着を告げるピンポーンという音が鳴り、小振田緑朗が現れた。彼の手には大きな紙袋。
「お疲れ様です!ちょっと買い物に行ってきました」
小振田は満面の笑みを浮かべながら、紙袋からプリンの入った容器を次々と取り出した。
「異界との戦いの後は、甘いものが一番です!特製チョコプリン、どうぞ!」
「え、こんな時に…」
私が戸惑っていると、小振田はウインクした。
「粘田さん、緊張を和らげるには甘いものが一番ですよ。それに…」彼は声を潜めた。「闇井さんが帰ってくる前に、みんなでエネルギーチャージしておきましょう」
その言葉に、なぜか納得してしまう。小振田の元ゴブリンとしての知恵なのだろうか。
プリンを手に取った私は、スプーンを突き刺した。とろりとした食感と甘さが口の中に広がる。不思議なことに、体の芯から力が湧いてくるような感覚があった。
「これ、普通のプリンじゃないよね?」花子がプリンを口に運びながら言った。
小振田は得意げに胸を張る。「ふふ、コンビニで働いていると色々と特典があるんです。このプリン、実は『異界エネルギー回復プリン』なんですよ」
「なんでそんなものがコンビニに…」
「現代のコンビニは奥が深いんです」
間苧谷部長もプリンを一口食べると、少し表情が和らいだ。「…悪くない」
オフィスの空気が少しずつ和んでいく。窓の外では、東京の夜景が輝き始めていた。
そのとき、エレベーターが再び到着を告げる音が鳴った。
全員の視線が一斉にエレベーターに向けられる。扉が開き、闇井義宗が姿を現した。
「お、おい…」
私の声が震える。さっきの異界空間での出来事が脳裏によみがえる。だが、闇井義宗の姿はさっきとは違っていた。黒いスーツは少し乱れ、顔には疲労の色が浮かんでいる。
「失礼します」
彼は静かに頭を下げ、私たちの前に立った。その手には小さな箱が握られていた。
「先ほどは…大変申し訳ありませんでした」
闇井義宗の謝罪に、オフィス中が凍りついた。
「これは、お詫びの印です」
彼が差し出した箱を、戸惑いながらも間苧谷部長が受け取る。中には高級そうな万年筆が入っていた。
「契約の件は、一度白紙に戻させていただきます。ただ…」
闇井義宗は一瞬だけ目を閉じ、再び開いた。その瞳に、一瞬だけ赤い光が宿る。
「大いなる月蝕の日が来れば、すべてが決まるでしょう」
その言葉を残し、闇井義宗は再びエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まる直前、彼の口元に不気味な笑みが浮かんだように見えた。
「月蝕…?」花子が首をかしげる。
間苧谷部長は手にした万年筆を見つめながら、重々しく言った。「次の月蝕は…10日後だ」
「満月の夜と同じ日ですね」小振田が指摘する。
私は不安に駆られながらも、さっき食べたプリンのおかげか、妙な冷静さも感じていた。
「部長、契約書はどうなったんですか?」
間苧谷部長はデスクの引き出しを開け、黒く変色した契約書の残骸を取り出した。
「ほとんど読めなくなっているが…この条項だけは無事だ」
部長が指さした箇所には、かろうじて文字が残っていた。
『契約破談になった場合の賠償』
「これがどういう意味なのか…」
部長の言葉が宙に浮く。窓の外では、雲が月を覆い隠していた。
「とにかく、10日後に備えないと」花子が決意を込めて言った。「粘田さんの触手能力、もっと練習しておいたほうがいいかも」
「え?僕の触手?」
「そうよ!さっきはとっさのことだったけど、もし意識的に出せるようになれば…」
小振田も頷きながら口を開いた。「元スライムの能力が目覚めたのは偶然じゃないと思います。何か意味があるはずです」
間苧谷部長は立ち上がり、窓の外を見つめた。「闇井義宗…あいつは本気だ。月蝕の夜、何が起きるかわからない」
私は自分の手を見つめながら、心の中で決意した。元スライムとしての能力を目覚めさせ、仲間たちと共に闇井義宗の野望を阻止する。そのためには…
「もう一個プリン食べていい?」
小振田は笑顔で頷いた。「どうぞどうぞ!異界エネルギーは補給しておくに越したことはありません!」
プリンをもう一つ手に取りながら、私は思った。
スライムから人間に転生して、まさか会社でこんな冒険をすることになるとは。
窓の外の月が、雲間から顔を覗かせた。10日後、月蝕の夜に何が起きるのか。私たちの戦いは、まだ始まったばかりだった。