会議の嵐と謎の影
会議室のドアを開けると、空気が一変した。間苧谷部長の目が異様に血走り、会議テーブルを拳で叩く音が響く。
「なぜだ!なぜこの程度の資料が作れん!粘田!」
私の名前が飛び、全員の視線が一斉に集まった。
「す、すみません…」
弱々しく返事をする私の背中に、何かがじわりと広がる感覚。そう、またやってしまった。緊張すると背中から粘液が滲み出す、転生したスライムの名残だ。椅子に張り付かないよう、そっと体を浮かせる。
「昨日の魔界ポータル騒動はなんだったんだ!結局、部長の妄想だったじゃないか!」
隣の勇田花子が小声で補足してくれる。「昨日、本社から確認の電話があって、部長の計画は全部ボツになったの」
そうか、だから部長の機嫌が最悪なのか。
「新プロジェクト、やり直しだ!全員徹夜覚悟で!」
会議室に嘆息が広がる。部長の目が再び私に向けられた。
「特に粘田!お前の資料はなんだあれは?『スライム視点で考える営業戦略』だと?冗談は顔だけにしろ!」
「でも部長、あれは斬新な発想だと思いますよ」
勇田花子が立ち上がった。元勇者の風格が漂う。
「どこが?」
「だって『どんな形にも適応する柔軟性』って、まさに現代のビジネスに必要なことじゃないですか」
部長は鼻を鳴らした。「勇田、お前はいつも粘田を庇うな。前世でも魔物に甘かったろう」
「え?そんなことないですよ!魔物は片っ端から切り倒してましたから!」
花子の天然ボケに、会議室の空気が一瞬和らいだ。
その時、会議室のドアが勢いよく開いた。小振田緑朗が息を切らせて飛び込んできた。
「大変です!また不思議な失踪事件が!」
部長が眉をひそめる。「小振田、お前はうちの社員じゃないだろう。なぜ毎回会議に…」
「それより聞いてください!昨夜、私の勤めるコンビニで常連のサラリーマンが消えたんです。防犯カメラには映ってるのに、店の中で突然…ぷっつり」
小振田の言葉に、会議室が静まり返った。
「どういうことだ?」部長が身を乗り出す。
「カメラには映ってるんです。その人が飲み物を手に取って、レジに向かって歩いて、そして…消えた。跡形もなく」
「映像を見せろ」
小振田はスマホを取り出し、動画を再生した。確かに、スーツ姿の男性が歩いている途中で、まるでテレビの電源を切ったように画面から消えている。
「これは…」部長の顔色が変わった。「魔界転移現象か」
「でも部長、昨日の魔界ポータルは開かなかったはずでは?」私が尋ねる。
部長は唇を噛んだ。「開かなかったが…何か別の力が働いているのかもしれん」
「実は…」小振田が声を潜めた。「最近、同じような失踪が都内で相次いでいるんです。全部コンビニや駅のトイレなど、人目につかない場所で」
会議室に緊張が走る。
「部長」勇田花子が真剣な表情で言った。「これはただの偶然じゃないと思います。私、前世で似たような現象を見たことがあります。異世界間の境界が薄くなると、こういう現象が…」
「詳しく話せ」部長の声が低く響いた。
花子は首を振った。「詳細は覚えていないんです。でも、何か大きな力が働いていることは確かです」
「みなさん」小振田が再び口を開いた。「失踪した人たちには共通点があります。全員、何らかの形で異世界と関わりがあった人たちなんです」
「どういうことだ?」
「転生者か、転生者と接触のあった人間です。そして…」小振田は私を見た。「最後に消えた人は、粘田さんの近所に住んでいた人です」
「え?」
「佐藤さんという方。粘田さんのマンションの隣の部屋の人です」
確かに隣室には佐藤さんという人が住んでいた。挨拶程度の付き合いだが、最近見かけないと思っていた。
「これは…」部長が立ち上がった。「新プロジェクトは一時中断だ。今は失踪事件の調査を優先する」
「えっ、本当ですか?」誰かが驚いた声を上げた。
「バカ者!」部長が怒鳴った。「これが魔界の仕業なら、放っておけるか!魔界は我々のテリトリーだぞ!」
そうか、部長は元魔王だから、自分の領域を荒らされたと感じているのか。
「粘田、お前は標的になっている可能性がある。今夜から会社に泊まれ」
「はい…」
「勇田、お前は記憶を辿って、似た現象の情報を集めろ」
「了解です!」花子が勇者のように背筋を伸ばした。
「小振田…お前はなぜうちの会社に関わるのか理解できんが、コンビニでの情報収集を頼む」
「お任せください」小振田は頷いた。
会議室を出ると、花子が私の袖を引いた。
「ねえ、粘田くん。本当に大丈夫?」
「わからない…でも、スライムだった頃の記憶にも、こんな現象はなかったよ」
「私も勇者だった記憶を必死で思い出してるんだけど…」花子は眉間にしわを寄せた。「あ!思い出した。異世界では『境界崩壊』って呼ばれてた現象かも」
「境界崩壊?」
「うん、世界の境目が溶けて、人が別の世界に吸い込まれる現象。でも、それが起きるのは…」
花子の言葉が途切れた。
「何?何が起きるときなの?」
「世界の均衡が崩れるとき」彼女は真剣な表情で言った。「つまり、どこかで誰かが、世界の法則を破るような大きな力を使っているってこと」
廊下の窓から外を見ると、いつもと変わらない東京の風景が広がっていた。しかし、どこか違和感がある。空の色が、わずかに紫がかって見えるような…。
「粘田くん、気をつけて」花子が私の肩に手を置いた。「あなたがターゲットになっている可能性があるわ」
「なぜ僕が?」
「わからない。でも、スライムは異世界でも特別な存在だった。単なる魔物じゃなく、進化の可能性を秘めた存在…」
その時、廊下の電気が一瞬だけ消えた。
「…明日、また話そう」花子は微笑んだが、その目は警戒心に満ちていた。
会社に残り、仮眠室のベッドに横になる。天井を見つめながら考える。
なぜ僕が?なぜスライムが?
窓の外から見える夜景が、少しずつ歪んでいるような気がした。