魔王裁判の閃光
会議室の空気が一瞬で凍りついた。懲戒委員会のメンバーたちが固唾を飲んで見守る中、間苧谷部長が立ち上がった。その額には小さな赤い角が微かに浮かび上がっている。
「諸君、我々はここに重大な決断を下すために集まった」
部長の声が低く響き渡る。誰もが息を潜める中、彼はゆっくりと両手を広げた。
「滅びよ人間!」
衝撃波のような声が会議室を揺るがした。椅子に座っていた人事部長が思わず後ずさり、水の入ったグラスが揺れて中身をこぼした。
「あ、すみません。癖で」
間苧谷は軽く咳払いをして姿勢を正した。だが、その目は赤く光り、威圧感は消えていない。
私は椅子に座ったまま、全身から冷や汗が噴き出した。いや、これは汗ではない。体が少しずつ溶け始めている。
(まずい、スライム化が進行してる!)
緊張で制御が効かなくなっているのだ。椅子から立ち上がろうとしたが、ズルッと滑って壁に張り付いてしまった。
「粘田君、どうしたんだ?」人事部長が不思議そうに尋ねる。
「あ、いえ、ちょっと…壁が…その…」
言い訳をしようとするが、今度は右手が完全にスライム化し、壁を伝って天井に向かって伸びていく。会議室中の視線が私に集まる。
「こ、これは…手品です!」
苦し紛れの言い訳に、誰も反応しない。このままでは完全にバレる。クビになるどころか、研究施設に送られてしまうかもしれない。
その時、会議室のドアが勢いよく開いた。
「待ってください!」
勇田花子が駆け込んできた。彼女の手には何故か剣の形をしたポインターが握られている。
「透さんは悪くありません!これは全て…」
彼女の熱弁が始まったとき、私の脳裏にスライム時代の記憶がフラッシュバックした。
──底辺スライムだった頃の私。魔王軍に追われ、洞窟の壁に張り付いて必死に逃げ回っていた日々。
「ぷるぷる…」
思わず口から出てしまった古代スライム語。会議室の全員が凍りついたように動きを止めた。
「今、彼が何か言いましたか?」委員の一人が尋ねる。
「気のせいですよ」間苧谷部長が笑顔で答えた。だがその目は私に「黙れ」と命令していた。
壁から何とか体を引き剥がし、椅子に戻ろうとするが、今度は足がゼリー状になって床にべったりとくっついてしまう。
「粘田さん、靴下が溶けてますよ」小振田緑朗が小声で教えてくれた。
確かに靴下は完全に溶け、床に小さな水たまりができている。このままでは本当にクビになる。いや、それどころか実験体にされるかもしれない。
「では、昨日の事件について審議を始めます」人事部長が咳払いをした。「間苧谷部長、あなたは部下に対して『スライム』と呼んで侮辱したそうですね」
「それは事実です」部長は堂々と認めた。「ただし、それは彼の本質を言い当てただけのことです」
「本質?」
「そう、彼は元スライムなのだ」
会議室が再び静まり返った。
「冗談はよしてください」人事部長が眉をひそめる。
「冗談ではない。証拠を見せよう」
間苧谷部長が私に向かって手を伸ばした。その指先から微かな黒い炎が揺らめいている。
「粘田、本当の姿を見せてやれ」
その言葉に反応するように、私の体内で何かが弾けた。制御できなくなった体が、みるみるうちにスライム化していく。
「うわああああ!」
必死に抵抗するが、既に手足はほとんど透明なゼリー状になっている。椅子から滑り落ち、床に広がった私の体は、かつての姿──青緑色の半透明スライムへと変化していった。
「こ、これは一体…!」人事部長が椅子から立ち上がる。
「申し上げた通り、彼は元スライムです」間苧谷部長が淡々と説明する。「私は元魔王。彼女は元勇者」花子を指さす。「そして彼は元ゴブリン」緑朗を指さす。
「我々は皆、異世界からの転生者なのです」
会議室内が完全にパニックに陥った。委員たちは興奮して立ち上がり、中には悲鳴を上げる者もいる。
その混乱の中、床に広がった私のスライム体が徐々に人型に戻り始めた。意識を集中させ、必死に人間の形を思い出す。
「落ち着いてください、皆さん」
花子が剣型ポインターを掲げて叫んだ。不思議なことに、その声には魔力が宿っているようで、会議室の混乱が一瞬で収まった。
「確かに私たちは異世界からの転生者です。でも、今は立派な会社員です!透さんだって、スライムだったけど今は優秀な営業マンじゃないですか!」
半分人間に戻った私は、床から上半身だけを起こして弱々しく手を振った。
「そ、そうです…僕は…頑張ってます…」
緑朗も立ち上がった。「私はゴブリンでしたが、今はコンビニの売上トップ店員です。異世界の経験を活かして接客しています」
彼の言葉に、委員たちの表情が少しずつ和らいでいく。
「つまり」間苧谷部長が締めくくった。「我々は皆、それぞれの過去を持ちながらも、この世界で共に生きているのです。昨日の事件は、その事実を受け入れられなかった私の過ちでした」
私は完全に人間の姿に戻り、ずぶ濡れの状態で床から立ち上がった。
「部長…」
「粘田、すまなかった。魔王の習性が出てしまった」
間苧谷部長が私に向かって深々と頭を下げた。その角がゆっくりと消えていく。
「いえ、僕こそ…制御できなくて…」
人事部長が椅子に座り直し、深いため息をついた。
「では、この懲戒委員会の結論としては…」
全員が固唾を飲んで見守る中、人事部長はゆっくりと言葉を紡いだ。
「異世界転生者の実態調査と支援体制の構築を進めることとします。また、間苧谷部長にはパワハラ防止研修の受講を義務付けます」
予想外の結論に、会議室内がどよめいた。
「それと、粘田君」
「は、はい!」
「床を濡らしたのは君だな?掃除しておいてくれ」
「…はい」
会議が終わり、廊下に出ると、花子と緑朗が待っていた。
「ありがとう、二人とも。助けてくれて」
「当たり前じゃない!仲間でしょ!」花子が明るく笑う。
「転生者同士、助け合わないとな」緑朗も肩をポンと叩いてくれた。
その時、後ろから間苧谷部長の声がした。
「粘田、明日から『異世界転生者の働き方改革』プロジェクトを任せる。君が中心になって進めてくれ」
「え?僕がですか?」
「ああ。君のように、本来の姿と人間の姿の間で揺れ動いている者の視点が必要だ」
部長の目は真剣だった。魔王の威圧感はなく、一人の上司として私を見ていた。
「分かりました。頑張ります!」
部長は満足そうに頷くと、廊下の先へ歩き始めた。だが、数歩行ったところで振り返り、小さく微笑んだ。
「ただし、明日の朝礼の乾杯は『滅びよ人間!』でやるからな」
「それだけは勘弁してください!」
三人で声を揃えて叫ぶと、部長は高らかに笑いながら去っていった。
その日の夕方、社内メールで「異世界転生者自己申告制度」の案内が全社員に配信された。思いのほか多くの返信があったという噂を、翌日、私は耳にすることになる。




