残業と謎の夜
社内プレゼンバトルが終わり、会議室は無言の重圧に包まれていた。
「お疲れ様でした…」
誰かの声が虚空に溶けていく。勝利したはずの私だが、体はぐったりとしていた。スライムだった頃の方が楽だったかもしれない。
魔王部長こと間苧谷京一は、まるで何事もなかったかのように資料をカバンに詰めていた。プレゼン対決で負けたはずなのに、その姿は毅然としている。
「明日の朝会は7時からだ。遅刻するな」
そう言い残し、彼は扉へと向かった。約束は約束のはずだが、魔王の本質は変わらないようだ。
「部長!約束は…」
振り向いた間苧谷の目が一瞬だけ赤く輝いた。
「約束?ああ、魔王としての力は抑えると言ったな。抑えているさ」
彼は不敵に笑った。
「だが上司としての権限は別だ。残業命令だ、粘田。今日中に資料を作り直せ」
「えっ…」
「異議は認めん。さあ、皆解散だ」
会議室のドアが閉まり、私は床に張り付いたまま取り残された。
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新橋の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
オフィスビルから出た私の足取りは重い。残業で作った資料は、間苧谷の「明日また見直す」の一言で片付けられた。
「粘田さん、大丈夫ですか?」
振り向くと、勇田花子が心配そうに立っていた。彼女も残業組だったらしい。
「ああ、なんとか…」
「あのプレゼン、すごかったですよ!私、感動しちゃいました!」
花子の目は輝いていたが、その下のクマが物語っていた。彼女も相当疲れているのだろう。
「魔王は約束を守らないみたいですね」
「ええ、でも…」花子は空を見上げた。「満月が終わったからかもしれません。次の満月までは普通の部長に戻るんじゃないかな」
「次の満月…」
煙田マドロスの言葉を思い出した。「次の満月が、全てを明かす時だ…」
「とにかく、今日はゆっくり休みましょう。お疲れ様でした」
花子と別れ、一人歩き始めた。新橋の街灯が、疲れた私の影を長く伸ばしている。
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コンビニのドアを開けると、レジに立つ小振田緑朗が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませー!あ、粘田さんっすね!」
「お疲れ、小振田くん」
「プレゼン対決、勝ったんすか?」
「ああ、一応は…」
「でも顔色悪いっすね。なんか透明になりかけてますよ?」
慌てて自分の手を見ると、確かに少し透けていた。疲れると元のスライム体質が出てしまう。
「ちょっと疲れてるだけだよ」
おにぎりと缶コーヒーをレジに持っていくと、小振田は意味深な表情で言った。
「あの黒い気にはまだ続きがあるはずですよ…」
「え?」
「部長の魔王パワー、満月が終わっただけで消えるわけないっす。次の満月には、もっとヤバいことになるかも」
小振田の言葉に、背筋が冷たくなった。
「どうして分かるんだ?」
「元ゴブリンの勘っすね」彼はにやりと笑った。「あと、さっき部長が来たとき、レシートに『滅びよ人間』って書いてましたし」
レジ横のゴミ箱を見ると、確かに不気味な文字が踊るレシートが捨てられていた。
「気をつけた方がいいっす。特に次の満月は…」
彼の言葉は、店内アナウンスに遮られた。
「小振田さん、お客様が冷凍庫に閉じ込められています。至急ご対応ください」
「あ、またっすか!すいません、行ってきます!」
小振田は慌ててバックヤードへ消えていった。
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家に帰り着いた頃には、もう深夜だった。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。煙田から受け取った羊皮紙を広げてみるが、相変わらず解読できない。
「次の満月まであと29日…」
窓から見える空には、満月はもうない。だが、あの夜空の亀裂はまだ薄く残っていた。
携帯が震える。間苧谷からのメールだ。
『明日の会議資料、フォントを全てゴシック体に変更しろ。理由は聞くな。滅びよ人間。追伸:これは上司命令だ』
ため息をつきながら返信する。
『承知しました。ところで部長、プレゼン対決で負けたのに約束を守らないのはなぜですか?』
送信して数秒後、返信が来た。
『私は約束を守っている。魔王としての力は抑えている。だが上司としての理不尽さは別だ。それが人間界の掟だろう?滅びよ人間』
思わず苦笑してしまう。魔王より怖いのは、ブラック企業の上司なのかもしれない。
ベッドに沈みながら、次の満月までの日々を思う。異世界転生者だらけの会社で、元スライムの私は生き残れるのだろうか。
「まあ、なんとかなるさ…」
そう呟いた瞬間、私の体は完全に透明になり、ベッドにぬるりと溶け込んでいった。
明日もまた、人間として生きる一日が始まる。
そして、次の満月までのカウントダウンも。