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逃走と暗示

会議室の空気が一変した瞬間だった。


「皆さん、少々お待ちください!」


甲高い声が響き渡り、全員の視線がドアに集中した。そこには小柄な女性が立っていた。半透明の肌が蛍光灯に照らされて微かに輝いている。


「人外美紀です。本日の会議進行役を務めます」


彼女は颯爽と会議室に入ると、暗岩部長のシステム関連資料を手際よく片付け始めた。


「ちょっと、今は重要な議題の最中で…」社長が制止しようとしたが、美紀は聞く耳を持たない。


「申し訳ありませんが、販促部の闇プロジェクトは本日付で凍結されました。代わりに新企画の提案をお願いします」


彼女の言葉に会議室が騒然となる中、粘田透は間苧谷部長と目を合わせた。間苧谷がわずかに顎をしゃくる。それが合図だった。


「トイレ行ってきます!」


粘田は突然立ち上がり、勇田花子と小振田緑朗を促した。三人は慌ただしく会議室を出る。


「おい、戻ってこい!」社長の怒声が背後から聞こえたが、既に遅い。


廊下に出た三人は足早に非常階段へと向かった。


「なんで逃げてるの?」花子が息を切らせながら尋ねる。


「間苧谷部長の指示だ」粘田は小声で答えた。「あの会議、何かがおかしい」


「俺も感じてた」小振田が頷く。「人外美紀さんの登場のタイミングが不自然すぎる」


三人が階段を駆け下りていると、上階から不気味な笑い声が響いてきた。振り向くと、暗岩インコ部長が手に大量の資料を抱え、不気味な笑みを浮かべていた。


「ふふふ…逃げても無駄ですよ」


暗岩部長は首をカクカクと動かしながら言った。「私の計画は既に動き出している。この資料があれば、誰も止められない」


「待て!」粘田が叫ぶが、暗岩部長は別の非常口へと姿を消した。


「追いかけるべき?」花子が尋ねる。


「いや、今は自分たちの身を守るべきだ」粘田は震える手で携帯を取り出した。「間苧谷部長にメッセージを送ろう」


粘田がメッセージを送り終えると、小振田が不安そうに周囲を見回した。


「でも、どこに逃げればいいんだ?」


「とりあえず外に出よう」


三人は一階まで降り、裏口から外に出た。新橋の喧騒が彼らを迎える。


「あれ?もう昼?」花子が空を見上げて驚いた。「会議室にいた時間、長かったのかな」


「いや、おかしい」粘田は眉をひそめた。「会議は朝9時に始まって、まだ1時間も経ってないはずだ」


「時間操作…?」小振田が不安げに呟いた。


その時、粘田のスマホが震えた。間苧谷部長からのメッセージだ。


『緊急事態。暗岩は全社員データと新商品企画を持ち出した。会社に戻るな。俺の指示を待て。』


「マジかよ…」粘田は呆然とした表情でメッセージを二人に見せた。


「新商品企画って…」花子の顔が青ざめる。「私たちが3ヶ月かけて作ったプレゼン資料全部?」


「しかも全社員データって…」小振田が付け加えた。「俺たちの個人情報全部じゃないか」


粘田は不安を抑えきれず、知らず知らずのうちに右腕がスライム化し始めていた。それに気づいて慌てて元に戻す。


「とりあえず、どこか安全な場所で待機しよう」


三人は近くの喫茶店に入った。窓際の席に座り、コーヒーを注文する。


「なんだか映画みたいだね」花子がコーヒーをかき混ぜながら言った。「会社から逃亡中の社員たち」


「冗談言ってる場合じゃないぞ」小振田は厳しい表情で言った。「暗岩部長が何を企んでるか考えないと」


粘田はぼんやりと窓の外を見つめていた。通りを行き交う人々は、彼らの異常事態など知る由もなく、普通の一日を過ごしている。


「ねえ、考えてみたんだけど」粘田が突然口を開いた。「暗岩部長って、本当に鳥なのかな?」


「は?」花子と小振田が同時に声を上げた。


「だって、あの首の動き方おかしくない?それに、いつも同じスーツ着てるし…」


「確かに…」小振田が考え込む。「俺、一度も彼が食事してるところ見たことないぞ」


「それより、人外美紀さんの正体が気になる」花子が言った。「半妖精って言ってたけど、あの透明感は普通じゃない」


三人が話し合っていると、突然店内のテレビがノイズで乱れた。画面には暗岩部長の顔が映し出される。


「皆さん、お聞きください」


暗岩部長の声が喫茶店中に響き渡った。他の客も驚いて画面を見上げている。


「本日より、新たなサービス『心読みAIアシスタント』を全国展開します。このシステムはあなたの望みを先読みし、最適な商品を提案します」


画面には「心読みAIアシスタント」のロゴと共に、スマホアプリのダウンロード画面が表示された。


「これは…」粘田が絶句する。


「会議室で見た資料だ」小振田が声を潜めて言った。「あれは単なる顧客誘導システムじゃなく、人の心を読み取る技術だったんだ」


「でも、そんなの可能なの?」花子が疑問を呈する。


「異世界の魔法と現代技術の融合…」粘田は思い出したように呟いた。「暗岩部長はそう言ってたよね」


テレビ画面では、既にアプリをダウンロードし始める人々の姿が映し出されていた。


「このままじゃ大変なことになる」小振田が立ち上がった。「間苧谷部長に連絡しないと」


粘田がスマホを取り出そうとした瞬間、店のドアが開き、見知らぬスーツ姿の男性が二人入ってきた。彼らは店内を素早く見回すと、三人の方へ歩み寄ってきた。


「粘田透さん、勇田花子さん、小振田緑朗さん、お話があります」


一人の男性が冷たい声で言った。


「誰…?」花子が身構える。


「販促部特別対策チームです」もう一人が答えた。「暗岩部長の指示で、あなた方を保護しに来ました」


「保護?」粘田は不信感を隠せない。「どういう意味だ?」


「詳細は車の中で説明します。どうぞこちらへ」


男性たちは出口を指差した。店の外には黒いワゴン車が待機している。


三人は互いに目配せした。これは明らかに罠だ。


「すみません、トイレ行ってきます」粘田が立ち上がる。


「私も」花子も続いた。


「俺も」小振田も加わる。


男性たちは困惑した表情を浮かべた。


「全員一緒にですか?」


「はい、社内規則です」粘田は真顔で答えた。「同僚と行動を共にする『バディシステム』というんです」


男性たちが怪訝な表情を浮かべる隙に、三人はトイレへと急いだ。しかし、トイレに入るや否や、粘田は非常口のドアを指差した。


「こっちだ!」


三人は素早く非常口から外に出て、裏路地を駆け抜けた。背後からは男性たちの怒声が聞こえてくる。


「どこに逃げればいいんだ?」小振田が息を切らしながら尋ねた。


「とにかく人混みに紛れよう」粘田は駅の方向を指差した。


三人が駅に向かって走っていると、粘田のスマホが震えた。間苧谷部長からの新しいメッセージだ。


『秘密の場所で会おう。いつもの店、18時。暗号は「滅びよ人間」。気をつけろ。』


粘田は微かに笑みを浮かべた。


「間苧谷部長、さすが元魔王だ…」


背後では、黒いワゴン車が彼らを追いかけてくる。人々の間を縫うように三人は走り続けた。この逃走劇がどこに行き着くのか、まだ誰にも分からない。


ただ一つ確かなのは、普通のサラリーマン生活とはもう無縁になったということだけだった。

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