コピー機の奇跡
社内のコピー機が突然復活した朝、営業部のフロアには不思議な空気が流れていた。
「うそ…動いてる…」
花子が半信半疑でコピーボタンを押すと、機械は滑らかな動作で用紙を取り込み、完璧なコピーを吐き出した。
「奇跡…これは奇跡です!」
彼女は感動のあまり両手を天に掲げた。元勇者の彼女が魔王を倒した時よりも感激した表情をしている。
私、粘田透はといえば、いつものように壁にぺたりと張り付いたまま、この光景を眺めていた。スライムから人間に転生した今でも、何かに寄りかかりたくなる習性が抜けない。
「お、マジで直ったのか」
同僚の山田が近づいてきて、試しに書類をコピーしてみる。確かに正常に動いている。
「なんか…怪しくない?」
私は警戒心を抱きながら壁から剥がれ落ち、コピー機に近づいた。先週まで「紙詰まりエラー0x666」を連発し、修理業者も匙を投げたあの悪魔のような機械が、突如として復活するなんて。
そこへ間苧谷部長が現れた。彼は元異世界の魔王であり、今は無慈悲なパワハラ上司として君臨している。
「何をごちゃごちゃ騒いでおる」
部長は冷たい目でフロアを見回した。その瞳には赤い光が灯っている。
「部長、コピー機が直りました!」花子が嬉しそうに報告する。
「ほう…」部長はコピー機を一瞥し、「よきにはからえ」と一言残して、再び営業フロアへと消えていった。
その背中には、一瞬だけ黒い翼のようなものが見えた気がした。
「よきにはからえって…時代劇かよ」山田が小声で呟いた。
私はふと、コピー機の側面に目をやった。そこには微かに紫色に光る痕跡が残っている。スライム時代の感覚が蘇り、これが魔力の残滓だと直感的に理解できた。
「ねえ、これ…」
壁に近づき、指でなぞってみる。すると、指先にぴりぴりとした感覚が走った。間違いない、これは魔法の痕跡だ。
「何かあったの?」花子が首をかしげる。
「いや、なんでもない」
私は適当に誤魔化した。彼女に余計な心配をさせたくなかった。しかし、この不自然な魔力の痕跡が気になる。部長が何か関わっているのだろうか?
「よし、みんな!急ぎの案件があるぞ」
山田が突然声を上げた。
「大手メーカーのプレゼン資料、今日の午後3時までに仕上げなきゃいけないんだ」
「えぇ!? そんな無茶な…」花子が青ざめる。
「部長命令だってさ。さっき伝令が来たらしい」
私は溜息をついた。やはり部長のことだ。コピー機が直ったと思ったら、すぐさま無理難題を押し付けてくる。
「じゃあ、分担しよう」私は提案した。「花子さんはデータ集計、山田くんはグラフ作成、私は文章構成を担当する」
三人で机を寄せ合い、急ピッチで作業を開始した。花子は天然系OLを装っているが、元勇者だけあって集中力は抜群だ。ただし…
「あの、この関数の使い方がわからないんですけど…」
彼女はパソコンと格闘している。魔王は倒せても、エクセルには敵わないらしい。
「ここをクリックして…」私が教えながら、不意に壁の魔力痕が強く光ったような気がした。
振り返ると、そこには何もなかった。気のせいか?
作業は順調に進み、昼食を取る暇もないまま午後になった。コピー機は相変わらず完璧に動作し、必要な資料を次々と印刷していく。
「あと少しで完成だ」山田が満足げに言った。
そのとき、突然オフィスの電気が一瞬だけ消え、また点いた。コピー機も一度止まったが、すぐに再起動した。
「なんだ今の…」
私が立ち上がったとき、コピー機から奇妙な音が聞こえた。通常の動作音とは明らかに違う、低い唸り声のような…
「ねんだくん、これ最後の印刷お願い」花子が資料を手渡してきた。
私はコピー機に向かい、原稿をセットした。ボタンを押すと、機械は唸りを上げながら動き出した。
出てきた紙を見て、私は息を呑んだ。
そこには資料ではなく、見覚えのない文字が並んでいた。異世界の魔法文字だ。スライム時代に見たことがある。
「どうしたの?」花子が覗き込む。
私は慌てて紙を隠した。「あ、ミスプリントみたい。もう一度やるね」
再度ボタンを押すと、今度は正常なコピーが出てきた。さっきの紙を懐にしまいながら、私は壁の痕跡を見た。紫色の光が強まっている気がする。
「よし、完成だ!」山田が叫んだ。
時計を見ると2時50分。ギリギリだが間に合った。
「よくやった、みんな」私は二人に微笑みかけた。
資料をまとめて会議室に向かう途中、私はトイレに立ち寄り、さっきの奇妙な印刷物を取り出した。
異世界の文字を読める人間は少ないが、私はスライム時代の記憶から、かろうじて解読できる。
「警告…境界が…薄れている…」
そんな意味の文章が書かれていた。最後の部分は判読できないが、不穏な内容であることは間違いない。
会議室に着くと、すでに部長が待ち構えていた。彼は資料に目を通し、珍しく満足げな表情を浮かべた。
「よくやった。今回のプレゼンは成功だろう」
部長の言葉に、みんなはほっと胸をなでおろした。
会議が終わり、夕方になった頃、私はもう一度コピー機の前に立った。壁の魔力痕は薄れ、ほとんど見えなくなっている。
コピー機自体も普通に動いているようだ。試しに白紙をコピーしてみたが、何の異常もなかった。
「粘田さん、お疲れ様です」
背後から花子の声がした。彼女は笑顔で手を振っている。
「お疲れ様。今日は大変だったね」
「はい。でも、なんとか乗り切れました!」
彼女の明るい笑顔に、私も自然と笑みを返した。
「そうだ、今日は皆で一杯どう? 成功祝いに」
「いいね、行こう」
帰り支度をしながら、私はもう一度壁を見た。魔力痕は完全に消えていた。しかし、懐の中の紙が微かに熱を持っているのを感じる。
異世界と現代の境界が薄れている…それはどういう意味なのか。
部長の「よきにはからえ」という言葉も気になる。彼は何かを知っているのだろうか。
そんな疑問を抱えながらも、今日の成功を祝うため、私たちは会社を後にした。
明日はまた新たな一日。スライムから転生した会社員の日常は、今日も不思議な出来事で満ちていた。