エクセルの逆襲
「よし、これで資料は完成だ!」
画面に向かって拳を突き上げた瞬間、パソコンが突然フリーズした。青い画面に変わり、見たこともない記号が流れ始める。
「ああっ!保存してなかった!」
僕は頭を抱えて悲鳴を上げた。昨日から徹夜で作成していたEVEプロジェクトの企画書が、目の前で消え去ろうとしている。
「粘田くん、また壁にくっついてるよ」
振り返ると花子が不思議そうな顔で立っていた。慌てて背中を壁から引き剥がす。ストレスがかかると無意識にスライム化する癖が出てしまう。
「大変なの!企画書が…」
その時、会議室のドアが勢いよく開いた。
「諸君!朗報だ!」
間苧谷部長が両手を広げて入ってきた。その手には分厚いマニュアル本。
「エクセルマスター認定試験、我が社全員で受けることになった!」
会議室が凍りついた。
「は、はぁ…?」
「粘田!昨日頼んだ資料はどうした?」
「あの、今ちょうどパソコンが…」
部長は僕の言葉を遮り、マニュアル本を会議テーブルに叩きつけた。
「エクセルこそが人間界征服の鍵だ!VLOOKUPを制する者が世界を制す!」
部長の目が赤く光っている。完全に魔王モードだ。
「でも部長、エクセルと人間界征服って…」
「愚問だ!この表計算ソフトの力を知らんのか?数式一つで人間の運命さえも操れるのだ!」
部長はプロジェクターを起動し、スクリーンに複雑な数式が並んだエクセルシートを映し出した。
「これが我が魔王軍…いや、我が部の新戦略だ!」
社員たちは困惑した表情で互いに顔を見合わせている。一般社員たちにとっては、上司の奇行としか思えないだろう。
「粘田、君をプロジェクトマネージャー補佐に任命する!」
予想外の発表に、僕は言葉を失った。
「え?僕がですか?でも僕、エクセル得意じゃ…」
「だからこそだ!最も弱き者が最強となる。それが転生の真髄ではないか!」
なぜか妙に説得力がある。
「勇田、小振田!君たちも特別チームとして粘田をサポートせよ!」
花子と緑朗が僕の横に並んだ。
「よーし!エクセルなんて魔法の一種でしょ?攻略してみせるわ!」花子が剣を抜くような仕草をした。
「僕はコンビニでエクセルを使った在庫管理を学びました。お役に立てると思います」緑朗は礼儀正しく頭を下げた。
部長は満足げに頷き、最後の一撃を放った。
「一週間後、全社プレゼン大会を開催する。各チームのエクセルスキルを競ってもらう!」
会議室がざわめいた。一週間でエクセルマスターになれというのか。
「では解散!粘田、君はすぐに私の部屋に来たまえ」
部長が去った後、僕たち三人はため息をついた。
「いきなりエクセル?しかも一週間後にプレゼン?」
「魔王様の思考は我々には計り知れないわね…」花子が肩をすくめた。
「でも、これはチャンスかもしれない」緑朗が静かに言った。「部長が何を企んでいるにせよ、僕たちが力を合わせれば…」
「そうだね。とにかく部長の部屋に行ってくる」
僕は重い足取りで部長室へ向かった。ノックすると、中から「入れ」という声。
「失礼します」
部屋に入ると、部長はデスクではなく、床に正座していた。その前には小さな祭壇のようなものが。
「粘田、扉を閉めろ」
言われた通りにすると、部長は低い声で話し始めた。
「実はな、エクセルには秘められた力がある」
「秘められた…力ですか?」
「そう。人間界では単なる表計算ソフトと思われているが、実は異世界の魔法と深い関係がある」
部長はポケットから取り出した古びたUSBメモリを見せた。
「これは『魔導式変換機』。異世界の魔法式をエクセル関数に変換できる代物だ」
正気かこの人?と思いながらも、僕は真面目に聞き続けた。
「このUSBを使って、我々は新たな力を得る。そして…」
部長は急に声を潜めた。
「社長の座を奪う!」
ああ、やっぱり。単なる出世争いか。
「部長、それって…」
「粘田、君は私の右腕となれ。元スライムの柔軟性は、このプロジェクトに不可欠だ」
断る選択肢はなさそうだ。
「分かりました。頑張ります」
