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魔王の暴走

会議室に満ちた緊張感は、まるで固まりかけたプリンのように重く、そして不安定だった。


「み、みなさん、落ち着きましょう!」


勇田花子が立ち上がり、両手を広げて叫んだ。その声は意外なほど凛としていて、一瞬、会議室の空気が凍りついた。


「こんな時こそ、冷静に…あれ?」


彼女は突然、自分のスカートのポケットをまさぐり始めた。そして取り出したのは、小さな水晶玉のような物体。それは淡い光を放ち、まるで内部に小さな宇宙が広がっているかのようだった。


「これは…勇者の時に使っていた『平常心の宝珠』!なぜか持ってきちゃってました!」


彼女は宝珠を高く掲げた。しかし何も起こらない。


「あれ?おかしいな…」花子は宝珠を振ってみる。「起動ワードなんだっけ…『平和よ来たれ』?『心静かに』?」


その様子があまりにもコミカルで、緊張感が一瞬緩んだ。私も思わず笑いそうになった。


しかし、その瞬間だった。


「無駄だ、勇者よ」


間苧谷部長の声が、いつもの低く落ち着いた声ではなく、どこか反響するような不気味な響きを帯びていた。彼の目が赤く輝き始め、スーツの下から黒い霧のようなものが漏れ出している。


「もはや誰にも止められん…」


部長の体が膨張し始めた。スーツのボタンが弾け飛び、ネクタイがほどけ、肌の色が徐々に紫がかった灰色に変わっていく。


「滅びよ、人間ども!」


その声は会議室全体を揺るがし、コピー機が勝手に印刷を始め、エアコンが狂ったように冷風を吹き出した。窓ガラスがビリビリと音を立て、蛍光灯がちらつき始める。


「部長!自分を抑えてください!」花子が叫ぶ。


「もう遅い…」部長の声は二重、三重に重なり、「サタネルの復活は誰にも止められん!」


その瞬間、会議室の空気が一気に凍りついた。温度が急激に下がり、息が白くなる。社員たちは恐怖で動けなくなり、ある者は机の下に隠れ、ある者は出口へと走り出した。


私も動こうとしたが、またしても床に張り付いてしまっている。


「くそっ、なんでこんな時に…!」


必死に体を引き剥がそうとする中、会議室のドアが静かに開いた。


そこに立っていたのは、先ほど消えたはずの辺須だった。しかし、その姿はさっきとは違っていた。スーツではなく、白い長衣を身にまとい、額の青い筋はさらに鮮やかに輝いている。


