粘液の反撃
「今日こそ成功させる…」
会社のサーバールームで、私はスライム化した指先でキーボードを操作していた。先日の魔界侵攻事件から三日。会社のシステムは一見正常に戻ったように見えたが、社内LANには不穏な魔力の残滓が漂っている。
「粘田さん、進捗はどう?」
勇田花子が冷えたコーヒーを差し出してくれた。彼女の手首には、細いブレスレットが光っている。あれは聖剣を縮小したものだという。
「ありがとう。もう少しで完成するよ…たぶん」
私は自信なさげに答えた。スライム時代の粘着能力をプログラムに組み込むという前代未聞の作戦を開始して既に五時間。正直、成功する自信はあまりない。
「羽羽月システムの魔力工学プログラムとの融合は難しいわね」
花子は私の画面を覗き込んだ。彼女の体から漂う浄化の魔力が、私のスライム化した指先をピリピリさせる。
「でも、これが成功すれば部長の暴走寸前の魔王力を抑制できるはず…」
その瞬間、プログラムが反応した。画面に青い光が走り、キーボードから粘液状の光が溢れ出した。
「成功?」
「わからない…けど、とりあえず何かは起きてる」
私の指から伸びた粘液が、サーバーラック間を自在に駆け巡りはじめた。キラキラと輝くその姿は、まるでスライムの魂そのものだ。
「すごい…」花子が息を呑む。
粘液は次々とサーバーに接続し、青白い光を放ちながらシステム内を巡回していく。私の意識はその粘液と繋がっており、社内LANの状態が手に取るように分かった。
「これは…」
私は息を呑んだ。システム内部には、黒く渦巻く魔力の残滓が確かに残っていた。カイルたちの魔力だ。そして、それらは一点に集中していた。
「部長のパソコンだ!」
その瞬間、社内の電気が一斉に明滅し、非常ベルが鳴り響いた。
「何が起きているんだ!」
間苧谷部長が怒号を上げながらサーバールームに駆け込んできた。彼の額には再び小さな角が浮かび上がっている。
「部長!あなたのパソコンが魔力の発生源になっています!」
花子が叫んだ。
「馬鹿な…」部長は顔色を変えた。「私は何もしていない…」
「意図的ではないんです」私は説明した。「部長の魔王力が、知らないうちにシステムに干渉しているんです」
「そんな…」
部長の表情が歪み、オフィス内の温度が急激に上昇した。彼の周囲に赤い靄が立ち込め始める。
「部長、落ち着いてください!」花子が前に出る。「感情が高ぶると魔王力が暴走します!」
「制御できない…」部長が苦しそうに呟いた。「カイルたちの残留魔力が…私の中の魔王を呼び覚ましている…」
このままでは再び大惨事になる。私は決断した。
「花子さん、浄化の力を貸してください!」
「どうするの?」
「僕の粘液と融合させます。そうすれば部長の魔力を一時的に抑制できるかも」
花子は一瞬躊躇したが、すぐに頷いた。彼女はブレスレットを外し、小さな剣の形に戻した。
「浄化の剣技・精霊融合!」
彼女の剣から放たれた白い光が、私のスライム粘液と混ざり合う。キーボードから伸びた粘液は今や虹色に輝き、サーバールーム内を舞うように動いていた。
「部長、動かないでください!」
私は全精神を集中させ、粘液を部長に向かって放った。虹色の粘液は部長を包み込み、彼の周囲の赤い靄を吸収していく。
「うっ…」
部長が膝をつく。彼の額の角が徐々に消えていく。
「システム再起動を試みます!」
私はキーボードを叩き、緊急リブートコマンドを入力した。サーバーから一斉にビープ音が鳴り、画面が暗転する。
「頼む…成功してくれ…」
数秒の沈黙の後、サーバーが順次起動し始めた。緑色のステータスランプが次々と点灯していく。
「成功したみたいね!」花子が喜びの声を上げる。
部長の周囲の靄は完全に消え、彼は普通のスーツ姿に戻っていた。虹色の粘液は徐々に薄れ、私の指先に戻っていく。
「粘田…」部長が呟いた。「お前、いったい何をしたんだ?」
「スライムの粘着能力と勇者の浄化パワーを組み合わせて、魔力を中和しました」私は少し誇らしげに答えた。「プログラムに組み込んだので、今後も自動的に魔力の暴走を抑制してくれるはずです」
「なるほど…」部長は感心したように頷いた。「スライムの特性を現代技術と融合させるとは…」
「これで大規模システム障害は回避できたわね」花子が安堵の表情を浮かべる。
その時、小振田緑朗がコンビニの制服姿で駆け込んできた。
「大変です!街中の電子機器が一斉に…あれ?もう収まったんですか?」
彼は少し肩を落とした。ゴブリンの特徴だった緑色の肌も、今は普通の人間の肌色に戻っている。
「お前も正常に戻ったようだな」部長が言った。
「はい…なんだか急に体が熱くなって、それからパッと元に戻りました」緑朗は首を傾げる。「何があったんです?」
「粘田と勇田のコンビネーションプレーさ」部長は珍しく笑みを浮かべた。「スライムと勇者の力が、魔王を救ったというわけだ」
「ちょっと待ってください」私は不安そうに言った。「本当にこれで終わりなんでしょうか?」
「どういう意味だ?」
「カイルたちの魔力は確かに中和できましたが…」私は画面を指さした。「システムログを見ると、何者かが外部からアクセスを試みた形跡があります」
部長と花子が画面を覗き込む。確かに、不審なアクセスログが残っていた。
「これは…」部長の表情が険しくなる。「魔界からのハッキングか?」
「可能性はあります」私は真剣に答えた。「今回は防げましたが、次はもっと強力な攻撃が来るかもしれません」
「対策は?」花子が尋ねる。
「今回開発したプログラムを強化して、全社のシステムに導入します」私は決意を固めた。「そして…」
「そして?」
「スライムの特性を最大限に活かした、魔力バリアを構築します」
部長は腕を組み、しばらく考え込んだ後、頷いた。
「やれるだけやってみろ。予算は出す」
「ありがとうございます!」
「それと…」部長は少し恥ずかしそうに付け加えた。「今日の乾杯の掛け声は『滅びよ人間』ではなく、『栄えよ共存』にする」
花子と私は顔を見合わせ、思わず笑みがこぼれた。
サーバールームを出ると、社内は既に通常業務に戻っていた。誰も異変に気づいていないようだ。
「粘田さん」花子が私の腕を軽く叩いた。「あなた、本当に頼りになるわね」
「そんなことないよ…」私は照れ隠しに床を見つめた。「僕はただの…」
「スライムじゃない」彼女は微笑んだ。「あなたは粘田透。この会社の、いえ、世界の救世主よ」
その言葉に、私の胸が温かくなった。しかし同時に、不安も残る。システムログに残された不審なアクセス。それは何を意味するのか。
窓の外を見ると、夕暮れの新橋の街並みが広がっていた。平和そうに見えるが、どこかで新たな脅威が忍び寄っているのかもしれない。
でも今日のところは、無事に危機を乗り越えたことを祝おう。
「飲み会、行きましょうか」
花子の言葉に頷き、私たちはエレベーターに向かった。床に足がくっついて歩きにくいが、それもまた、スライムが人間に転生した証だ。