混沌実験会議
会議室のドアを勢いよく開けると、すでに社員たちが席に着いていた。粘田は息を切らしながら前に立ち、周囲を見回した。
「み、みなさん!大変なことになってます!間苧谷部長が…」
言葉が途切れた。全員が無表情で粘田を見つめている。その目は…どこか虚ろだ。
「遅刻とはけしからん」
背後から間苧谷部長の声。振り返ると、部長は先ほどの黒い炎の気配を隠し、完璧なビジネススーツ姿で立っていた。
「す、すみません…」
「さあ、始めたまえ」部長はニヤリと笑った。「君の大切なプレゼンを」
粘田は混乱した。助けを求めて花子を探したが、彼女も他の社員と同じく虚ろな目をしていた。
「花子さん…?」
反応がない。
「心配するな」部長が耳元でささやいた。「彼らはすでに我が闇の販促マジックの影響下にある。さあ、始めたまえ」
粘田は震える手でパソコンを開いた。プレゼン資料を立ち上げる間も、頭は高速回転している。どうすれば魔法陣の発動を避けられるか。
「それでは、新商品『ぷるっとヘルシー』の企画についてご説明します」
粘田は声を震わせながら発表を始めた。最初のスライドを映すと、社員たちが一斉に「おぉ…」と感嘆の声を上げた。あまりにも自然な反応に違和感を覚える。
発表を進めながら、粘田は必死に考えた。最後のスライドだけ飛ばせないか。でも魔法陣が仕込まれたファイルは、通常の操作が効かない…。
「次に、市場分析の結果について…」
その時、会議室のドアが開いた。
「すみません、遅れました!」
元気な声とともに入ってきたのは、なんと花子だった。粘田は目を見開いた。会議テーブルにも花子がいるはずなのに…?
「花子さん…?」
「ごめんね、トイレで化粧直ししてたら時間かかっちゃって」花子はウインクした。
粘田は混乱した。テーブルに座る「花子」と、今入ってきた花子。どちらが本物だろう?
間苧谷部長が眉をひそめた。「勇田君、君はすでに席についているはずだが?」
「え?」花子は不思議そうな顔をした。「私、今来たばかりですよ?」
部長の目が鋭く光る。「まさか…」
花子はにっこり笑うと、スマホを取り出した。「部長、これ見てください」
スマホの画面には、先ほどの秘密会議の録音データが表示されている。
「なっ…!」部長の顔が青ざめた。
「実は、粘田さんが録音したデータ、私のスマホにも送ってくれてたんです」花子は明るく言った。「で、念のため本社のセキュリティ部にも転送しておきました」
間苧谷部長の顔が歪んだ。「貴様…!」
突然、会議室の照明が消え、非常灯だけが赤く点滅し始めた。テーブルに座っていた社員たちが一斉に立ち上がる。
「計画通りに進めます、魔王様」
彼らの声は不気味に重なり合っていた。粘田は震える手でプレゼンを止めようとしたが、パソコンは反応しない。
「もう遅い!」間苧谷部長…いや、魔王が高笑いした。「プレゼンは自動的に最後のスライドまで進む!魔法陣は発動する!」
「くそっ…!」
粘田はパソコンを閉じようとしたが、なぜかフタが開かない。画面では自動的にスライドが進んでいく。
「粘田さん!」花子が叫んだ。「プロジェクターのコードを抜いて!」
そうだ!粘田は机の下に潜り込み、プロジェクターのケーブルを探した。しかし…
「探すだけ無駄だ」魔王が笑った。「すべてのケーブルは魔力で固定されている」
「ちくしょう…」
残りあと3枚のスライド。魔法陣の発動まであと少し。
その時、会議室のドアが再び開いた。
「すみません、お邪魔します」
小柄な男性が入ってきた。コンビニの制服を着ている。
「小振田さん!?」粘田は驚いた。
「あ、粘田さん」小振田緑朗はにこやかに手を振った。「実は、このビルの15階で怪しい魔力反応があるって聞いて」
「貴様…ゴブリンか!」魔王が唸った。
「元ゴブリンです」小振田は丁寧に訂正した。「今はコンビニ店員です。で、ちょっと見に来たら、まさか魔王様がいらっしゃるとは」
「邪魔するな!」魔王が黒い炎を放つ。
小振田はそれをあっさり手で払いのけた。「いやぁ、魔法は苦手なんですよ」
その隙に、粘田はパソコンに飛びついた。あと2枚でスライドが終わる。
「どうすれば…」
「粘田さん!」花子が叫んだ。「スライムになって!」
「え?」
「あなたの元の姿!スライムに戻れば、パソコンの中に入れるでしょ!」
そうか!粘田は目を閉じ、集中した。体が徐々に溶け始める。人間の姿からスライム状態へ。完全には戻れないが、半透明の粘液状になることはできる。
「やめろおおおっ!」魔王が叫ぶ。
粘田の体は完全に粘液化し、パソコンのキーボードの隙間から内部へと流れ込んだ。
「うわっ、中から見るとプログラムが見える…」
粘田は驚きながらも、魔法陣のコードを探した。複雑に絡み合ったプログラムの中で、不自然に光る赤い糸を見つける。
「これだ!」
粘田はその糸に体を巻きつけ、引きちぎった。
外の世界では、プロジェクターの映像が突然乱れ、スライドショーが停止した。魔法陣は発動せず、魔王の計画は頓挫した。
「なんだとぉぉぉっ!」
魔王の怒号が響く中、粘田はパソコンから這い出てきた。体は半分人間、半分スライムの奇妙な姿になっている。
「やりましたね、粘田さん!」花子が駆け寄った。
「くそっ…我が計画が…」魔王は膝をついた。
「間苧谷さん」小振田が穏やかに言った。「もう諦めませんか?異世界の力で人間界を支配するなんて、時代遅れですよ」
「なんだと?」
「今はね、消費者の心を掴むのは魔法じゃなくて、心のこもったサービスなんです」小振田は真剣な表情で続けた。「うちのコンビニ、一度来てみませんか?今ならおでん一個おまけしますよ」
会議室は静まり返った。
魔王はしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。「…おでんか」
「はい。大根とこんにゃくが特におすすめです」
魔王は立ち上がり、スーツの襟を正した。「わかった。今回は引くとしよう。だが…」
彼は粘田を鋭い目で見た。「次回の販売会議では、お前のプレゼンを徹底的に叩く。覚悟しておけ」
「は、はい…」粘田は弱々しく答えた。
魔王は去り際、「明日の朝礼は9時からだ。遅刻するな」と言い残して出て行った。
テーブルに座っていた社員たちも、魔法が解けたのか、混乱した様子で目を覚まし始めた。
「…何が起きたの?」
粘田、花子、小振田の三人は顔を見合わせた。
「長い話になりそうだね」小振田が笑った。「よかったら、うちのコンビニでおでんでも食べながら話しません?」
粘田は自分の体を見た。まだ半分スライム状態だ。「僕、この姿で外出れないよ…」
「大丈夫ですよ」花子が明るく言った。「透明なペットボトルに入れてあげますから」
「それは勘弁して!」
三人は笑い合った。魔王の計画は阻止されたが、明日からの会社生活はどうなるのだろう。粘田は窓の外を見た。夜の東京の街が、いつもと変わらず輝いている。
「とりあえず、今日のところは…帰ろっか」