「間に合ったか…」辺須は静かに呟いた。


「お前!」部長…いや、今や完全に魔王サタネルの姿に変わりつつある存在が唸る。「また邪魔をするつもりか!」


辺須は微動だにせず、むしろ冷静に部屋を見回した。そして、床に張り付いている私の姿を見つけると、ゆっくりと近づいてきた。


「粘田 透、恐れることはない」


彼の声は不思議と心を落ち着かせる効果があった。


「僕に何ができるっていうんですか?」私は半ば泣きそうな声で言った。「ただのサラリーマンですよ!しかも床から離れられないスライム体質の!」


辺須は静かに微笑んだ。


「お前は自分を過小評価している。かつてスライムだった経験は、決して弱みではない」


彼はポケットから小さな瓶を取り出した。中には青い液体が入っている。


「これを…」


だが、その言葉は途中で切れた。魔王化した部長が轟音とともに飛びかかってきたのだ。


「させるか!」


辺須は素早く身をひるがえし、瓶を私に投げた。咄嗟に私はそれをキャッチする。


「飲め!」辺須が叫ぶ。「お前が本物の変革者になれ!」


魔王と辺須の間で激しいエネルギーの衝突が起き、会議室が揺れる。書類が宙を舞い、コンピューターの画面がバグり始める。


私は迷った。この見知らぬ男の言葉を信じるべきか?しかし、状況は刻一刻と悪化している。


「粘田さん!」花子が叫んだ。「信じて!あの人、私たちの味方よ!」


決断した。瓶の蓋を開け、中身を一気に飲み干す。


最初は何も起こらなかった。しかし次の瞬間、体の内側から熱いエネルギーが湧き上がってきた。床から体が浮き上がり、周囲に青い光が広がる。


「なっ…何が起きてる!?」


自分の手を見ると、それは半透明になり、スライムのような質感を帯びつつも、人間の形状を保っていた。


「粘田くん…?」花子が驚いた声で呟く。


魔王化した部長も、辺須も、戦いを止めて私を見つめていた。


「これが…私の本当の姿?」


体が軽くなり、思考も鮮明になる。異世界のスライムだった記憶と、人間界での経験が融合し、新たな認識が生まれ始めた。


「サタネル!」私は声を上げた。自分でも驚くほど力強い声だった。「元に戻れ!ここは人間界だ!」


魔王は苦しそうに顔をゆがめた。「お前に何ができる…小さなスライムが…」


「小さくても、変われる!」私は両手を前に突き出した。「あなたも変われるはず!」


私の手から青い光が放たれ、魔王に向かって伸びていく。それは彼を包み込み、紫がかった黒いオーラと拮抗し始めた。


「くっ…」魔王が苦しそうに唸る。


辺須が静かに言った。「彼の力は『融合』だ。異なる世界の力を一つにする力…」


私は集中し、部長の中の人間性を呼び覚ますイメージを強く持った。


「間苧谷部長!戻ってきてください!滅びよ人間、じゃなくて、乾杯の音頭を取る部長に戻って!」


光が強まり、魔王の姿が徐々に縮んでいく。黒いオーラが薄れ、人間の姿が見え始めた。


「あ…ああ…」部長の声が戻りつつある。


最後の一押しだ。


「部長!新しい企画書、明日までに出しますから!」


驚くべきことに、この言葉が決定打となった。魔王の姿が完全に消え、汗だくの間苧谷部長が膝をついて座り込んだ。


「はぁ…はぁ…何が…起きた…」


会議室は静まり返った。そして、辺須の姿がゆっくりと透明になっていく。


「辺須さん!」私は叫んだ。「あなたは誰なんですか?」


彼は微笑んだ。「それはまた次の機会に…ただ覚えておけ。お前の力は始まったばかりだ」


そして、完全に消えてしまった。


会議室の空気が元に戻り始め、凍りついていた社員たちも少しずつ動き出す。私の体も通常の状態に戻りつつあった。


「粘田さん…すごかったよ」小振田緑朗が静かに近づいてきた。彼の目には尊敬の色が浮かんでいる。「君は本当に…変わった」


「いや、僕はただ…」


言葉に詰まる。自分でも何が起きたのか完全には理解できていない。


部長がゆっくりと立ち上がり、疲れた表情で私を見た。


「粘田…お前は…」


「はい?」


「明日の企画書、本当に出せるんだな?」


思わず噴き出しそうになる。魔王の力と戦った直後の言葉がそれかよ。


「はい、もちろんです」


部長はため息をついた。「今日の会議は中止だ。全員、帰れ」


社員たちは混乱しながらも、急いで荷物をまとめ始めた。


勇田花子が私の肩を叩いた。「粘田さん、今夜、話を聞かせてほしいな」


「ああ…うん」


会議室を出る前、小振田が静かに私に近づいた。


「これからが本番だ」彼は小声で言った。「辺須さんの言う通り、君は変革者になった。僕も…力になるよ」


彼の真剣な眼差しに、何か大きなものが動き出したことを感じた。


窓の外を見ると、空はいつもと変わらず青かった。しかし、私の世界は完全に変わってしまった。


床に張り付かなくなったのは良いことだが、代わりに背負うことになった責任の重さは、スライムだった頃には想像もできなかったものだった。

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