EVEプロジェクト始動
期末の忙しさに追われる三月末日。社内はいつも以上の緊張感に包まれていた。
窓際の席で資料を眺めていた僕、粘田透(元スライムのぷる男)は、ふと壁に背中がぴったりとくっついていることに気づいた。
「あっ、またやってる…」
慌てて体を引き剥がす。スライム時代の癖が抜けず、無意識に壁や床にくっついてしまうのだ。幸い、今回は誰にも見られなかったようだ。
「粘田くーん!コピー機が暴走してるよー!助けてー!」
勇田花子の悲痛な叫び声。彼女は元勇者なのに、なぜかコピー機との戦いだけは常に敗北する。
「はいはい」
コピー室に向かうと、花子が紙詰まりと格闘していた。紙を引っ張る姿は、まるで魔物と戦っているかのよう。
「ねえ粘田くん、この機械って魔力で動いてるの?」
「いや、電気だよ」
「でも反応しないんだもん!剣で切り裂きたい!」
「それだけはやめて」
コピー機の修理を終えると、社内放送が鳴り響いた。
「緊急会議を十分後に開催します。全社員、第一会議室にお集まりください」
アナウンスの声は総務課の佐藤さんだが、どこか緊張感が漂っていた。
「なんだろう?」花子が首を傾げる。
「さあ…」
会議室に向かう途中、消火器「セバスチャン」の前を通りかかった。なぜかこの消火器だけが名前を持ち、社員全員から敬意を払われている。
「今日も立派だね、セバスチャン」
花子が消火器に向かって敬礼した。気のせいか、消火器が微かに揺れたような…。
会議室に入ると、すでに多くの社員が集まっていた。最前列には間苧谷部長の姿。彼は元魔王だが、今はただのパワハラ上司として恐れられている。
「皆、集まったな」
間苧谷部長が立ち上がると、室内の空気が一気に重くなった。彼の背後には「新規事業計画」と書かれた巨大なスライドが映し出されている。
「本日より、我が社は新たなプロジェクトを始動する」
部長の目が赤く光った気がした。
「その名も…EVE(Evil Vs. Excel)プロジェクトだ!」
会議室がざわめいた。
「Evil?」「Excel?」「悪とエクセルの戦い?」
様々な声が飛び交う中、部長は続けた。
「諸君らも知っての通り、我が社には…特殊な人材が揃っている」
部長の視線が僕や花子、そして入口付近で立っている小振田緑朗(元ゴブリン)に向けられた。
「異世界の知識と現代のテクノロジーを融合させ、新たなビジネスモデルを構築する。それがEVEプロジェクトの目的だ」
スライドが切り替わり、複雑な図表が表示された。中央には「異世界×現代=利益」という不思議な方程式。
「例えば、スライムの特性を活かした新素材開発。勇者の直感力を生かした市場予測。ゴブリンの適応力を活用した顧客サービス」
部長の説明に、社員たちの表情が次第に変わっていく。半分は困惑、半分は興味津々といった具合だ。
「質問はあるか?」
恐る恐る一人の社員が手を挙げた。
「このプロジェクト、具体的にどんな商品を…」
「滅びよ人間!」
部長が突然叫んだ。会議室が凍りついた。
「…すまん、癖だ。質問に答えよう」
部長は咳払いをして続けた。
「具体的な商品例としては、『魔力充電式モバイルバッテリー』『スライム成分配合洗剤』『ドラゴン鱗風防水カバー』などを考えている」
なるほど、異世界の特性を現代製品に応用するということか。
「あの、質問です!」
花子が元気よく手を挙げた。
「魔法詠唱が必要な製品は、呪文を忘れた時のサポート体制はありますか?」
会議室が静まり返った。普通の社員には意味不明な質問だ。
「…それは製品マニュアルに記載する」
部長は真顔で答えた。
「他に質問は?」
僕は思わず手を挙げていた。
「粘田か。何だ?」
「このプロジェクト、僕たち転生者だけでなく、一般社員も参加するんですか?」
部長はにやりと笑った。
「もちろんだ。全社一丸となって取り組む。ただし、プロジェクトメンバーの選定は私が行う」
その言葉に、一般社員たちの表情が緊張に染まった。魔王の選定とは…。
「では、プロジェクトリーダーを発表する」
部長がスライドを切り替えると、そこには驚くべき名前が。
「粘田透」
え?僕?
「粘田、前に出ろ」
震える足で前に進むと、部長が僕の肩に手を置いた。その手から異様な熱を感じる。
「諸君、粘田はスライムとしての柔軟性と、人間としての適応力を兼ね備えた人材だ。彼こそがこのプロジェクトにふさわしい」
会議室から拍手が起こる。しかし、それは義務的なものだった。
「粘田、一言どうぞ」
突然のことに頭が真っ白になる。
「あ、あの…えっと…」
その時、何かが僕の中で変わった。スライム時代の本能が呼び覚まされたのか、言葉が自然と口から溢れ出した。
「皆さんの協力なしでは成功しません。異世界の知恵と現代の技術を融合させ、新たな価値を創造しましょう。柔軟に、そして粘り強く…」
自分でも驚くほど堂々とした発言。会議室の空気が変わった。
「流石だな」部長が満足げにうなずく。
会議終了後、社員たちが三々五々と部屋を出ていく。花子が駆け寄ってきた。
「すごいじゃない!プロジェクトリーダーだって!」
「いや、自分でも驚いてる…」
「でも、部長が選んだってことは…」
花子の表情が曇った。魔王が選ぶリーダーには、何か裏があるのかもしれない。
「大丈夫だよ」
小振田緑朗が近づいてきた。コンビニ店員の制服を着ている。
「部長は本気で君を評価してるよ。魔王は人を見る目がある」
「そうかな…」
「それより」緑朗が声を潜めた。「このEVEプロジェクト、単なるビジネス以上の何かを感じないか?」
「どういうこと?」
「部長の目的は、ただの利益じゃない気がする。異世界と現代の融合…それは一体何のために?」
確かに、部長の説明には何か引っかかるものがあった。
「とにかく気をつけて。僕はコンビニのシフトがあるから行くけど、何かあったらすぐ連絡して」
緑朗は小走りで去っていった。
会議室に残ったのは僕と花子、そして最後の一人、部長だけになった。
「粘田、明日から君のデスクを移動してもらう。プロジェクト専用のスペースを用意した」
「はい、ありがとうございます」
「期待しているぞ」
部長が出ていくと、花子が小声で言った。
「ねえ、このプロジェクト、本当に大丈夫?」
「どうだろう…でも、やるしかないよね」
「そうだね。私も勇者として、いや、OLとして全力でサポートするよ!」
花子の目に決意の光が宿った。
オフィスに戻る途中、またしてもセバスチャンの前を通る。今度ははっきりと感じた。この消火器から漂う違和感。まるで…生きているかのような。
「気のせいじゃない」
振り返ると、セバスチャンは確かに僕の方を向いていた。さっきまでとは向きが違う。
EVEプロジェクト。異世界と現代の融合。そして動く消火器。
この会社で、何かが始まろうとしている。
デスクに戻り、パソコンを開くと、部長からのメールが届いていた。
件名:「EVEプロジェクト 極秘資料」
添付ファイルを開こうとした瞬間、画面が真っ赤に染まり、奇妙な文字が浮かび上がった。
「魔界ポータル起動準備完了」




