闇井グループの影
「粘田、ちょっと来い」
間苧谷部長の声が社内に響き渡る。私は慌ててデスクから立ち上がった。昨日のプレゼン対決から一週間、部長は表面上は普通の上司に戻っていたが、時折「滅びよ人間」と小声で呟くのが聞こえる。
「はい、何でしょうか」
部長室のドアを開けると、間苧谷部長が窓際に立ち、外を見つめていた。振り返った顔には、普段よりもさらに険しい表情が浮かんでいる。
「新規取引先だ。『闇井グループ』という会社と今日、初めての商談がある」
「闇井…グループ?」
その名前を聞いた瞬間、なぜか背筋に冷たいものが走った。
「お前も同席しろ。補佐として必要だ」
「え、でも僕はまだ…」
「異議は認めん!」部長の目が一瞬だけ赤く光った。「15時、大会議室だ。遅れるな」
ドアを閉めて出てきた私の顔は、きっと青ざめていたのだろう。
「粘田さん、大丈夫ですか?」
隣のデスクから勇田花子が心配そうに声をかけてきた。
「ああ、なんとか…闇井グループという会社との商談に同席しろって」
「闇井グループ!?」
花子の声が裏返り、周囲の社員が一斉にこちらを振り向いた。彼女は慌てて声を潜めた。
「あの会社、噂では…」
「噂では?」
「契約した会社は必ず業績が上がるけど、社員が次々と…」
花子は言葉を濁した。彼女が言葉を濁すのは珍しい。元勇者として魔王と戦った人なのに。
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15時、大会議室。
普段はクッキーの食べカスやコーヒーのシミが点在する会議室テーブルが、ピカピカに磨かれている。空気までが張り詰めていた。
「粘田、そこに座れ」
間苧谷部長が私の肩を押し、窓際の席に座らせた。窓からは新橋の街並みが見えるが、なぜか今日は曇り空で、全体が灰色に染まっている。
「来たぞ」
部長の言葉と同時に、会議室のドアがゆっくりと開いた。
「お待たせしました」
入ってきたのは、漆黒のスーツに身を包んだ三人の男性。中央の男性は細面で、眼鏡の奥の目がどこか虚ろだった。
「闇井グループ代表取締役、闇井深夜と申します」
その声は低く、響くような質感があった。
「こちらは専務の闇井暗黒、そして常務の闇井冥府です」
紹介された二人も無表情で頭を下げた。三人とも同じ顔に見える。
「間苧谷でございます。こちらは粘田です」
私は慌てて立ち上がり、頭を下げた。その拍子に、椅子から滑り落ちそうになる。元スライムの性質が出てしまった。
「では、商談を始めましょうか」
闇井社長が言うと、専務と常務が同時に黒いアタッシュケースを開いた。中には分厚い契約書と、何かの骨のように見える白い筆記具が入っていた。
「弊社の提案は単純です。貴社の営業成績を3倍にします。その代わり…」
彼は一瞬言葉を切り、私たち全員を見回した。
「社員の魂を少しだけいただきます」
会議室が凍りついたように静まり返った。
「冗談ですよ」
闇井社長が突然笑った。しかし、その笑顔には温かみがまったくなかった。
「法的に問題のない範囲で、社員の残業時間を増やしていただくだけです」
「それだけですか?」間苧谷部長が訝しげに尋ねた。
「ええ、それだけです。あとは…」
闇井社長がケースから取り出した契約書の最終ページを指差した。
「満月の夜に、御社のビル屋上で小さな儀式を行わせていただくだけです」
満月。また満月だ。煙田マドロスの言葉が脳裏に浮かぶ。
「儀式とは?」
「企業文化の交流ですよ。些細なことです」
闇井専務が白い筆記具を差し出してきた。よく見ると、それは鳥の羽根でできたペンだった。
「では、ご署名を」
部長が手を伸ばそうとしたとき、私は思わず声を上げていた。
「待ってください!」
全員の視線が私に集まった。
「その契約書、最後のページに小さな文字で何か書いてありませんか?」
闇井社長の目が細くなった。
「粘田君、見る目があるね」
彼は契約書の最終ページをめくり、虫眼鏡で見なければ読めないような極小の文字を指差した。
「これは単なる法的免責事項ですよ。『儀式中に発生する次元の裂け目や、社員の魂の一部消失については責任を負いかねます』といった、どこにでもある文言です」
どこにでもあるわけがない!
「部長、これはおかしいです!」
間苧谷部長は、珍しく真剣な表情で闇井社長を見つめていた。
「闇井さん、あなたたち…本当の目的は何だ?」
闇井社長はニヤリと笑った。その瞬間、会議室の照明が一瞬ちらついた。
「さすが元魔王、勘が鋭い」
「!?」
部長の正体を知っている?
「我々は単なるビジネスマンですよ。ただ、少し変わった手法で利益を追求しているだけです」
闇井社長の言葉に、部長は立ち上がった。その目が赤く輝き始めている。
「粘田、下がれ」
部長の声が、いつもより低く響いた。魔王の力が漏れ出している。
「我が社はお断りする。闇井グループとは取引しない」
「それは残念です」闇井社長は静かに立ち上がった。「では、他の方法で…」
その時、会議室のドアが勢いよく開いた。
「お茶持ってきましたー!」
勇田花子が明るい声で入ってきた。彼女はトレイを持ち、にこやかに笑っている。
「あら?話し合いは終わったんですか?」
闇井三人組は花子を見て、明らかに動揺した。
「あなたは…」闇井社長が声を潜めた。「元勇者…」
花子は一瞬だけ鋭い目つきになり、トレイを置きながら言った。
「お茶でも飲んで、落ち着きましょう。それとも…」
彼女の手が腰に触れた。そこには何もないはずだが、闇井三人組は一斉に後ずさりした。
「今日はここまでにしましょう」闇井社長は慌てて書類をケースに戻した。「また機会があれば」
三人は急いで会議室を出ていった。
静寂が戻った会議室で、花子がくすくすと笑い始めた。
「やっぱり怪しい会社でしたね。腰に手を当てただけで逃げるなんて」
「花子…」部長の目の赤みは消えていた。「よくやった」
「元勇者の勘ですよ」彼女は得意げに胸を張った。「でも、彼らはまた来ますよ。次の満月までに」
私は窓の外を見た。灰色の空の向こうに、薄っすらと月の輪郭が見えた気がした。
「部長、闇井グループって何者なんですか?」
間苧谷部長は深いため息をついた。
「異世界と現世の狭間で商売をする者たちだ。魂を集めて…」彼は言葉を切った。「詳しくは次の満月までに話す。それまでは警戒しろ」
私は自分の手を見た。緊張で半透明になりかけていた。スライムの性質が出てしまう。
会議室を出る前、部長が私の肩を叩いた。
「粘田、よく気づいた。さすが元スライムだ」
「ありがとうございます」
「だが、明日の資料作成は予定通りだ。滅びよ人間」
結局、上司は上司だった。
帰り際、会議室の窓から見える新橋の街並みが、一瞬だけ異世界の風景に見えた気がした。次の満月まで、あと22日。