密会の囁き
机の下で目を覚ました時、粘田透はまず自分の体が壁にぴったりと張り付いていることに気づいた。
「またか…」
小さくため息をつく。スライムの習性は消えない。疲れると無意識に壁や床に張り付いてしまうのだ。
残業していたはずが、いつの間にか机の下で昼寝。時計を見ると午後11時を回っていた。
「あれ?誰かいる?」
オフィスの奥から低い声が聞こえてくる。もう誰もいないはずの時間だ。好奇心に駆られた粘田は、壁に張り付いたまま音の方向へと移動した。
会議室の扉の隙間から漏れる光。そこから聞こえてくるのは、間苧谷部長と見知らぬ男の声だった。
「計画は順調に進んでいるな、大槌崎」
「はい、間苧谷様。転生ドラゴン興業の営業成績も上々です」
粘田は思わず息を飲んだ。転生ドラゴン興業?聞いたことのない会社名だ。
「ふむ。門の開放まであとどれくらいだ?」
「現在の計算では、約一ヶ月後です。既に前兆現象も確認されています」
壁に張り付いた粘田は、身体を少しずつずらして会議室の中を覗き込んだ。間苧谷部長はいつもの姿だが、相手の男は見たことがない。背が高く、不自然なほど細長い指を持っている。
「人間どもは気づいていないようだな」
部長の声には、昨日まで聞いたことのない冷たさがあった。
「ええ。彼らの認識フィルターがまだ正常に機能しているようです。ただ…」
「ただ?」
「辺須という男が動き始めたようです。世界の管理者と呼ばれる男です」
その名前に粘田の背筋が凍りついた。辺須…あの謎の男だ。
「奴か…」間苧谷の声が低くなる。「対策は?」
「既に監視下に置いています。それよりも、問題は別にあります」
大槌崎と呼ばれた男は、不気味な笑みを浮かべた。
「スライムから転生した男がいるようです。前例のない事例です」
粘田の心臓が激しく鼓動し始めた。自分のことだ。
「ほう…名前は?」
「粘田透。あなたの部下です」
会議室内が一瞬静まり返った。粘田は自分の鼓動が相手に聞こえるのではないかと恐れた。
「あの男か…」間苧谷の声には興味が混じっていた。「確かに奇妙な気配を感じていたが、まさかスライムとは…」
「どう対処しましょうか?」
「今は様子を見よう。場合によっては…排除も考える」
その言葉に、粘田は思わず身体が震えた。壁から離れそうになり、慌てて体勢を立て直す。
「それより、勇者の転生体の方が問題だ。勇田花子…あの女は警戒が必要だ」
「彼女の監視は既に手配済みです」
大槌崎が何かを取り出した。小さな球体だ。それが淡く光り始めると、会議室内に奇妙な映像が浮かび上がった。
そこには勇田花子が映っていた。彼女は自宅のリビングで何かを書き留めている。まるで誰かに監視されているとは知らないように。
「彼女の動きは?」
「特に怪しい行動はありません。ただ、最近小振田緑朗というゴブリン転生体と接触しています」
「コンビニのゴブリンか…」間苧谷は考え込むように腕を組んだ。「あいつも気になる存在だ」
粘田は会話に聞き入りながら、少しずつ会議室から離れようとした。しかし、その時だ。
「誰かいるな」
間苧谷の鋭い声に、粘田の動きが止まった。
「感知魔法を発動します」
大槌崎が手を上げた瞬間、粘田は咄嗟の判断で天井に向かって体を伸ばした。スライムの特性を活かした緊急避難だ。
天井裏の隙間に体を押し込み、息を殺す。
「おかしいな…感じたはずだが」
「空調の音かもしれません」
「そうか…」間苧谷は納得していないようだったが、話を続けた。「とにかく、計画は予定通り進める。門が開いた時、我々の仲間が大挙してこの世界に来る。そして…」
彼の声は低く、恐ろしいほどに変化した。
「この世界は我々のものとなる」
天井裏で震える粘田の耳に、二人の不気味な笑い声が届いた。
会話はさらに30分ほど続いたが、内容は専門用語が多く、粘田には理解できないものだった。ただ一つ確かなのは、何か恐ろしいことが起ころうとしているということだ。
やがて二人が会議室を出て行く音がした。粘田はさらに10分ほど待ってから、慎重に天井から降りた。
オフィスは再び静寂に包まれていた。粘田は急いで自分の机に戻り、荷物をまとめた。帰り際、ふと窓の外を見ると、夜空に奇妙な形の雲が浮かんでいた。
渦を巻くような形で、中心が暗く、他の雲とは明らかに違う。花子の言っていた「前兆現象」だろうか。
「小振田さんに連絡しなきゃ…」
スマホを取り出し、先日もらった番号に電話をかけた。
「はい、ファミマ新橋東口店です」
元気な声で小振田が電話に出た。
「小振田さん、粘田です。話があります。今、行ってもいいですか?」
「もちろん!今日は深夜勤務だから、いつでも来てよ」
電話を切り、粘田はオフィスを後にした。エレベーターに乗りながら、今聞いた会話の意味を考える。
門の開放…転生ドラゴン興業…そして間苧谷部長の正体。
全てが繋がり始めていた。あの日の魔王の姿は、単なる偶然ではなかったのだ。
エレベーターが一階に着き、ドアが開いた瞬間、粘田は息を飲んだ。
ロビーに立っていたのは、大槌崎だった。
彼はゆっくりと粘田の方を振り向き、不気味な笑みを浮かべた。
「やあ、粘田透君。こんな時間まで働いていたのかい?」
その声は人間のものとは思えないほど、低く、冷たかった。
「は、はい…残業していました」
必死に平静を装う粘田。大槌崎は彼をじっと見つめ、そして言った。
「気をつけて帰るといい。夜道は…何が潜んでいるか分からないからね」
その言葉に込められた脅しに、粘田は背筋が凍りついた。
「あ、ありがとうございます」
そう言って、粘田は急いでロビーを後にした。背後から、大槌崎の視線を感じながら。
外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。空を見上げると、あの奇妙な雲はさらに大きくなっていた。
「何が始まろうとしているんだ…」
粘田はつぶやきながら、小振田のコンビニへと足を速めた。
今夜知ったことを伝えなければ。そして、勇田花子にも警告しなければ。
彼らは皆、知らぬ間に大きな渦に巻き込まれようとしていた。