部長は満足げに頷き、USBメモリを僕に手渡した。不思議と温かい。
部長室を出ると、花子と緑朗が廊下で待っていた。
「どうだった?」
「まあ、想像通りというか…」
僕はUSBメモリを見せながら、部長の話を簡単に説明した。
「社長の座を奪うためのエクセル?」花子が首を傾げる。
「魔導式変換機…」緑朗は物思いにふけるような表情になった。「実は僕、コンビニで似たような話を聞いたことがある」
「コンビニで?」
「ええ。深夜勤務の時、謎の客が『表計算で世界が変わる』と言っていたんです」
三人で顔を見合わせた。
「とにかく、このUSBの中身を確認してみよう」
会議室に戻り、僕はUSBをパソコンに差し込んだ。すると、画面に奇妙なアイコンが表示される。「魔導オフィス」と書かれている。
「開いてみよう」
クリックすると、通常のエクセルとは明らかに違うインターフェースが現れた。セルの代わりに魔法陣のような模様が並び、関数の一覧には見たこともない文字が。
「これは…異世界の言語?」花子が食い入るように画面を見つめた。
「僕には読めるよ」緑朗が言った。「ここには『現実改変関数』と書いてある」
「現実改変?」
「例えば、このIF関数に似た関数は、条件を指定して現実を変えられるみたいだ」
冗談のようだが、部長があれほど真剣だったことを考えると…。
「試してみる?」花子が目を輝かせた。
「危険じゃない?」
「小さなことから始めればいいじゃない」
緑朗がキーボードを操作し、簡単な関数を入力した。
「=REALITY_IF(A1="コーヒー",A1="紅茶")」
「これは何?」
「会議室のコーヒーを紅茶に変える関数」
「そんなの効くわけ…」
言葉が途切れた。テーブルの上にあったコーヒーカップから、紅茶の香りがし始めたのだ。
「ホントに変わった!」花子が目を見開いた。
「これは…すごい」
僕たちは興奮と恐怖が入り混じった感情に包まれた。この力を使えば、確かに何でもできる。
「でも、なぜ部長はこれを使って直接社長になろうとしないんだろう?」
「きっと制限があるんだ」緑朗が言った。「大きな変化には、それなりの代償が必要なんじゃないかな」
「そうか…だから地道にプレゼン大会で勝とうとしているのか」
「それにしても、私たちはどうすればいいの?」花子が不安そうに尋ねた。
「まずは普通にエクセルを勉強しよう。その上で、この魔導式も少しずつ理解していく」
「賛成」緑朗が頷いた。「それに、部長の真の目的も探るべきだと思う」
三人で作戦を練る中、僕はふと思った。スライムから人間に転生して、まさかエクセルと魔法の融合に関わることになるとは。
「粘田くん、また床にくっついてるよ」
花子の声で我に返る。確かに僕の足が床と一体化していた。
「ごめん、考え事してたら…」
足を引き剥がすと、床に薄いスライム跡が残った。
「あ、これ…」
緑朗が床のスライム跡を見て、何かに気づいたような表情になった。
「粘田さんのスライム成分、魔力を帯びているんじゃないかな」
「え?」
「試しに、このスライム跡で何か書いてみて」
言われるまま、僕は指で床のスライム跡に簡単な記号を描いた。すると、その記号が淡く光り始めた。
「やっぱり!」緑朗が興奮した声を上げた。「粘田さんのスライム能力と魔導式を組み合わせれば…」
「何かすごいことができる?」
「少なくとも、部長の思惑とは別の使い方ができるかもしれない」
三人は顔を見合わせ、小さく頷き合った。エクセルの勉強と魔導式の解明、そして部長の真の目的の探索。やるべきことは山積みだ。
「よーし!まずはエクセルの基本から始めよう!」
花子が元勇者らしい闘志を燃やす中、僕の携帯電話が鳴った。画面を見ると、見知らぬ番号からだ。
「もしもし?」
「…粘田透さんですか?」聞き覚えのない女性の声。
「はい、そうですが」
「私、御社の社長秘書です。社長があなたに会いたいと…」
話が急展開する予感がした。窓の外では、不思議な色の雲が社屋の上空に集まり始めている。
エクセルの逆襲は、まだ始まったばかりだった。