迷宮の試練
地下迷宮の入り口に立つと、予想以上の暗闇が私たちを飲み込んだ。スライム状態の私は床をぬるぬると進みながら、ぷるぷるとした体で周囲を警戒していた。
「ねえ、粘田さん」
後ろから花子の声が聞こえる。彼女は勇者の装備を身にまとい、その姿は異世界そのものだった。
「この迷宮、なんだか変じゃないですか?壁が...うねってる気がします」
確かに、周囲の壁は微かに脈動しているように見える。まるで生きているかのように。
「魔王...じゃなくて部長、これは何なんですか?」
私が尋ねると、黒いローブを纏った間苧谷部長は眉をひそめた。
「予想外だ...迷宮が『パワーハラスペル』の影響を受けている」
「パワーハラスペル?」
「かつて魔王時代に私が作り出した呪いだ。部下を従わせるための...」
部長の言葉が途切れた瞬間、廊下全体が赤く染まり、天井から恐ろしい声が響き渡った。
「残業しろ!休日出勤しろ!飲み会は強制参加だ!」
突然の叫び声に、全員が耳を押さえる。
「パワハラスペルが暴走している!」花子が叫んだ。
「こんなはずでは...」部長が困惑した表情を浮かべる。
迷宮の壁から無数の手が伸び、私たちに向かって来た。それらは書類やスタンプ、ペンなどのオフィス用品を持っている。
「逃げろ!」
私たちは必死に走った。スライム状態の私は床を滑るように進み、時折壁に張り付いて障害物を避ける。
「こっちです!」
花子が左の通路を指さした。そこには小さな部屋があり、一時的な避難所になりそうだった。
全員が部屋に飛び込み、扉を閉める。パワハラの手は扉を叩き続けるが、中には入って来れないようだ。
「はぁ...はぁ...」
全員が息を整える中、花子が部屋の隅に何かを見つけた。
「これって...コピー機の部品じゃないですか?」
彼女が手に取ったのは、現代のコピー機でよく見る緑色の基板だった。
「なぜこんなところに?」
「おそらく、モツ夫が迷宮内に仕掛けたものだろう」部長が言った。「彼はコピー機の魂を奪うために、現代技術と魔法を融合させようとしているのかもしれない」
「それって危険なことですか?」
「極めて危険だ。二つの世界の法則が混ざり合えば、現実そのものが歪む可能性がある」
部長の説明に全員が沈黙した。
突然、部屋の温度が上がり始めた。熱波が押し寄せ、壁が赤く染まる。
「何が...」
扉が爆発するように開き、炎に包まれた人影が現れた。
「厚着...竜二さん?」
コートを着た男性は、全身から炎を噴出させていた。その目は竜のように鋭く輝いている。
「邪魔するな」
低い声が響いた。それは確かに竜二の声だったが、いつもの彼とは違う威厳を帯びていた。
「竜二、お前...」部長が驚いた表情で言った。
「本当の姿を見せるときが来たようだな」
竜二はコートを脱ぎ捨てた。すると、背中から巨大な竜の翼が現れ、彼の肌は徐々に鱗に覆われていく。
「ドラゴンナイト...」花子が息を呑んだ。
完全に変身した竜二は、人間と竜の特徴を併せ持つ姿になった。彼は手を天井に向けて伸ばすと、炎の渦を作り出した。
「パワーハラスペル、我が炎で焼き尽くす!」
渦は迷宮全体に広がり、赤く染まった壁を浄化していく。パワハラの手は炎に触れると縮み、消えていった。
「すごい...」
私は感嘆の声を上げた。竜二の力は予想を遥かに超えていた。
炎が収まると、竜二は私たちの方を向いた。
「説明する時間はない。この迷宮は現代と異世界の境界に作られている。コピー機の部品が散らばっているのは、二つの世界を繋ぐ鍵だからだ」
「あなたはずっと知っていたんですか?」花子が尋ねた。
「ああ。私は両世界の監視者として存在している。しかし、最近バランスが崩れ始めた」
部長が前に出た。
「モツ夫の仕業か?」
「いいや、彼はただの使いだ。真の敵はもっと深いところにいる」
竜二の言葉に、私たちは不安を感じた。
「では、どうすれば...」
「まずは散らばった部品を集めなければならない。それが迷宮の謎を解く鍵になる」
花子が手にした基板を竜二に渡すと、彼はそれを慎重に調べた。
「これは始まりに過ぎない。もっと多くの部品がある」
私たちは竜二の後に続き、再び迷宮の奥へと進んだ。パワハラスペルは一時的に収まったが、壁はまだ微かに脈動している。
「ここから先は注意が必要だ」竜二が言った。「迷宮は私たちの恐怖や欲望を映し出す」
その言葉通り、次の通路には様々な幻影が現れ始めた。締め切り前の書類の山、怒った顔の上司、恐ろしいほど長い会議...
