地下で囁く不穏な音
会社のエレベーターに乗り込んだとき、私は不思議な振動を感じた。
「なんだろう、この揺れ」
壁に手を当てると、微かな振動が指先に伝わってくる。スライムだった頃の感覚が蘇り、私は思わず体を壁にぺたりと張り付けた。
「粘田さん、また壁に張り付いてる」
振り返ると、勇田花子が呆れた表情で私を見ていた。元勇者の彼女は、異世界では魔王を倒したほどの豪傑だが、現代ではコピー機すら操れない天然系OLとして働いている。
「あ、すみません。癖で」
私は慌てて壁から剥がれ落ちた。人間に転生してもスライム時代の習性が抜けない。
「でも、なんか変な振動しませんか?」
花子は首をかしげた。「振動? 特に感じないけど…」
エレベーターが営業部のフロアに到着し、扉が開く。しかし、その瞬間、再び奇妙な振動が床から伝わってきた。
「これ、地下から来てるような…」
「粘田くん、おはよう」
同僚の山田が近づいてきた。「聞いた? KT商事との競合案件、突然中止になったらしいぞ」
「え? あの大型案件が?」
私は驚いて声を上げた。数か月前から準備してきたプロジェクトだ。
「なんでも、先方から『諸事情により』だって。詳細は不明」
山田は肩をすくめた。「部長、めちゃくちゃ機嫌悪いから気をつけろよ」
その言葉を聞いた瞬間、フロア全体の空気が凍りついた。間苧谷京一部長が姿を現したのだ。元魔王の彼は、現代でも無慈悲なパワハラ上司として君臨している。
「粘田!」
鋭い視線が私に突き刺さる。目が赤く光っている。
「は、はい!」
私は思わず背筋を伸ばした。
「昨日の資料、やり直せ。数字が間違っている」
部長は冷たく言い放ち、「滅びよ、エクセル関数…」と呟きながら自分のデスクへと消えていった。
「うわぁ…マジで機嫌悪いね」山田が小声で言った。
花子はため息をついた。「KT商事の件、かなりショックだったみたい」
私はデスクに向かいながら、再び床から伝わる振動に気づいた。微かだが確かに何かが…
「ねぇ、地下で工事でもしてるのかな?」
「工事? 聞いてないけど」花子は首をかしげた。
昼休みになり、私は好奇心に負けて地下に向かった。エレベーターで最下層まで降りると、そこは薄暗い駐車場になっていた。
振動はより強く感じられる。壁に耳を当てると、カンカンという金属音と、何かが唸るような低い音が聞こえた。
「これは…」
スライム時代の記憶が蘇る。この感覚は、異世界の魔力が漂う時に感じたものに似ている。
駐車場の奥には「立入禁止」の看板が立てられた扉があった。そこからは明らかに工事音が漏れ出している。
「何してるんだ?」
突然背後から声がかかり、私は飛び上がりそうになった。振り返ると、山田が立っていた。
「あ、ちょっと気になって…」
「俺も。この振動、おかしいと思ってさ」
山田は扉に近づき、「少し覗いてみるか」と提案した。
ドアノブに手をかけた瞬間、背後から冷たい声が響いた。
「何をしておる?」
間苧谷部長だった。その目は赤く輝き、周囲の空気が一瞬で凍りつく。
「す、すみません! ちょっと気になって…」
部長は私たちを冷たい目で見下ろした。「ここは関係者以外立入禁止だ。上に戻れ」
「はい!」
私たちは慌てて逃げ出した。エレベーターに乗り込むと、山田が小声で言った。
「なんだよ、あれ。絶対何かやってるって」
「うん…」
私は懐から、先日コピー機から出てきた奇妙な印刷物を取り出した。「警告…境界が…薄れている…」という意味の文字が書かれていた。
「これと関係あるのかな」
「何それ?」
説明しようとした矢先、エレベーターが揺れ、一瞬停止した。そして再び動き出した時、奇妙なことに気づいた。
「あれ? このエレベーター、前は5階までしかなかったよね?」
表示パネルには「6F」というボタンが追加されていた。
「え? そんなはずない…」
山田も混乱した表情を浮かべている。
オフィスに戻ると、社内はざわついていた。
「聞いた? 6階に新しい部署ができるらしいよ」
「え? この建物、5階建てじゃなかった?」
「いや、昔から6階あったでしょ」
社員たちの会話が飛び交う。私と山田は顔を見合わせた。
「おかしい…昨日まで絶対5階建てだった」
花子が近づいてきた。「粘田さん、大変! 部長が急に全体会議を招集したんです!」
会議室に集まると、間苧谷部長が厳かな表情で立っていた。その横には見知らぬ人物がいる。
「諸君、今日から我が社に新たな部署が設立される。これは会社の未来を左右する重要なプロジェクトだ」
部長は新しい人物を紹介した。「小振田緑朗君だ。6階の新プロジェクトを任せる」
小振田は小柄で緑がかった肌をした男性だ。彼が笑うと、妙に尖った歯が見えた。
「よろしくお願いします」
彼の声は意外と柔らかく、親しみやすい感じがする。しかし、私には分かった。彼の正体は…ゴブリンだ。
「新プロジェクトの詳細はまだ秘密だが、皆にも関わってもらうことになるだろう」
部長の説明が続く間、私は小振田の姿を観察していた。確かに異世界の存在だ。しかし、なぜゴブリンがここに?
会議が終わり、社員たちが三々五々退室する中、私は小振田に近づいた。
「あの、小振田さん…」
彼は振り返り、私を見るなり目を丸くした。
「お、おまえは…! ぬ、ぬるやま…」
私は慌てて彼の口を塞いだ。「しっ! 人前では言わないで!」
小振田は私の手を振り払った。「まさかここで会うとは…スライム野郎」
「なんでゴブリンがここに?」
「おまえを追ってきたんだよ。でも見失って…」彼は肩をすくめた。「仕方なくコンビニバイトしてたら、この間苧谷って男に見出されてさ」
「間苧谷部長に?」
「ああ。『よきにはからえ』って言われて、気づいたらここにいた」
これは明らかにおかしい。部長が何か企んでいる。地下の工事、突然現れた6階、そして異世界からの訪問者…
「小振田さん、地下で何が行われてるか知ってる?」
彼は不敵な笑みを浮かべた。「知ってるさ。でも教えられない。おまえも近いうちに分かるよ」
その時、再び床から強い振動が伝わってきた。今度は社内の電気が一瞬消え、また点いた。
「始まったか…」小振田が呟いた。
「何が始まったの?」
彼は答えず、「また会おう、ぬるやま」と言い残して去っていった。
その日の帰り際、私は決意した。明日、何があっても地下の秘密を暴こう。
エレベーターに乗り込み、ボタンを見つめる。「B1」「1F」「2F」…そして「6F」。
指が「B1」に伸びかけたとき、背後から声がした。
「粘田さん、帰り?」
花子だった。彼女は笑顔で手を振っている。
「うん、帰るところ」
「じゃあ一緒に」
エレベーターのドアが閉まり、私たちは1階へと降りていった。窓の外では夕日が沈みかけている。
会社を出ると、地面が微かに揺れた。花子は気づいていないようだが、私には分かる。何かが変わろうとしている。
「明日も頑張りましょうね」
花子の明るい声に、私は無理に笑顔を返した。
「うん、明日も…頑張ろう」
帰り道、私は空を見上げた。雲の切れ間から見える月が、一瞬だけ緑色に輝いたような気がした。