顧客システムに潜む魔力
会社に着くなり、何かが違う。
デスクに向かって歩く途中、床が妙に冷たい。足裏からじんわりと冷気が伝わってくる。まるで冷蔵庫の中を歩いているような感覚だ。
「おはようございます、粘田さん」
勇田花子が明るく声をかけてきたが、彼女の息は白く、空調が効きすぎた部屋のように見える。
「花子さん、今日寒くないですか?」
「そうですね...なんだか冷えますね。エアコンの設定間違えたのかな」
私はデスクに座り、パソコンを起動する。画面が点灯するのを待つ間、何となく周囲を見回した。同僚たちも肩を震わせている者が多い。
「すべての者に告ぐ!」
突然、間苧谷部長の声が響き渡った。彼は会議室から出てきたところで、顔色が悪い。
「顧客情報管理システムに異常が発生している!魔力の侵入を感知した!」
「魔力ですか?」小振田が小声で私に尋ねた。今日はコンビニが休みなのか、スーツ姿で出社している。
「滅びよ人間!...じゃなくて、全員集合!会議室へ!」
部長の掛け声で社員たちがざわめき始めた。私も急いで立ち上がろうとしたが、椅子に張り付いていた。スライムの習性だ。
「粘田さん、また張り付いてますよ」花子が小声で教えてくれた。
「あ、すみません...」
ようやく体を引き剥がし、会議室へ向かう。途中、パソコンのモニターが青く点滅しているのが目に入った。他の社員のものも同様だ。
会議室では部長が大きな画面を指し示していた。顧客情報管理システムの画面だが、通常なら整然と並ぶはずのデータが不規則に点滅している。
「見ての通り、システムが暴走している。しかしこれは単なる不具合ではない」
部長は眼鏡を直し、真剣な表情で続けた。
「何者かが意図的に魔力を流し込んでいる。私の魔王としての感覚が告げている」
「部長、具体的にどんな症状が出ているんですか?」花子が質問した。
「顧客データが勝手に書き換わり、連絡先が異世界の座標になっている。請求書の金額が『魂500個分』になっているケースもある」
会議室がざわついた。
「さらに、システムにアクセスした社員のパソコンから冷気が漏れ出している。これは間違いなく氷系魔法の特徴だ」
なるほど、それで会社全体が冷えているのか。
「営業部からも報告が入っています」総務課長が発言した。「顧客先で提案資料を開いたら、紙が突然青く発光し、氷の結晶に変わったそうです」
「製品サンプルも凍ってしまいました」別の社員が付け加えた。
状況は深刻だ。私は無意識のうちに壁に張り付いていた。緊張するとこうなる。
「粘田、そこから離れて報告しろ」部長に指名された。
「はい!」慌てて壁から身を引き剥がし、「システム部門からのメールによると、サーバールームの温度が急激に下がり、機器に霜が付いているそうです」
「これは...」部長が眉をひそめた。「魔力の暴走だ」
花子が突然立ち上がった。「部長、パソコンのログを調べたところ、不自然なパターンを発見しました」
彼女はタブレットを操作し、大画面に転送した。そこには奇妙な文字列が表示されている。
「これ、古代魔術の呪文の一部ですよね?」
「よく気づいた、勇田」部長が頷いた。「かつての勇者の勘は鋭いな」
「でも、なぜ顧客システムに魔力が?」小振田が疑問を投げかけた。
部長は立ち上がり、窓の外を見た。「我々の会社が異世界と繋がっていることは既に分かっている。おそらく、誰かが意図的に干渉している」
「対策はありますか?」
「ある」部長は振り向き、「我々で魔力を打ち消すしかない。粘田、お前はスライムだった。魔力に対する耐性がある」
「え、僕が?」
「そうだ。お前は顧客システムの端末に接触し、魔力の流れを感知してほしい」
私は不安になった。「でも、どうやって...」
「スライムの本能を思い出せ。お前ならできる」
部長の期待に応えなければ。私は深呼吸し、会議室を出た。
システム管理室へ向かう途中、廊下の温度がさらに下がっていた。息が白く、床には薄く霜が降りている。
管理室のドアを開けると、中はまるで冷凍庫のようだった。サーバーラックは氷の結晶に覆われ、青白く光っている。
「これは...」
メインコンソールに近づくと、モニターには見たこともない文字が流れていた。古代魔術の呪文だろうか。
