解雇回避と伏線の夜
「異世界転生者と現代社会の共存プロジェクト」の発足から一週間が経った。プレゼンでの一件以来、社内の空気は微妙に変わっていた。
僕、粘田透こと元スライムのぷる男は、なんとか解雇を免れたものの、社内では「あのスライム人間」と呼ばれるようになっていた。嫌味で言われているわけではないのだが、なんとも言えない複雑な気持ちだ。
「粘田くん、この資料を間苧谷部長に届けてくれる?」
同僚の山下さんが声をかけてきた。彼女の目には明らかな警戒心が浮かんでいる。
「わかりました」
資料を受け取ると、山下さんは小さく「気をつけてね」と付け加えた。まるで魔王の城に向かう使者を見送るかのような表情だった。
部長室に向かう廊下で、消火器「セバスチャン」の前を通りかかる。あの日以来、この消火器が妙に気になって仕方がない。何か見られているような気がして…。
「気のせいだよね」
そう呟いて前を向いた瞬間、
「きゃっ!」
勇田花子と鉢合わせた。
「びっくりした!もう、粘田くんったら忍者みたいに音もなく歩くんだから」
「いや、普通に歩いてただけで…」
花子は元勇者だが、現代では天然系OLとして働いている。彼女の机の上にはいつも不思議な小物が並んでいる。昨日は「魔力回復ドリンク」と書かれたペットボトルを持ってきていた。中身は普通のスポーツドリンクだったが。
「部長室に行くの?」
「うん、資料を届けに」
花子は急に声を潜めた。
「気をつけてね。最近、部長の様子がおかしいの」
「おかしい?」
「うん。昨日の夕方、一人で会議室にこもって『滅びよ人間ども…いや、まだだ…』って呟いてたの」
そう言って花子は真剣な表情で続けた。
「それに、部長の机の引き出しから黒い炎が漏れ出してるのを見たって人もいるんだって」
社内の噂は恐ろしいスピードで広がっていた。間苧谷部長が元魔王だということは、もはや公然の秘密になりつつあった。
「とにかく気をつけて。魔王は気分屋だから」
花子はそう言い残すと、小走りで去っていった。
深呼吸して部長室のドアをノックする。
「入れ」
低く響く声。ドアを開けると、間苧谷部長が窓際に立っていた。外の景色を眺めながら、何かを考え込んでいる。
「あの、資料をお持ちしました」
「ああ、そこに置け」
部長は振り向きもしなかった。資料を置こうとした時、机の上に奇妙な図面が広げられているのが目に入った。
「新宿副都心魔界化計画」
思わず目を疑う。図面には新宿の地図と、そこに描き込まれた魔法陣のような模様が。
「何を見ている」
ハッとして顔を上げると、部長が目の前に立っていた。いつの間に移動したのか、全く気づかなかった。
「す、すみません!」
「見たな」
部長の目が赤く光る。まずい、これは本当にまずい。
「いえ、何も…」
「粘田」
部長はゆっくりと口を開いた。
「お前はどう思う?この計画について」
予想外の質問に言葉に詰まる。
「えっと…魔界化って…」
「冗談だ」
部長が不敵に笑った。
「社員の反応を見るためのジョークペーパーだよ。本気にしたか?」
「は、はぁ…」
「だが、お前は違うな。異世界を知る者として…」
部長の表情が急に真剣になった。
「粘田、お前はこの世界をどう思う?」
「この世界、ですか?」
「そうだ。異世界とこの現代日本。どちらが住みやすい?」
考えてみれば、スライムだった頃は常に食われる恐怖と隣り合わせだった。今は平凡なサラリーマンだが、少なくとも命の危険はない。
「正直、こっちの方が住みやすいです」
「そうか…」
部長は深いため息をついた。
「実はな、私も同じ考えだ。魔王として恐れられていた時代より、今の方が…平和だ」
意外な告白に、言葉を失う。
「だが、それが問題なんだ」
「問題、ですか?」
「そうだ。魔王としての威厳が…薄れていく」
部長は窓の外を見つめながら続けた。
「先日、コンビニで傘を忘れたときに、店員に『お客さん、傘!』と呼び止められたんだ。魔王が『お客さん』だぞ?」
なんとも言えない虚しさを含んだ表情に、思わず笑いそうになるのを必死で堪えた。
「それに、電車では席も譲られない。魔王だぞ、私は」
「まぁ、見た目は普通の部長ですからね…」
