秘密の会議室
新商品企画のプレゼン資料を作りながら、粘田透はため息をついた。画面に映る図表は昨日と同じ位置で止まったままだ。
「やっぱり無理だよ…」
椅子から立ち上がり、オフィスの窓際に移動する。透明なスライムだった頃の習性は今も抜けず、ガラス窓に頬をぺたりとくっつけた。冷たい感触が心地よい。
「おいおい粘田くん、またくっついてるよ」
後ろから声をかけられ、慌てて窓から離れる。同僚の勇田花子だ。
「ごめん、ちょっと考え事してて」
「プレゼンの準備?」花子は優しく微笑んだ。「頑張ってね。でも…」
彼女は周囲を見回してから、声を潜めた。
「最近、部長の様子がおかしくない?」
粘田は首を傾げた。「おかしいって?いつもおかしいじゃん」
「それもそうだけど」花子は更に声を落とした。「昨日、残業してたら見ちゃったの。部長が15階の使われてない会議室に入っていくところ」
「15階?」粘田は首を傾げた。「あそこって改装工事中で立入禁止じゃなかった?」
「そうなの。しかも部長、『滅びよ人間』じゃなくて『集え我が下僕たち』って呟いてたの」
粘田は背筋に冷たいものを感じた。間苧谷部長が元・魔王であることは知っているが、最近は普通の(パワハラ)上司として振る舞っていたはずだ。
「あと、これ」
花子はスマホを見せた。画面には「闇の販促部」と書かれた不気味な名札の写真が映っている。
「これ、15階の会議室のドアに貼ってあったの」
二人が顔を見合わせていると、背後から声が聞こえた。
「何をコソコソしている?」
振り向くと、間苧谷部長が立っていた。普段通りのスーツ姿だが、ネクタイの結び目が少しだけ緩んでいる。
「い、いえ、何も…」
「粘田、プレゼン資料はできたか?」
「あ、はい、まだ途中で…」
「ふむ」部長は腕を組んだ。「今夜までに仕上げろ。18時から会議だ」
「え?今夜ですか?明日の予定じゃ…」
「予定変更だ」部長は不敵に笑った。「大事な…お客様が来られる」
部長が去った後、粘田と花子は顔を見合わせた。
「怪しすぎる…」花子がつぶやく。
「調べてみよう」粘田は決意した。「僕にできることがあるはず」
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昼休み、粘田は15階へと向かった。エレベーターを降りると、確かに「工事中」の看板が立っている。しかし廊下の奥には明かりが漏れていた。
「よし…」
粘田は深呼吸し、自分の特殊能力を発動させた。元スライムの特性を活かし、体を半透明化する。完全に透明にはならないが、薄暗い廊下なら気づかれにくい。
体を壁にくっつけるようにして進むと、確かに一室だけ明かりがついている会議室があった。ドアには「闇の販促部」の札。
粘田は体を限界まで薄く伸ばし、ドアの隙間から中を覗き込んだ。
中では数人の社員が集まっていた。見たことのある顔もあれば、初めて見る人も。全員が黒いスーツを着ている。
そして中央に立つ間苧谷部長。
「諸君、我々の計画は順調だ」部長の声が響く。「明日の新商品発表会で、ついに我が魔王軍団は復活する」
「部長、でも粘田氏のプレゼンが…」
「心配するな」部長は高笑いした。「あの底辺スライムごときに我が計画が阻まれるはずがない。むしろ利用してやる」
粘田は息を呑んだ。自分が何かの計画に利用されようとしている?
