夜明けの閃光
会議室を包む緊張感は、まるで固まりかけたゼリーのように重く粘っこい。間苧谷部長と大槌崎の睨み合いは膠着状態に入り、粘田透のスライム化した体は二人の間で青白く輝いていた。
「どけ、粘田」部長の声が低く唸る。「これは転生者同士の問題だ」
「いいえ、違います!」粘田は震える声で反論した。「会社の問題です。みんなの問題です!」
大槌崎が鼻から火花を散らし、床が焦げる。「愚かな…古代ドラゴンの巣窟が完成すれば、お前らなど塵に過ぎん」
三者三様の緊張が頂点に達したその時だった。
「みんな!結界が…もう限界です!」
早道場カルロスの悲痛な叫びが響く。彼の掲げる聖杖から放たれていた淡い光の膜が、ヒビ割れ始めていた。
「くっ…」早道場は額に汗を浮かべながら必死に杖を握りしめる。「現代の霊力が薄すぎて…維持できない…」
その瞬間、結界が砕け散った。
ガシャァン!
まるでガラスが割れるような音と共に、異界の波動が一気に広がる。廊下の壁が溶け、床が波打ち、天井から紫色の雲が垂れ下がってきた。
「きゃあっ!」花子が悲鳴を上げる。
社員たちの悲鳴が響く中、粘田の体に異変が起きた。
彼の半透明になった体が、さらに強く光り始めたのだ。その光は淡い青から次第に白銀色へと変わっていく。
「な…なんだ…?」
粘田自身も驚いて自分の手を見つめた。その光は彼の足元から会議室の床に広がり、不思議な模様を描き始める。
それはスライムの姿だった。
床一面に広がる巨大なスライムの紋章。その輪郭が銀色に輝き、異空間の侵食を押し返していく。
「これは…!」間苧谷部長が目を見開いた。「古代の封印術だと…?」
大槌崎も動きを止め、床に広がる紋章を凝視する。「まさか…底辺スライムがこんな力を…」
粘田は自分の中から溢れ出す力に戸惑いながらも、それを受け入れた。スライムの紋章は会議室全体を覆い、異空間との境界を安定させていく。
「スライムって…意外と凄いんですね」粘田は半分呆然としながら呟いた。
しかし大槌崎はそれを許さなかった。
「邪魔するなぁっ!」
彼は咆哮と共に炎を吐き出した。粘田に向かって放たれた青白い炎。
「危ない!」
間苧谷部長が粘田の前に立ちはだかり、黒い盾を展開する。炎は盾に当たって四散したが、その衝撃で部長は後ろに吹き飛ばされた。
「部長!」
混乱の中、花子が動いた。彼女はコピー機の横に立ち、トナーカートリッジを抜き取ると、
「これでもくらえっ!」
大槌崎に向かって投げつけた。カートリッジは空中で割れ、黒い粉が大槌崎の顔面を直撃する。
「ぐああっ!目が…見えん!」
大槌崎が黒い粉にまみれた顔をかきむしる隙に、間苧谷部長が立ち上がった。
「今だ…!」
部長の両手から漆黒のエネルギーが渦巻き始める。それは次第に大きくなり、部屋中の影を吸い込むように膨張していく。
「滅びよ、人間…ではなく、ドラゴン!」
間苧谷部長の放った魔王エネルギーが大槌崎を包み込む。ビル全体が揺れ、眩い閃光が走った。
粘田は目を閉じた。耳をつんざくような咆哮が響き、それから…
静寂。
恐る恐る目を開けると、会議室は元の姿に戻っていた。プロジェクター、会議テーブル、椅子…すべてが通常の状態で、異空間の痕跡は消えていた。
「え…?」
床を見ると、スライムの紋章も消えている。粘田の体も普通の人間の姿に戻っていた。
「大槌崎は…?」
彼の姿はどこにも見当たらない。窓の外を見ると、夜明けの光が差し始めていた。
「消えた…というか、封印された」間苧谷部長が疲れた様子で言った。彼の角も消え、普通のスーツ姿の部長に戻っていた。
「どういうことですか?」粘田が聞く。
「君のスライムの紋章が異空間の安定に貢献した」部長は珍しく真面目な表情で説明する。「おかげで私の力で大槌崎を元の世界に押し戻すことができた」
「元の世界…って」
「異世界の地下牢だ」部長はニヤリと笑った。「私が魔王だった頃の城の地下牢に」
社員たちは呆然と立ち尽くしている。誰も状況を完全には理解できていないようだった。
花子がそっと粘田に近づいた。「粘田さん、あの光…すごかったです」
「いや、僕もよく分からなくて…」粘田は照れくさそうに頭をかく。「でも、会社が無事で良かった」
「おーい、皆の衆!」
間苧谷部長が突然、いつもの調子で叫んだ。「何をボーっとしている!今日の仕事はこれからだぞ!」
「え…?」
「それとも…」部長の目が赤く光る。「今夜の飲み会をキャンセルしたいのか?」
社員たちは慌てて「いえいえ!」「楽しみにしてます!」と口々に言った。
「よろしい」部長は満足そうに頷いた。「では今日も一日、滅びよ人間…じゃなかった、頑張ろう社員諸君!」
粘田は呆れながらも苦笑した。結局、何事もなかったかのように日常に戻っていく不思議。
「ねえ、粘田さん」花子がささやいた。「今夜の飲み会、来ますよね?」
「ええ、もちろん」
「良かった」彼女はほっとした表情を見せる。「実は…私、転生前に魔王を倒した時の話をしたくて…」
「え?そうだったんですか!?」
「はい。その魔王が…」花子は部長の方をチラリと見た。
粘田は目を見開いた。「まさか…」
花子はクスリと笑った。「飲み会で話しますね」
窓の外では、すっかり夜が明けていた。新しい一日の始まり。粘田透は深呼吸をして、今日も会社員として、そして元スライムとして歩み続ける決意を新たにした。
時々、彼の指先が青く光るのは、気のせいだろうか。