混沌の兆し
社内の監視カメラが増え、部長直属の「安全対策チーム」なる黒スーツ集団が廊下を行き交う中、私は溶けるように机に張り付いていた。スライムの習性は抜けないものだ。
「粘田さん、また机と一体化してますよ」
花子の声に慌てて体を起こす。
「すみません、緊張すると無意識に…」
「今夜のことですか?」
彼女は小声で耳打ちしてきた。そう、今夜は地下駐車場から先の未知の階層を探索する予定だ。
「花子さん、ちょっといいですか」
声をかけたのは黒スーツの一人。彼は無表情で花子のデスクに近づいた。
「はい、なんでしょう?」
「コピー機が紙詰まりを起こしています。対処をお願いします」
「え?またですか?あの機械、私を呼び寄せてるとしか思えないんですけど」
花子は剣を抜くような仕草で立ち上がった。かつての勇者の風格が漂う。
「行ってきます!」
黒スーツと花子が去った後、私はこっそり地下駐車場の図面を広げた。花子が「コピー機必殺技・紙詰まり解消斬り」で偶然出力した機密資料だ。
「地下5階…」
会社の公式図面には存在しない階層。そこに何があるのか、考えるだけでぞくぞくする。
「粘田くん、何見てるの?」
小振田がコンビニの制服姿でそっと現れた。
「小振田さん!どうしてここに?」
「俺、今日休みなんだ。ちょっと様子を見に来た」
彼は周囲を警戒しながら小声で続けた。
「地下のことを調べてるなら、これも見たほうがいい」
差し出されたのは古びた羊皮紙。以前見せてもらった迷宮図の続きのようだ。
「これって…」
「ドノ堕ム・ゲン吉の玉座の先にある部屋の図面だ。コンビニのゴミ箱から出てきた」
「ゴミ箱から?」
「うん。ファミチキの袋に包まれてた。俺、仕事柄ゴミも丁寧にチェックするんだ」
コンビニ店員の鑑である。羊皮紙を広げると、複雑な魔術陣が描かれていた。
「これ、何の魔術陣なんだろう…」
「わからない。でも、ここに文字がある」
小振田が指差した場所には、かすれた古代文字が刻まれていた。
「読めますか?」
「ちょっと待って…」
私は無意識のうちに指を伸ばし、文字の上をなぞった。すると指先が青く光り、文字が浮かび上がる。
「え?なんで…」
「スライムの特性だ。古代文字を解読できるんだよ」
小振田の説明に驚きつつも、私は文字を読み上げた。
「『闇の結界ここに解かれし時、新橋に真の混沌を』…」
その瞬間、会社全体が微かに揺れた。
「なんだ今の?」
「読んじゃダメだったのかも…」
小振田が心配そうに窓の外を見る。空は通常通りだが、どこか違和感がある。
「粘田、小振田」
振り返ると間苧谷部長が立っていた。いつの間に?
「部長!これは…」
「説明は不要だ。私も感じた」
部長の目が赤く灼熱している。魔王モードだ。
「何を感じたんですか?」
「結界の揺らぎだ。お前が古代文字を読んだな?」
「はい…すみません」
「謝るな。むしろ良かった」
意外な言葉に目を丸くする。
「古代文字を読めるのは、お前がただのスライムではない証拠だ。『選ばれし粘液』かもしれん」
「選ばれし…粘液?」
「伝説にある存在だ。異世界と人間界の境界を自在に行き来できる唯一の存在」
小振田が補足する。
「だから俺はお前を追いかけてきたんだ。ぬる山、いや粘田。お前には特別な力がある」
「でも僕は…ただの底辺スライムで…」
「底辺だからこそ、どこにでも潜り込める。それがお前の力だ」
部長の言葉に、なぜか誇らしい気持ちになった。底辺が褒められるなんて!
「部長!大変です!」
花子が息を切らして駆け込んできた。
「コピー機から…魔物が…!」
「なに?」
私たちが驚く間もなく、廊下から悲鳴が聞こえた。急いで見に行くと、コピー機から黒いインクのような液体が溢れ出し、床を這いまわっている。
「インクスライム!」
部長が叫んだ。黒い液体は次第に人型に変形し、コピー用紙を手に持った。
「資…料…コピー…残業…」
インクスライムは呻くように言いながら、オフィスの社員たちに資料を配り始めた。
「残業地獄の使者だ!」
部長が剣を抜くような仕草をした。が、現実には何も持っていない。
「くそ、魔剣がない…」
「部長、これを!」
花子がホチキスを手渡した。部長はそれを受け取り、叫ぶ。
「我が魔剣ホッチキス・デスブリンガーよ!敵を貫け!」
ホチキスを構えた部長だが、インクスライムには効かない。黒い液体はどんどん増殖し、社員たちを飲み込んでいく。
「このままじゃ会社が…」
私は迷った。何ができるだろう?
「粘田、お前ならできる!」
小振田の励ましに、ふと思いついた。
「そうだ、僕はスライムだった…」
私は床に伏せ、意識を集中する。体がじわじわと溶け始め、半透明の粘液に変化した。
「うわ、本当に溶けた…」
花子が驚いた声を上げる。
「部長、あの魔術陣の意味がわかりました」
私は粘液状態で言った。声が出るのも不思議だ。
「闇の結界が解かれると、異世界と人間界の境界が曖昧になる。だから私はスライム化できたし、コピー機からインクスライムが…」
「そういうことか!」
部長が納得した様子で頷く。
「では、お前の力で奴らを吸収しろ!」
「え?吸収?」
「スライム同士なら可能だ。お前は上位種だ!」
上位種と言われて舞い上がる私。底辺スライムから出世したのだ!
意を決して、私はインクスライムに向かって這っていった。接触すると、黒い液体が私の体に吸い込まれていく。
「うっ…こいつ、意識がある…」
インクスライムの断片的な記憶が流れ込んでくる。コピー機の中で長年溜まったストレス、紙詰まりの恨み、トナー切れの絶望…
「残業…資料…コピー…終わらない…」
インクスライムの呻きが私の中で響く。共感してしまう…これは会社の怨念だ!
全てのインクスライムを吸収し終えると、私は人型に戻った。体の中で黒いエネルギーがうごめいている。
「大丈夫か?」
部長が心配そうに尋ねる。
「はい…なんとか」
「粘田さん、すごい!」
花子が駆け寄ってきた。
「でも、これって一時的な対処でしかないですよね」
小振田が冷静に指摘する。
「そうだ。根本的な問題は解決していない」
部長は深刻な表情で続けた。
「『新橋に真の混沌を』…これは始まりに過ぎない。我々の世界は、異世界との境界が崩れつつある」
窓の外を見ると、空がわずかに歪んでいる。遠くの高層ビルが揺らめき、時折幻のように消えては現れる。
「部長、地下の調査は急いだほうがいいかも」
「ああ。今夜予定通り行くぞ」
「えっ、知ってたんですか?」
「当然だ。この会社で私の知らぬことはない」
そう言って部長はニヤリと笑った。魔王の笑みだ。
「では今夜、地下駐車場に集合だ。正体不明の敵が我々を待ち構えている」
「はい!」
私たちは力強く返事をした。スライムだった私、勇者だった花子、ゴブリンだった小振田、そして魔王だった部長。この奇妙な組み合わせで、迫り来る混沌に立ち向かう。
「そういえば部長、なぜホチキスを魔剣と…」
「黙れ粘田!会議室に戻るぞ!」
部長は赤面しながら早足で歩き出した。
今日も会社は異世界の気配に満ちている。窓の外では、空がさらに歪み始めていた。