「明日のプレゼンの最中、粘田が『新しい時代の幕開け』と発言した瞬間、我々は行動を開始する」部長は続けた。「彼のスライドに仕込んだ魔法陣が発動し、会議室に集まった役員全員を異世界に転送する」
「そして我々が会社を乗っ取る…」
「正確には、この世界を乗っ取るのだ!」
会議室から歓声が上がった。粘田は震える手でスマホを取り出し、こっそり会話を録音し始めた。
「我が闇の販促部は、かつての魔王軍の幹部たちだ」部長は誇らしげに言った。「人間界に転生した我々が再び集結する時が来たのだ」
粘田は冷や汗をかきながら録音を続けた。しかしその時、不意に体のコントロールを失い、「ぷるん」という音を立ててしまった。
会議室内が静まり返る。
「誰かいるな?」部長の声が鋭く響いた。
粘田は慌てて体を引き剥がし、廊下を走り出した。背後からドアが開く音。
「捕まえろ!」
全力で走りながら、粘田はエレベーターのボタンを連打した。扉が開くまでの数秒が永遠に思えた。
後ろを振り返ると、黒服の男たちが迫っている。その目は赤く光っていた。
「ちくしょう…!」
エレベーターが開き、粘田は飛び込んだ。扉が閉まる直前、一人の男が手を伸ばしてきた。しかし間一髪で扉は閉まった。
粘田はエレベーター内で膝を抱えて震えていた。録音は取れたが、これからどうすればいいのか。
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「花子さん!大変なことになってる!」
自席に戻った粘田は、花子に録音を聞かせた。彼女の顔が青ざめていく。
「これって…会社乗っ取りどころか世界征服計画じゃない?」
「どうすればいいんだろう…」
「とにかく、あなたのプレゼン資料を確認しないと」花子は言った。「何か仕込まれてるはずよ」
二人でプレゼン資料を開くと、最後のスライドに見覚えのない図形が描かれていた。
「これだ…」粘田はつぶやいた。「魔法陣…」
「消せるの?」
「試してみる」
粘田が削除ボタンを押すと、画面全体が赤く点滅し始めた。「ERROR」の文字とともに、小さなスライムのアイコンが踊り始める。
「消せない…」
「じゃあ、プレゼンをキャンセルするしかないわね」
「でも部長が…」
二人が途方に暮れていると、デスクの上の電話が鳴った。
「粘田君、すぐに私の部屋に来たまえ」
間苧谷部長の声だった。
「行かないほうがいいんじゃ…」花子が心配そうに言う。
「でも、行かないと怪しまれる」粘田は立ち上がった。「大丈夫、スマホを録音モードにしておくから」
「気をつけて…」
粘田は深呼吸して部長室へ向かった。ノックをすると、中から「入れ」という声。
ドアを開けると、間苧谷部長が椅子に深く腰掛けていた。窓の外は夕暮れが迫っている。
「粘田君、座りたまえ」
粘田は緊張しながら椅子に座った。
「君は、面白いものを見てしまったようだね」部長はにやりと笑った。
「え?何のことですか?」
「とぼけるな」部長の目が赤く光る。「15階での…我々の会議をだ」
粘田は震えながらも、開き直った。
「はい、見ました。闇の販促部の秘密会議を」
「ほう」部長は感心したように頷いた。「素直だな。では聞くが、君はどうするつもりだ?」
「どうするって…」
「我々の計画を阻止するか?それとも…」部長は前のめりになった。「仲間になるか?」
粘田は目を見開いた。「仲間に?」
「そうだ」部長は立ち上がり、窓際に歩み寄った。「君は元スライムだ。人間界で生きづらさを感じているだろう?我々の新世界なら、君のような存在も輝ける」
「でも、それは間違ってます」粘田は震える声で言った。「僕は…人間として生きることを選びました」
「愚かな…」部長の声が低く唸る。「ならば、君には消えてもらうしかないな」
部長の手から黒い炎が立ち上る。粘田は椅子から飛び上がり、ドアに向かって走った。
「逃がさん!」
部長の放った黒い炎が粘田の背中をかすめる。熱さを感じながらも、粘田は廊下に飛び出した。
「みんな逃げて!」粘田は叫んだ。「部長が魔王に戻った!」
しかしオフィスはすでに誰もいない。時計を見ると18時前。みんな会議室に集まっているはずだ。
「くそっ…」
粘田は会議室に向かって走り出した。背後では間苧谷部長の足音が迫っている。
「間に合え…!」
粘田の頭には一つの考えしかなかった。
プレゼンを始める前に、みんなに真実を伝えなければ。