契約の闇
朝の光が窓から差し込む新橋のオフィス。今日も平凡な一日が始まるはずだった。私、粘田透はデスクに向かって資料を整理していたが、なぜか背筋がゾクゾクする。昨日から感じていた違和感が、今日はさらに強くなっている。
「なんか変な感じがするよね」
隣のデスクから勇田花子が身を乗り出してきた。彼女は元勇者だけあって、危険を察知する能力が優れている。
「ほんとだよ。まるで…」
言葉を探していると、エレベーターのドアが開く音が聞こえた。社内が一瞬静まり返る。
漆黒のスーツに身を包んだ男性が、ゆっくりとした足取りでオフィスに入ってきた。前回の商談で逃げるように帰った闇井グループの人間だ。ただし今回は一人だけ。
「おはようございます。闇井義宗と申します」
彼の声は低く、耳に心地よく響くが、どこか不気味さを感じる。
「闇井グループ法務部長です。先日は失礼しました」
間苧谷部長が自分のオフィスから飛び出してきた。「何の用だ?」
闇井義宗は薄く笑みを浮かべた。「契約書の一部修正をお願いしたくて」
「断ったはずだが」
「いいえ、正式な断りはいただいておりません。ですので、改めて提案させていただきたく」
彼は黒いアタッシュケースを開き、前回と同じ契約書を取り出した。ただし、今回はいくつかの付箋が貼られている。
「前回の条件を見直しました。儀式の規模を縮小し、社員の残業時間も法定内に収めます」
間苧谷部長が眉をひそめる。「それでも断る理由はある」
「ええ、魂の件ですね」闇井義宗はにこやかに言った。「あれは冗談です。法的拘束力はございません」
会議室に移動することになった。私も同席するよう部長から指示され、花子も「お茶係」として同行した。
会議室のテーブルに広げられた契約書。闇井義宗が赤ペンで修正箇所を示していく。
「こちらの『魂の一部消失』という文言を『精神的疲労の可能性』に変更しました」
部長は腕を組み、じっと契約書を見つめている。「本当の目的は何だ?」
闇井義宗は一瞬だけ表情を引き締めた。「純粋なビジネスです。我々は企業の業績向上を支援し、その対価をいただくだけ」
「対価とは?」
「通常の報酬に加え、毎月満月の夜に行う儀式での…エネルギー提供です」
「エネルギー?」
「人間の感情から生まれるエネルギーです。恐怖、不安、焦り…そういったものが我々の世界では貴重な資源なのです」
会議室の空気が凍りついた。彼は異世界の存在について、まるで当たり前のように話している。
「我々は人間を傷つけません。ただ、感情を…いただくだけです」
私は思わず口を挟んだ。「それって、魂を取るのと同じじゃないですか?」
闇井義宗は首を横に振った。「魂は永続的ですが、感情は再生します。翌日には元通りです」
花子がお茶を配りながら、さりげなく契約書の細部を確認している。彼女の目が突然細くなった。
「ここに『世界征服準備金』って書いてありますけど」
闇井義宗は慌てて該当箇所を指さした。「誤植です。正しくは『世界進出準備金』です」
間苧谷部長の目が赤く光り始めた。「闇井、お前たちの目的は人間界の支配だろう」
「そんな…」闇井義宗は汗を拭いた。「ビジネス拡大が目的です」
「ビジネス拡大?」花子が鋭く切り返す。「人間の感情を吸い取って何に使うの?」
闇井義宗は言葉に詰まった。その時、会議室のドアが開き、コンビニのユニフォームを着た小振田緑朗が入ってきた。
「お弁当の配達でーす!」
全員が驚いた顔で振り返る。小振田は元ゴブリンだが、今はコンビニ店員として働いている。
「粘田さん、頼まれた唐揚げ弁当です!」
私は注文した覚えがないが、小振田がウインクしたので黙って受け取った。
「あれ?商談中ですか?失礼しました〜」
小振田は退出しようとしながら、闇井義宗の隣に立ち止まった。「お客様、ネクタイが曲がってますよ」
そう言って直すふりをしながら、彼は闇井義宗のポケットに手を忍ばせた。元ゴブリンの器用な指先が、何かを取り出している。
「では失礼します!」
小振田は明るく言って部屋を出た。闇井義宗は不審そうな顔をしている。
「話を続けましょう」彼は咳払いをした。「我々の提案は御社にとって利益になります」
間苧谷部長は冷ややかな目で彼を見た。「最終的な決断は来週までに伝える」
「しかし…」
「それ以上は話し合いの余地はない。帰れ」
部長の声には魔王時代の威厳が漂っていた。闇井義宗は渋々と契約書をケースに戻し、立ち上がった。
「では、来週お返事をお待ちしております」
彼が去った後、会議室には重苦しい空気が残った。
「部長、あの契約書…」
「ああ、明らかに罠だ」間苧谷部長は頭を抱えた。「だが、彼らは簡単には引き下がらないだろう」
その時、小振田が再び顔を出した。「みなさん、これ見てください」
彼が差し出したのは、小さな黒い石だった。
「闇井さんのポケットから見つけました。異世界の魔力結晶です」
花子が石を手に取り、眉をひそめた。「これは…人間の感情を吸収するための媒体!」
「そうなんです」小振田は真剣な表情で言った。「あの男、オフィス中にこれを仕掛けようとしていたんでしょう」
間苧谷部長は石を見つめながら低い声で言った。「やはり、人間界を支配する準備を始めているな」
「どうしましょう?」私は不安になって、思わず床に半分溶け始めていた。
「対抗策を練る必要がある」部長は立ち上がった。「粘田、花子、小振田。お前たちの力が必要だ」
「僕にできることなんて…」
「元スライムの感覚と、勇者の勘、ゴブリンの狡猾さ。これらが我々の武器だ」
部長の目には決意が宿っていた。「闇井グループが次に動くのは満月の夜だろう。それまでに準備を整えよう」
窓の外を見ると、曇り空の向こうに月の輪郭がうっすらと見えた。次の満月まであと18日。
「部長、本当に大丈夫ですか?」花子が心配そうに尋ねた。
間苧谷部長は珍しく真剣な表情で頷いた。「私は元魔王だ。人間界を守るのは…私の責務だ」
「滅びよ人間…じゃないんですか?」私は思わず尋ねた。
部長は小さく笑った。「今日だけは『栄えよ人間』だ。明日からはまた『滅びよ』に戻るがな」
会議室に集まった私たちは、異世界と現世の狭間で起きている不穏な動きに立ち向かうことを決意した。
小振田が黒い石を見つめながら呟いた。「ゴブリン族の格言にこうあります。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』…じゃなくて、『敵の弱点は必ず見つかる』」
「それ、孫子の兵法とゴブリン族の格言を混同してない?」花子が突っ込んだ。
「まあ、どっちでもいいじゃないですか」小振田は肩をすくめた。「大事なのは、闇井グループの弱点を見つけることです」
窓の外では、灰色の雲の間から太陽の光が差し始めていた。闇に立ち向かう戦いの序章が、静かに幕を開けたのだった。