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粘液の反撃

気づけば、俺の指先から透明な粘液が滴り落ちていた。


「また出てる…」


慌ててティッシュで拭き取る。最近この症状が頻繁に起こるようになった。スライムだった頃の名残りというか、ストレスがかかると無意識に体の一部がスライム化してしまうのだ。


「粘田ー!この書類、全部やり直しだ!」


間苧谷部長の怒声が執務室に響き渡る。先週の異変から一週間、会社は不思議と通常業務に戻っていた。あの日の出来事は「大規模なサイバー攻撃」として公式に処理され、異世界からの呼びかけについては誰も触れなくなった。


だが、部長のパワハラだけは相変わらずだった。いや、むしろエスカレートしている。


「すみません、どこを直せば…」


「全部だ!滅びよ人間どもの書類など!」


部長は俺の机に山積みの資料を叩きつけると、血走った目で睨みつけてきた。その額の角が微かに赤く光っている。


「今日中に仕上げろ。終わるまで帰るな」


「でも今日は…」


「異議は認めん!」


部長が踵を返して立ち去ると、隣の席の勇田花子がそっと声をかけてきた。


「大丈夫?透さん」


「ああ…まあね」


花子は元勇者だけあって、こういう時に頼りになる。彼女が異世界転生者だと知ったのは最近だが、今では会社の「非人間系社員」として何となく連帯感がある。


「部長、最近おかしいよね。あの日から…なんか焦ってる」


花子の言葉に頷きながら、俺は膨大な資料と睨めっこする。確かに部長は先週の異変以来、常に神経質になっていた。まるで何かに追われているような焦燥感を纏っている。


夜の九時を回った頃、執務室には俺と、残業組の数人だけが残っていた。指先からまた粘液が滲み出る。今度は机の上に落ちてしまった。


「くそっ…」


疲労と空腹で集中力が切れかけている。スライム化を抑える力も弱まっていた。


「おや、まだいたのか粘田」


振り返ると、間苧谷部長が立っていた。スーツの上からでも分かるほど肩で息をしている。どうやら部内会議から戻ってきたところらしい。


「はい、指示された書類を…」


「進捗はどうだ?」


「あと半分くらい…」


部長の顔が一瞬で歪んだ。


「半分だと?貴様、仕事をなめているのか!」


部長の怒声に、残っていた社員たちが一斉に顔を上げる。普段のパワハラとは明らかに違う、本気の怒りだった。


「明日の朝イチで役員会議だぞ!これが終わらなければ会社の存続に関わる!」


「そんな重要な資料だとは聞いてませんでした…」


「言わずとも分かれ!お前はスライムだったくせに、まだ人間の仕事の重要性が理解できんのか!」


その言葉に、執務室が静まり返った。部長は「スライム」という言葉を口にした瞬間、自分の失言に気づいたようだが、もう遅かった。


「部長…みんなの前でそれは…」


俺の中で何かが切れた。胸の奥にある黒焙煎核が熱く脈動する。


「知ってるんですよ、部長が本当は魔王だってこと」


俺は立ち上がり、部長と向き合った。もう隠す必要はない。


「俺だってスライムだった。でも、人間として生きようとしてる。部長こそ、まだ魔王根性が抜けてないんじゃないですか?」


部長の顔が青ざめる。執務室の空気が凍りついた。


「な、何を言って…」


「滅びよ人間ども!って毎回言ってますよね。飲み会の乾杯で」


部長の額の角が完全に現れ、赤く輝き始めた。もはや隠す気もないようだ。


「貴様…身の程知らずな…」


部長の手から黒い炎が立ち上る。マジで危ない。でも、もう引き下がれない。


「人間界のルールを守りましょうよ。残業だって限度があります」


俺の体から、気づかぬうちに粘液が溢れ出していた。床に落ちた粘液が、まるで意思を持つかのように部長の足元に向かって這い寄る。


「何だこれは…」


部長が粘液に気づき、一歩後ずさった瞬間、彼の足が滑った。


「うわっ!」


間苧谷部長の巨体が宙を舞い、派手に転倒。その拍子に彼の手から放たれた黒い炎が天井のスプリンクラーを直撃した。


次の瞬間、執務室全体に水が降り注ぎ始めた。


「うわあああ!書類がああ!」

「パソコンが!」

「逃げろー!」


残業組の社員たちが悲鳴を上げながら逃げ出す中、ずぶ濡れになった部長が床から起き上がった。その姿は惨めというより、どこか滑稽だった。


「粘田…貴様…」


部長の声に怒りはなく、むしろ呆然としていた。


「すみません、つい…」


俺は本当に謝るつもりだった。だが、その言葉が口から出る前に、部長の表情が一変した。


「いや…」


部長は静かに笑い始めた。


「久しぶりだ…こんな感覚は」


「え?」


「魔王時代、こうして挑戦されることが日常だった。誰もが恐れるばかりで、真っ向から立ち向かってくる者などいなかった」


部長は立ち上がると、ずぶ濡れのスーツの上着を脱ぎ捨てた。


「粘田、お前には度胸がある。スライムだった時も、そうだったのか?」


「いえ、むしろ…最弱でした」


「なるほど。だからこそ人間になって強くなりたかったのか」


部長の顔に浮かんだ笑みは、これまで見たことのない柔らかさがあった。


「分かった。今日の件は水に流そう。文字通り、な」


部長は自分のジョークに一人で笑った。


「明日から、もう少し…人間らしく振る舞うよう努力しよう。魔王の威厳を捨てるわけではないが」


俺は呆気に取られた。まさか部長がこんな風に折れるとは。


「あ、ありがとうございます」


「だが、その代わりだ」


部長の目が鋭く光る。


「お前も、もっと自分の本質を受け入れろ。スライムだった過去から逃げるな。それが強さだ」


その言葉は、意外にも心に響いた。確かに俺は、スライムだった自分を隠そうとしてきた。でも、それが自分の一部なら…


「はい、頑張ります」


スプリンクラーはようやく止まったが、執務室は水浸し。明日の始業までに片付けなければならない。


「さあ、今日はもう帰れ。明日からまた鬼のように働いてもらうからな!」


部長の笑い声が執務室に響く中、俺は濡れた資料を見て溜息をついた。結局、明日も早く来なければならない。


だが、胸の奥の核はもう熱くない。むしろ、心地よい温かさを感じる。


小さな反抗が、大きな一歩になった日。スライムの反撃は、意外な形で成功したのかもしれない。

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