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研修中断と謎の兆し

「研修を一時中断します」


間苧谷部長のアナウンスが会議室に響き渡った瞬間、社員たちの間に困惑の波が広がった。年に一度の必須研修「ビジネスマナーと異世界常識の調和」は、通常なら絶対に中断されることのない神聖な儀式だった。


「え?マジっすか?」

「こんなこと初めてじゃ…」

「トイレ行きたかったから助かった」


様々な声が飛び交う中、粘田透はじっと部長の表情を観察していた。いつもなら「滅びよ人間ども!」と威厳に満ちた声で研修を仕切る間苧谷部長の顔に、今日は見慣れない影が差している。


「なんか、部長…焦ってる?」


粘田の隣で勇田花子が小声で呟いた。確かに、部長の額の角(普段は髪型でうまく隠している)が微かに震え、赤く光る瞳が落ち着きなく室内を見回している。


「一時的な通信障害が発生しているようです。全員、自席に戻って待機してください」


部長の声には、普段の「世界征服」トーンではなく、明らかな緊張感が混じっていた。


社員たちがぞろぞろと会議室を出る中、粘田のポケットでスマホが震え始めた。画面を見ると「不明」の着信。


「また変な営業電話か…」


無視しようとしたその時、スマホから奇妙な音が漏れ出した。


「ぷるぷる…ぷるぷる…」


粘田は凍りついた。この音は…かつての自分自身の声だった。スライム時代の。


「どうしたの?」花子が心配そうに覗き込む。


「いや、なんでもない…」


粘田は慌ててスマホをポケットに戻した。しかし振動は止まらず、むしろ強くなっていく。まるで必死に何かを伝えようとしているかのように。


執務室に戻ると、さらに奇妙な光景が広がっていた。全デスクのモニターが青白い光を放ち、画面には同じ文字列が浮かび上がっている。


『この騒動は始まりに過ぎぬ……』


「なんだこれ…」

「ウイルス?」

「IT部門に連絡しろ!」


社員たちが騒然とする中、粘田はふと窓の外に目をやった。新橋の街並みはいつもと変わらない。しかしよく見ると、ビルの間の空に微かな歪みが見える。まるで現実の布地が引き伸ばされているかのような。


「透さん」


小振田緑朗がコンビニの制服姿で粘田の横に立っていた。本来なら今日は出社するはずのない彼が、なぜかここにいる。


「小振田さん、どうして…」


「異変を感じたんです」小振田は真剣な表情で言った。「元ゴブリンの勘ですが、何か大きなものが近づいています」


粘田の胸の奥で、黒焙煎核が反応するように熱くなった。


「部長も気づいているようですね」小振田が部長の方を顎でしゃくる。間苧谷部長は執務室の中央に立ち、目を閉じて何かを感知しているようだった。


「皆さん、落ち着いてください」部長が突然声を上げた。「これは単なるシステムエラーです。IT部門が対応中ですので…」


その言葉が途切れた瞬間、オフィス全体が微かに揺れた。コーヒーカップが机の上で踊り、書類が風もないのに舞い上がる。


「嘘つくなよ、魔王」


声の主は経理部の田蟹だった。普段は大人しい彼が、突然立ち上がり部長を指差していた。背中の小さな甲羅が怒りに震えている。


「これはあんたの仕業だろ?またどこかの世界を征服しようとしてるんじゃないのか?」


「田蟹君!」部長の声が低く唸るように変わった。「君は何を…」


「俺だって異世界から来たんだよ。カニ族の生き残りだ。お前の軍勢に故郷を滅ぼされたんだぞ!」


オフィスに静寂が広がる。誰もが田蟹と部長の対峙を固唾を呑んで見守っていた。


「違う…今回は私の仕業ではない」


部長の声は意外にも静かで、そこには焦りと…恐れが混じっていた。


「何かが来る。何かが…この世界に入り込もうとしている」


その言葉が終わらないうちに、粘田のスマホが再び鳴り始めた。今度は振動だけでなく、画面も勝手に点灯し、奇妙な泡のようなパターンが浮かび上がっている。


「ねぇ、透さん」花子が粘田の腕を掴んだ。「あれ…見て」


彼女が指さす先、オフィスの大型テレビモニターには、ニュース速報が流れていた。


『都内各所で謎の現象が発生 専門家「説明のつかない自然現象」と困惑』


画面には新宿駅前の映像が映し出されていた。空に巨大な渦が形成され、そこから何かが…滴り落ちてきている。


「あれは…」粘田の言葉が喉で詰まる。


「スライム…」小振田が絞り出すように言った。「大量の…スライム」


粘田の胸の核が激しく脈動し始め、彼の指先がゆっくりと透明に変化していく。かつての本能が呼び覚まされるように、体の一部がスライム化していくのを感じた。


「透さん、大丈夫?」花子が心配そうに問いかける。


「わからない…でも、何か呼んでる。何かが俺を…」


部長が粘田の前に立ちはだかった。その目は真剣そのものだった。


「粘田君、君の中の核が反応している。おそらく、異世界との繋がりが…」


言葉の途中、オフィス全体の電気が一斉に消え、非常灯だけが赤く空間を照らし出した。そして、全員のスマホが同時に鳴り始めた。


画面には全て同じメッセージ。


『帰ってこい、ぷる男。お前の王国が待っている。』


粘田は震える手でスマホを握りしめた。胸の奥で、かつてスライムだった自分の記憶が呼び覚まされる。


「部長…これは…」


「ああ」間苧谷部長は重々しく頷いた。「どうやら、異世界があなたを王として迎えようとしているようだ」


オフィスに不穏な静寂が広がる中、粘田の体は徐々に人間とスライムの境界を行き来し始めていた。そして彼の耳に、かつての仲間たちの声が聞こえてくる。


「ぷる男様…お帰りください…」


外の空はさらに歪み、新たな現実が押し寄せようとしていた。平凡な日常は、今まさに終わろうとしている。

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