異界の裏切り
深夜の残業を終え、粘田透はデスクの片付けをしていた。オフィスはもぬけの殻で、間苧谷部長の「工事があるから早く帰れ」という指示を皆素直に聞いたらしい。
「やっぱりおかしいよな…」
粘田は小振田から貰ったドラゴンの歯の欠片を懐中に忍ばせ、帰ろうとした矢先、ふと立ち止まる。
「あれ?」
時計を見ると23時直前。帰りのラストトレインに間に合うはずだった。しかし、なぜか足が前に進まない。スライム時代の勘が警告を発しているようだった。
「もう少し様子を見てからにしよう」
粘田は人気のないオフィスの隅、コピー機の裏側に身を潜めた。スライムの習性なのか、壁にぴったりと背中を付けると、妙に落ち着く。
時計の針が23時を指した瞬間、ビル全体が震え始めた。
「うわっ!」
突如、全館の電気が消え、闇に包まれる。数秒後、赤い非常灯だけがぼんやりと点灯した。
「これは…地震?」
いや、違う。地震なら揺れは不規則なはずだ。これは…まるで心臓の鼓動のような、規則正しい振動だった。
「ドクン…ドクン…」
ビル全体が生き物のように脈打っている。
非常灯の赤い光の中、粘田はゆっくりとコピー機の陰から顔を出した。そこで彼は息を呑んだ。
大槌崎がエレベーターホールから現れた。しかし、それはもう人間の姿ではなかった。
背中から巨大な翼が生え、全身が鱗に覆われている。顔は人間の面影を残しつつも、目は縦に細長く、口からは鋭い牙がのぞいていた。
「ドラゴン…」
思わず声が漏れそうになり、粘田は慌てて口を押さえた。
大槌崎は両手を広げ、何かの呪文を唱え始めた。その声は人間のものではなく、低く轟くような響きだった。
すると、オフィスの床や壁から緑色の光が浮かび上がり始めた。まるで回路のような模様が、床から壁、そして天井へと広がっていく。
「異界化が始まったか…」
粘田の背後から声がした。
「ひっ!」
振り向くと、そこには間苧谷部長が立っていた。しかし、彼もまた変貌していた。額からは二本の角が生え、皮膚は赤黒く、目は炎のように燃えていた。
「部、部長…?」
「驚いたか、粘田君」間苧谷は不気味に微笑んだ。「まさか君が残っているとは思わなかったよ」
粘田は後ずさりしようとしたが、壁に背中が当たってこれ以上下がれない。
「あなたも…転生者なんですね」
「ああ、かつての魔王だ」間苧谷は誇らしげに言った。「この世界に来てからも、飲み会の乾杯で『滅びよ人間!』と言っていたのに、誰も気づかなかったがな」
「そ、それは冗談だと…」
「冗談か本気か、どちらだと思う?」
間苧谷は粘田の肩を掴んだ。その手は異常に熱かった。
「さて、どうしよう。君はスライムの転生体だったな?」
「え?どうして…」
「バレバレだよ」間苧谷は笑った。「床や壁にくっついている癖、流されやすい性格…完全にスライムじゃないか」
粘田は言葉を失った。確かに自分でも気づいていたが、まさか上司に見抜かれているとは。
「心配するな。私は人間が嫌いだが、君は特別だ」
間苧谷はそう言うと、突然粘田を押しのけ、大槌崎の方へ向かって右手を突き出した。
「大槌崎、お前の裏切りは見抜いていたぞ!」
間苧谷の手から黒い光球が放たれ、大槌崎に直撃した。
「ぐああっ!」
大槌崎は悲鳴を上げ、壁に叩きつけられた。
「な、何が起きてるんですか?」粘田は混乱して尋ねた。
「奴は私の計画を横取りしようとした」間苧谷は冷たく言った。「この会社を異界のゲートにするのは私の計画だ。それなのに、奴は自分のドラゴン仲間だけを呼び寄せようとしていた」
大槌崎は立ち上がり、怒りに満ちた目で間苧谷を睨みつけた。
「魔王め…お前こそ裏切り者だ!我々の同盟は何だったのだ!」
「同盟?笑わせるな」間苧谷は嘲笑した。「私は最初から自分の王国を作るつもりだった。お前は単なる道具だ」
二人の間で緊張が高まる中、粘田はどうすればいいのか分からず、ただ立ち尽くしていた。
「粘田!」
大槌崎が突然粘田に向かって叫んだ。
「お前もスライムの転生体だろう?我々の味方になれ!魔王は全ての種族を支配しようとしている!」
「いいや、粘田君」間苧谷も負けじと言った。「ドラゴンは傲慢で信用できない。私なら君にこの新世界での地位を約束しよう」
粘田は二人の間で視線を行ったり来たりさせた。どちらも信用できそうにない。
「あの…僕はただの会社員に戻りたいだけで…」
「もう遅い!」
大槌崎が叫ぶと同時に、彼の口から炎が噴き出した。間苧谷はそれを暗黒の盾で防ぎ、オフィスは一瞬にして戦場と化した。
「うわあああ!」
粘田は机の下に潜り込んだ。しかし、その時、床から伸びていた緑の光の筋が突然明るさを増し、床全体が透き通り始めた。
「なっ…!」
足元の床が透明になり、その下には無限に広がる星空のような空間が見えた。まるで宇宙の上に立っているかのようだ。
「始まったか…」間苧谷がつぶやいた。
大槌崎も攻撃を止め、床を見下ろした。
「門が開きつつある…」
粘田の足元から床が崩れ始めた。彼は慌てて机の脚に掴まった。
「た、助けてください!」
間苧谷と大槌崎は一瞬粘田を見たが、すぐに再び互いを睨み合った。
「邪魔はさせん!」
大槌崎が翼を広げ、間苧谷に突進した。二人の激突でオフィス全体が揺れ、窓ガラスが割れて夜風が吹き込んだ。
「このままじゃ…」
粘田の手が滑り、彼は床の亀裂に向かって落ち始めた。
その瞬間、何かが彼の手を掴んだ。
「粘田さん!しっかり!」
見上げると、そこには勇田花子の顔があった。彼女は何かの拍子で戻ってきたようだ。
「花子さん!?どうして…」
「コピー機が私のスマホを飲み込んじゃって…」彼女は苦笑いした。「でも、それより!」
花子は粘田を引き上げようとしたが、床の崩壊は加速していた。
「くっ…」
二人の足元の床が完全に消失し、二人は宇宙のような空間へと落ちていった。
「きゃあああああ!」
「うわあああああ!」
落下する中、粘田は花子の手をしっかりと握った。
「大丈夫です!僕、スライムだったから落下には強いんです!」
「え?何言ってるの!?」
二人が叫ぶ声は、異界への落下とともに遠ざかっていった。
オフィスでは、間苧谷と大槌崎の戦いがさらに激しさを増していた。
「この世界は私のものだ!」間苧谷が叫ぶ。
「ドラゴンに屈する日は来ない!」大槌崎も負けじと応じる。
二人の衝突から放たれるエネルギーが、異界への門をさらに広げていく。
そして、その門の向こうから、何かが近づいてくる気配があった…