「これは幻だ。心を強く持て」
竜二の言葉に勇気づけられ、私たちは前進した。
突然、床が揺れ始めた。亀裂が走り、私たちの足元が崩れ落ちる。
「みんな、気をつけて!」
花子が叫んだ時には遅く、私たちは深い穴へと落ちていった。
目を覚ますと、そこは広大な空間だった。天井は見えないほど高く、床は鏡のように光っている。
「ここは...」
部長が言葉を失った。空間の中央には巨大なコピー機が置かれていた。しかし、それは現代のものとは明らかに違う。古代の石と金属が組み合わさり、魔法の文様が刻まれている。
「原初のコピー機...」竜二が畏敬の念を込めて言った。
私たちが近づくと、コピー機が動き始めた。光が放たれ、私たちの前に人影が現れる。
「よく来たな、転生者たち」
その声は聞き覚えがあった。コンビニ店員の小振田緑朗、元ゴブリン族長だ。
「お前か...」部長が唸った。
「驚いたか?この迷宮は私が作ったものではない。しかし、利用させてもらっている」
緑朗は微笑んだ。
「なぜこんなことを?」私は問いかけた。
「二つの世界を完全に融合させるためだ。異世界と現代が一つになれば、我々転生者は本来の力を取り戻せる」
「それは危険すぎる!」竜二が叫んだ。「バランスが崩れれば、両方の世界が破滅する」
緑朗は肩をすくめた。
「リスクは承知している。しかし、このまま半端な存在で生きるよりマシだ」
彼が手を挙げると、原初のコピー機が輝きを増した。空間全体が歪み始める。
「止めなければ!」花子が剣を構えた。
竜二も炎を纏い、戦闘態勢に入る。部長は黒い魔力を手に集中させていた。
私はどうすればいいのか...スライムの私に何ができるのか...
そのとき、閃いた。スライムの特性—あらゆるものに適応し、形を変える能力。
「みんな、時間を稼いで!」
私は床を滑るように進み、コピー機の下部に潜り込んだ。内部は複雑な機構で満ちていたが、スライムの体を使えば...
「何をする気だ!」緑朗が気づき、私を止めようとした。
しかし、花子と竜二、部長の三人が彼の前に立ちはだかる。
「お前の相手は我々だ」
三人の戦いが始まる中、私はコピー機の中心部へと進んだ。そこには小さな結晶があり、強い光を放っていた。
「これが...核か」
私は体を結晶に巻きつけ、その力を吸収し始めた。痛みが走るが、耐えなければ。
外では激しい戦いの音が聞こえる。花子の剣と竜二の炎、部長の魔法が交錯する音。
結晶の光が弱まり始めた。私の体は結晶の力を吸収し、変化している。透明だった体が虹色に輝き始める。
「もう少し...」
結晶が完全に力を失った瞬間、コピー機が停止した。空間の歪みも元に戻り始める。
「やった...」
力尽きた私は床に滑り落ちた。視界が暗くなる中、最後に見たのは、驚愕の表情を浮かべる緑朗と、彼の背後に現れた謎の影だった。
「これは始まりに過ぎない...」
誰かの声が聞こえたような気がした。しかし、それ以上考える前に、意識は完全に闇に沈んでいった。