地下の囁き
勇田花子は複合機の前で悲壮な表情を浮かべていた。
「もう…なんでこんな機械、発明しちゃったのよ…」
彼女は画面に表示された「E-0573:用紙サイズ不一致」というエラーメッセージを前に、すでに十五分も格闘していた。前世では魔王を倒した勇者だったというのに、現代のコピー機という最強の敵の前では無力だった。
「花子さん、何してるの?」
私は床から身を起こして声をかけた。気づけば、またも床にぺたりとくっついていた。
「あ、粘田くん!ちょうどいいところに!」花子は救世主を見るような目で振り向いた。「この複合機から変な紙が出てきたんだけど…」
彼女が差し出した一枚の用紙には、見たこともない文字が並んでいた。曲がりくねった線と点で構成された文字は、どこか不気味な雰囲気を醸し出している。
「これ、どこから出てきたの?」
「さっきスキャンしようとしたら、急に出力トレイからニュルッて出てきたの」
私はその紙を手に取った瞬間、体の一部が反応するのを感じた。スライム時代の感覚が蘇る。この紙には何か魔力のようなものが宿っている。
「これって…異世界の文字じゃない?」
「そう思うでしょ!」花子は興奮気味に言った。「絶対魔界の文字だよ。前世で見たことある!」
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「大変だ!みんな会議室に集合!」
新人の鉄男(通称テツオ)が息を切らしながら叫んだ。彼は入社三ヶ月目のホープだが、妙に熱血な性格で、社内では「燃える新人」と呼ばれている。
「どうしたの?」
「新プロジェクトのプレゼンが始まるんだ!間苧谷部長も来るぞ!」
私と花子は顔を見合わせた。確かに今日は新プロジェクトの発表会だった。しかし、この不思議な紙の謎も気になる。
「とりあえず行こう」
会議室に入ると、すでに多くの社員が集まっていた。最前列には間苧谷部長が腕を組んで座っている。その目は獲物を狙う猛獣のように鋭い光を放っていた。
「遅刻者は許さんぞ…」
部長の低い声に、私は思わず背筋が凍った。
テツオがプロジェクターの前に立ち、プレゼンを始めた。
「えー、本日はみなさまに革新的なプロジェクトをご提案します」
スクリーンには「地下ルートを利用した転移トンネル構想」という文字が大きく映し出された。
「は?」誰かが小声で呟いた。
「我が社の地下には、実は異次元空間への入り口が存在します」テツオは真剣な表情で続けた。「これを利用すれば、物流コストを大幅に削減できるのです!」
会議室が一瞬にして騒然となった。
「何を言ってるんだ?」
「頭大丈夫か?」
「新人だからって調子に乗るな!」
様々な声が飛び交う中、間苧谷部長だけは静かに目を閉じていた。そして突然、彼の目が開いた。その瞳は赤く光っていた。
「静粛に!」
部長の一喝で会議室は水を打ったように静まり返った。
「テツオ君、続けなさい」
「はい!」テツオは元気よく答えた。「私が先日地下倉庫で発見したのですが、そこには明らかに異世界へと通じる門が…」
その瞬間、会議室のドアが勢いよく開いた。
「いらっしゃいませー!」
小振田緑朗が明るい声で入ってきた。彼の手には、コンビニの袋がぶら下がっている。
「すみません、遅れました!」小振田は頭を下げた。「今日はおにぎりとサンドイッチを半額にしてます!」
「小振田君…」部長は眉をひそめた。「君はもうコンビニ店員ではないんだぞ」
「すみません、癖で…」小振田は照れくさそうに笑った。「でも、大事な報告があります!」
彼は袋からおにぎりを取り出しながら続けた。
「実は昨晩、コンビニの夜勤中に地下から強い魔力を感じたんです」
テツオが食い入るように小振田を見つめた。「それだ!僕が言ってたのと同じだ!」
「ええ、間違いありません」小振田は真剣な表情になった。「あれはゴブリン…じゃなくて、元ゴブリンの私にも分かります。地下には何かがある」
私はポケットの中の奇妙な紙を握りしめた。花子から見つかったこの紙、テツオの転移トンネル構想、小振田の感じた魔力。すべてが繋がっている気がする。
「部長」私は勇気を出して立ち上がった。「これをご覧ください」
私が異世界文字の書かれた紙を差し出すと、部長の顔色が変わった。
「これは…古代魔界語だ」
「え?部長、分かるんですか?」
「当然だ」部長は低い声で言った。「私は前世、魔王だったのだからな」
会議室が再び騒然となる。
「みなさん、落ち着いてください」部長は立ち上がった。「この文字が示すのは…」
突然、建物全体が大きく揺れた。天井から埃が落ち、蛍光灯がちらついた。
「これは!」部長の目が再び赤く光った。「地下の封印が解かれようとしている!」
「どういうことですか?」私は震える声で尋ねた。
「かつて私が魔王だった時代、最も危険な存在を封印した場所がある」部長は重々しく言った。「それがこの建物の地下なのだ」
「じゃあ、私が感じた魔力は…」小振田が言いかけたとき、再び大きな揺れが走った。
「もう時間がない」部長は決然とした表情で言った。「粘田君、君の能力が必要だ」
「え?私の?」
「そうだ。スライムとしての能力が、封印を強化できるかもしれない」
私は驚いた。部長は私の前世を知っていたのか。
「よーし!」花子が突然立ち上がった。「勇者としての血が騒ぐ!地下に行こう!」
「私も行きます!」テツオが熱い視線を送ってきた。「これこそ私の構想の実証チャンスです!」
「コンビニ店員…じゃなくて、元ゴブリンとしても、お手伝いします!」小振田も加わった。
部長は厳しい表情ながらも、微かに笑みを浮かべた。
「よろしい。では今夜、地下倉庫に集合せよ。正体不明の存在と対峙する準備をするのだ」
そして部長は、いつものように手にしたペットボトルを掲げた。
「滅びよ人間!…ではなく、勝利を我らに!」
会議室を後にした私たちは、それぞれ夕方の仕事を急いで片付けた。窓の外は既に暗くなり始めている。
「ねえ、粘田くん」花子が小声で言った。「ちょっと怖くない?」
「正直、怖いよ」私は素直に答えた。「でも、なんだか懐かしい感じもする」
「懐かしい?」
「うん。スライムだった頃、いつも何かに怯えながら生きてたから」
小振田が近づいてきた。「おにぎりどうですか?夜食に」
「ありがとう」私はおにぎりを受け取った。「小振田くんは怖くないの?」
「コンビニの深夜営業より怖いものはありませんよ」彼は真顔で言った。「特に月末の棚卸しは地獄です」
そんな会話をしていると、テツオが興奮した様子で駆け寄ってきた。
「みんな!もうすぐだよ!人類史上最大の発見かもしれないんだ!」
「そんなに大げさなものじゃないと思うけど…」
「いや、大げさじゃない!」テツオの目は輝いていた。「考えてみてよ。異世界への入り口が会社の地下にあるんだよ!これって凄くない?」
確かにその通りだが、なぜか私の体の一部が警告を発している。スライムの本能が「危険」を感じているのだ。
夜の九時、我々は地下倉庫の前に集合した。間苧谷部長は黒いスーツから、さらに黒いマントのようなものに着替えていた。
「準備はいいか?」部長の声は、いつもより一層低く響いた。
「はい!」全員が声を揃えた。
部長が扉に手をかけた瞬間、建物全体が大きく揺れ、廊下の電気が一斉に消えた。
暗闇の中、部長の赤い瞳だけが浮かび上がる。
「始まるぞ…」