勇気を出して、コンソールに手を置いた。すると、指先から徐々に体が溶け始める。スライム化だ。
「うわっ!」
思わず声が出たが、意外にも痛みはない。むしろ、この状態が自然に感じられる。私の半透明になった手がコンソールの中に溶け込んでいく。
そこで感じた。異質な魔力の流れ。冷たく、しかし規則的なパルスを持つエネルギー。これは...意思を持っている。
「誰だ?」私は思わず問いかけた。
すると、モニターの文字が変化し、メッセージが表示された。
『古きものの目覚め』
「古きもの?」
『眠りし者、氷結の王、復活の時』
この時、部屋の温度がさらに下がり、私の体が完全にスライム化した。透明な粘液となった私は、サーバーの中の魔力の流れを明確に感じ取れるようになった。
「これは...誰かが意図的にシステムを通じて魔力を流している。でも目的は...」
突然、アラームが鳴り響いた。同時に、私のスライム体が青く発光し始める。
「なっ...何が...」
魔力が私の中に流れ込んでくる。しかし拒絶反応はない。むしろ、体が魔力を吸収しているようだ。
「粘田!大丈夫か!」
振り返ると、部長と花子、小振田が駆けつけていた。
「部長、魔力の正体が分かりました!これは...」
言葉を続ける前に、サーバーから青白い光が爆発的に放出された。私たちは反射的に身を伏せた。
光が収まると、サーバーラックの前に青い氷の結晶が浮かんでいた。人型に近い形だが、顔は識別できない。
「我は氷結の王...」
その声は冷気とともに部屋中に広がった。
「氷結の王?」部長が剣を抜くような仕草をした。「なぜ我が社のシステムに潜んでいる?」
「現世に復活するため...魔力を集めていた...」
「魔力?」花子が問いかけた。「顧客データから?」
「人の想い...期待...失望...それらは強力な魔力となる...」
なるほど、顧客の感情がデータとして蓄積され、それが魔力に変換されていたのか。
「滅びよ氷結の王!」部長が叫び、ペンをまるで杖のように構えた。「我が魔王の力、今ここに解放せん!」
ペンから赤い光が放たれ、氷の結晶に命中した。しかし効果は薄い。
「粘田!お前の番だ!」
私はまだスライム状態。本能的に前に進み、氷の結晶に体を押し付けた。すると、驚くべきことに結晶が私の体に吸収されていく。
「冷たっ!でも...これなら...!」
氷結の王の魔力が私の中に流れ込む。冷たさと共に、古代の記憶も断片的に見える。氷の世界、眠りについた王、そして現代に目覚めようとした意志...
「我が力を...受け継ぐがよい...」
最後の言葉を残し、氷結の王は完全に私に吸収された。体が人型に戻りながらも、指先から冷気が漏れている。
「粘田、大丈夫か?」小振田が心配そうに近づいてきた。
「はい...なんとか」
「システムの状態は?」部長が確認した。
花子がコンソールをチェックする。「正常に戻っています!顧客データも元通りです」
「よし」部長は満足げに頷いた。「今回の件は無事解決したようだな」
しかし私の体はまだ冷たい。氷結の王の力が残っている。
「部長、この力...どうすればいいんでしょう?」
「それは...」部長は考え込んだ。「お前の新たな能力となるだろう。スライムに氷の力...面白い組み合わせだ」
「でも制御できるかどうか...」
「心配するな。我々がサポートする」花子が励ましてくれた。「私も勇者として最初は剣を振り回して窓ガラスを割りましたから」
「私はレジを壊しましたしね」小振田も笑った。
「魔力の流入は止まったが、これが最後ではないだろう」部長は真剣な表情で言った。「異世界との繋がりは強まっている。我々は準備を怠るわけにはいかん」
私は自分の手を見た。透明からほんのり青みがかった色に変わっている。スライムと氷の融合...
「とりあえず、会社は通常運転に戻しましょう」
部長の指示で全員が各自のポジションに戻った。しかし、私の中には確かに変化があった。かつての底辺スライムだった自分が、少しずつ強くなっている。
デスクに戻り、パソコンを操作すると、キーボードに薄く霜が降りた。
「制御は難しそうだな...」
窓の外を見ると、空は晴れていた。しかし、どこか遠くで、次なる異変が待ち構えているような気がする。
今日も会社は、異世界の気配に満ちている。