「だろう?だから考えたんだ」
部長は再び机の図面を指さした。
「冗談と言ったが、半分は本気だ。この世界に、もう少しだけ…異世界の要素を取り入れられないものかとな」
「それって…危険じゃないですか?」
「いや、完全な魔界化ではない。ほんの少しだけだ。例えば、新宿駅の一角に『魔物カフェ』を作るとか」
「魔物…カフェ?」
「そうだ。スライムプリンや、ドラゴンステーキが食べられる店だ」
なんだか話がどんどん脱線していく。これが魔王の思考回路なのか…。
「あ、あの、部長。それって『異世界転生者と現代社会の共存プロジェクト』の一環ですか?」
「ああ、そうだな」
部長は急に我に返ったように姿勢を正した。
「とにかく、これは極秘プロジェクトだ。他言無用だぞ」
「はい…」
「よし、下がれ」
部長室を出た後、深いため息をついた。廊下を歩いていると、コンビニ店員の小振田緑朗とばったり会った。彼は元ゴブリン王だ。
「やあ、粘田くん。部長に会ってきたの?」
「うん…なんか、新宿を魔界化する計画を立ててるみたいで」
「ああ、あの計画ね」
緑朗は意外にも冷静だった。
「部長、最近よくそんな話をしてるよ。でも本気じゃないと思うな」
「そうなの?」
「うん。魔王って、実は寂しがり屋なんだ。異世界では恐れられすぎて友達ができなかったから、ここでは仲間が欲しいんじゃないかな」
緑朗の洞察力は流石元ゴブリン王だけある。
「それより、消火器のセバスチャンに気をつけた方がいいよ」
「え?なんで?」
緑朗は声を潜めた。
「昨日、誰かがセバスチャンに向かって話しかけてるのを見たんだ。しかも、セバスチャンが…動いたような」
「動いた?」
「うん、少しだけど。それに、近づくと何か…魔力のようなものを感じるんだ」
振り返ると、セバスチャンが廊下の端に静かに掛けられていた。気のせいか、少し傾いている?
「とにかく警戒した方がいいよ。あ、もう行かなきゃ。今日はコンビニのシフトがあるから」
緑朗は小走りで去っていった。
オフィスに戻ると、花子が心配そうな顔で待っていた。
「無事だった?部長、何か言ってた?」
「うん、まあ…新宿を魔界化する計画について熱く語ってたよ」
「あぁ、またそれ」
花子も知っているようだった。
「先週の飲み会でも言ってたわ。『滅びよ人間!』の乾杯の後に」
「みんな知ってるの?」
「だって、部長が酔うと必ず『かつての栄光』について語り始めるじゃない」
確かに、先日の飲み会でも部長は「魔王軍の福利厚生は現代企業より充実していた」と熱弁していた。
「でも、セバスチャンのことは知ってる?」
花子の表情が曇った。
「あの消火器…何か変よね。昨日、私が残業してた時、廊下から『シュー』って音がしたの。見に行ったら、セバスチャンの前に黒い影が…」
花子の話は途中で切れた。会議室のドアが開き、佐々木が出てきたのだ。
「お疲れ様です」
佐々木は軽く会釈すると、無表情で通り過ぎていった。彼は「異世界転生者狩りの密偵」だったが、今は表向き「共存プロジェクト」の一員となっている。しかし、彼の本当の意図は誰にもわからない。
「あの人、信用できないわ」
花子が小声で言った。
「うん…」
その時、突然社内放送が鳴った。
「粘田透さん、至急総務部までお越しください。繰り返します…」
「なんだろう?」
「気をつけてね」
花子の言葉を背に、総務部へ向かった。廊下を曲がると、またしてもセバスチャンの前を通る。
「気のせいだよね…」
だが今度ははっきりと見えた。セバスチャンが、わずかに動き、こちらを向いたのだ。
「え?」
立ち止まって見つめると、セバスチャンは再び動かなくなった。だが確かに…さっきまでと向きが違う。
「これは…」
背筋に冷たいものが走った。この会社で、まだ知らない何かが動き始めているのかもしれない。
総務部のドアに手をかけながら、ふと振り返る。廊下の奥、セバスチャンの近くに佐々木が立っていた。彼は何かをメモしている。そして、ゆっくりとこちらを見上げ、不気味な笑みを浮かべた。
「粘田さん、お待ちしてました」
総務部のドアが開き、中から声がかかる。深呼吸して、ドアを開けた。