満月の覚醒
会議室から漂う煙が徐々に晴れていく。床に横たわる私の体は、相変わらず床とぬるりと一体化していた。
「あの…みなさん、大丈夫ですか?」
勇田花子の声が聞こえる。彼女はすでに立ち上がり、元の姿に戻っていた。シャープペンシルは再び普通の文房具の姿に戻っている。
「ぐおおお…」
小振田緑朗は天井の蛍光灯に頭からぶら下がったまま、ゆらゆらと揺れていた。コンビニの制服は煙で黒ずんでいる。
「俺様の接客パワーが通じなかったとは…まさに魔王っすね」
そう言いながらも、彼は器用に宙返りして床に着地した。
私は体を引き剥がすようにして立ち上がる。床には透明な人型の跡が残った。
「間苧谷部長は…?」
三人で周囲を見回すが、魔王の姿はどこにも見当たらない。魔法陣も消え、会議室は普通のオフィスの一室に戻っていた。
「逃げたのかな」
花子がつぶやく。その時、部屋の隅から声が聞こえた。
「逃げてなどいない」
振り向くと、そこには間苧谷京一が立っていた。しかし、先ほどの魔王の姿ではなく、普段通りのスーツ姿の部長だった。ただ、髪が少し乱れているだけで。
「部長!」
三人が身構えると、間苧谷は手を上げた。
「落ち着け。今の私は普通の上司だ」
「信用できませんよ」花子が警戒する。「さっきまであなたは完全な魔王だったじゃないですか」
間苧谷はため息をついた。
「魔王の力は満月の夜にしか完全に発揮できん。今日は力を使いすぎた」
「満月…?」
私は窓の外を見た。確かに今夜は満月だった。そして、夜空の亀裂はさらに広がっていた。
「で、結局どうするんですか?」小振田が腕を組む。「俺様を含めた会社のみんなを滅ぼす気っすか?」
間苧谷は首を横に振った。
「誤解するな。私は確かに異世界の魔王だったが、今は一人の部長として真面目に働いている」
「じゃあさっきの魔法陣は?」花子が問いただす。
「ただの…ストレス発散だ」
間苧谷の言葉に、三人は顔を見合わせた。
「ストレス発散…?」
「そうだ。この世界での仕事は、異世界の魔王統治よりもはるかにストレスフルだからな」間苧谷は真面目な顔で言った。「特に今月の売上目標は厳しい」
思わず吹き出しそうになるのをこらえる。魔王が売上目標にストレスを感じるなんて。
「それで、私たちを殺そうとしたんですか?」
「いや、それは違う」間苧谷は少し困ったように頭をかく。「力が暴走しただけだ。本当はただ、少し本来の姿に戻りたかっただけなんだ」
その言葉に、なぜか共感を覚えた。私も時々、スライムに戻りたくなることがある。
「わかりました」私は一歩前に出た。「でも、もう二度とこんなことはしないでください」
間苧谷はしばらく私を見つめ、やがて小さくうなずいた。
「約束しよう。ただし…」
「ただし?」
「明日のプレゼン対決は有効だ。お前が勝てば、私は完全に大人しくなろう」
そう言って間苧谷は片目をつぶった。
「負ければ、次の満月にはもっと面白いことになるぞ」
その言葉を残し、間苧谷は会議室を出ていった。
三人だけになった会議室で、私たちは顔を見合わせた。
「明日、勝たないとマズいですね」花子が心配そうに言う。
「ああ、でも…」
私の言葉は、突然の物音で遮られた。振り向くと、窓際に煙田マドロスが立っていた。
「煙田さん!」
「いつからそこに…?」
煙田はにやりと笑った。その姿は先ほど煙を放出した時とは違い、普通のサラリーマンだった。
「さっきからずっといたよ」
「えっ?」
「それより、これを見てほしい」
煙田は内ポケットから一枚の紙を取り出した。それは古びた羊皮紙のようで、端が焦げていた。
「これは…?」
「魔王の弱点が書かれた本物の資料だ」
三人は息を飲んだ。
「本当に存在したんですか!?」
「ああ」煙田は紙を広げた。「この世界に転生した者たちの情報がすべて記されている」
紙には複雑な図形と文字が描かれていた。しかし、それを読み解くことはできない。
「これを使えば、明日の勝負に勝てるかもしれない」
「なぜ教えてくれるんですか?」花子が怪訝そうに尋ねる。
煙田は不敵な笑みを浮かべた。
「私にも魔王には従いたくない理由がある」
「煙田さんも…異世界から?」
「そう言ってもいいだろう」
煙田はそれ以上語らず、紙を私に手渡した。
「次の満月が、全てを明かす時だ…」
その言葉を残し、煙田の体が徐々に灰色の煙に変わり、窓から外へと消えていった。
「な、なんだったんだ…」
紙を手に、私たちは呆然としていた。
「とにかく、明日のプレゼンに集中しましょう」花子が決意を新たにする。
「ああ、俺様も手伝うぜ!」小振田も拳を握る。
私は窓の外を見た。満月が雲に隠れ、夜空の亀裂だけが不気味に光っている。
「明日、勝とう」
紙を握りしめながら、私はつぶやいた。しかし心の奥では、次の満月に何が起こるのか、不安と期待が入り混じっていた。
会社を出て帰路につく三人。
「粘田さん、床に張り付いてますよ」
花子の指摘に慌てて足を引き剥がす。やはりスライムの性質は抜けない。
「今夜は満月だから、気をつけてくださいね」
「ああ、ありがとう」
別れ際、小振田が不意に言った。
「でも不思議っすよね。みんな異世界から来てるなんて」
「そうだね…」
「もしかして、この会社自体が何かの目的で…」
その言葉は夜風に消えていった。
家に帰り、ベッドに横たわる。窓から差し込む満月の光が、煙田から受け取った紙を照らしている。
「次の満月か…」
眠りに落ちる直前、私の体が一瞬透明になり、ベッドにぬるりと溶け込んだ。