コピー機の呪縛
朝の空気が冷たい。オフィスビルのエレベーターに乗り込みながら、私は思わず「ぷるっ」と震えた。身体の一部が青く透明になりかけたのを慌てて元に戻す。
「また出そうになりましたね」
振り返ると、同僚の勇田花子が笑顔で立っていた。元勇者の彼女は、いつも明るい。
「朝は体温が下がるので、スライム化しやすくて…」
「大丈夫ですよ。私だって朝は剣を振り回したくなりますから」
冗談めかして言う花子だが、一度だけ無意識に魔法を放ったことがあるらしい。その日以来、会社の玄関には「魔法使用禁止」の張り紙が貼られている。
オフィスに着くと、すでに数人の社員が出社していた。窓際の席で仕事をしている間苧谷部長の姿も見える。元魔王の彼は、今日も冷酷な表情で部下たちを見下ろしていた。
「よし、今日も頑張りましょう」
自分に言い聞かせるように呟き、席に着く。パソコンを立ち上げ、メールをチェックしていると、突然悲鳴が聞こえた。
「きゃあっ!」
声のする方に目をやると、コピー機の前で花子が慌てふためいていた。白い紙が床一面に散乱している。
「どうしたんですか?」
駆け寄ると、花子は泣きそうな顔で言った。
「コピー機が…暴走して…」
確かにコピー機は異常だった。次々と紙を吐き出し、それらが床に落ちては、まるで意思を持つかのように渦を巻いている。
「また精霊が怒ったのかな?」
「違います!昨日まではちゃんと挨拶してたのに…」
花子の言葉が終わらないうちに、コピー機から「ガガガガッ」という不気味な音が響いた。次の瞬間、トナーが爆発的に噴出し、黒い煙が辺りを包んだ。
「うわっ!」
咄嗟に身を引いたが、トナーの一部が私の顔にかかる。すると、皮膚がぬるりと変化し始めた。
「粘田さん、顔が溶けてる!」
花子の叫びに、周囲の社員たちが振り向く。私の顔の一部がスライム化し、青く透明になっていくのを、彼らは恐怖と好奇の入り混じった表情で見つめていた。
「大丈夫、大丈夫…」
慌てて制御しようとするが、トナーに含まれる魔力が私のスライム化を促進させているようだった。
その時、重々しい足音が近づいてきた。
「何をやっている」
低く冷たい声。間苧谷部長だ。彼はコピー機の異常と私の半スライム化した姿を一瞥すると、眉をひそめた。
「すみません、コピー機が突然…」
「言い訳は無用」
部長の目が一瞬、赤く光った。魔王時代の癖だ。
「粘田、その姿のまま俺の席まで来い。花子、コピー機を何とかしろ」
そう言い残すと、部長は踵を返した。私は困惑しながらも、彼の後を追った。顔の半分がスライム化したまま歩く姿に、同僚たちの視線が痛い。
部長の席に着くと、彼は周囲に聞こえないよう、声を潜めて言った。
「昨日の魔法陣のコピーを覚えているな」
「はい…」
「あれは警告だった。この会社に魔力の異常が起きている」
部長の真剣な表情に、思わず背筋が伸びる。
「原因は…厚着竜二だ」
「えっ、厚着さん?」
厚着竜二は総務部の社員で、元・火竜族だった。世界融合後も体温調節が苦手で、真夏でもコートを着ていることから、そう呼ばれている。
「奴が無意識のうちに魔力を放出している。特に電子機器に干渉しやすい」
「それで、コピー機が…」
「ああ。コピー機の精霊が混乱している」
部長は立ち上がると、「俺が対処する。お前はその姿を元に戻せ」と言い残し、コピールームへ向かった。
しかし、私の顔は元に戻らない。むしろ、腕まで青く透明になり始めていた。
「困った…」
席に戻ろうとした時、突然全身に電気が走ったような感覚があり、私の体がびくんと跳ねた。次の瞬間、完全なスライム状態になっていた。
「うわあっ!」
床にぺたりと広がる自分の姿に絶望しかけたその時、コピールームから爆発音が聞こえた。
「なんだ!?」
社員たちが一斉に立ち上がる。私はぬるぬると床を這いながら、コピールームへ向かった。
ドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
コピー機から巨大な渦が立ち上り、紙とトナーが竜巻のように舞っている。その中心で、間苧谷部長が両手を広げ、何かの呪文を唱えていた。花子は隅に追いやられ、震えている。
「部長!」
私の声に、部長が振り向いた。彼の目は完全に赤く光り、魔王時代の威厳が漂っていた。
「粘田、来るな!これは…」
言葉が途切れた瞬間、コピー機が「ボン!」と大きな音を立て、中から何かが飛び出した。
小さな光の球体だ。それはふわりと宙に浮かび、部長と花子、そして床に広がる私を見回した。
「複写の精霊…」
部長が呟いた。精霊は不安げに震えながら、突然私に向かって飛んできた。
「えっ?」
私の上にとまると、精霊はぐにゃりと形を変え、私と同じようなスライム状になった。
「まさか…仲間だと思ってる?」
花子が驚いた声を上げる。精霊は嬉しそうに私の周りをぷるぷると跳ねまわった。
「どうやら、お前と親和性があるようだな」
部長は腕を組み、考え込むように言った。「精霊は厚着の魔力に混乱し、仲間を求めていたのかもしれん」
「じゃあ、私が…」
「ああ、お前が精霊を落ち着かせろ」
私は精霊に向かって、スライム時代の言葉で話しかけた。
「ぷるる…ぷるぷる」(大丈夫だよ、怖くないよ)
精霊は「ぷるっ!」と応え、徐々に落ち着いていった。その様子を見ていた部長は、深いため息をついた。
「これで一件落着か…」
しかし、その言葉とは裏腹に、部長の表情は暗かった。
「どうしたんですか?」
花子が尋ねると、部長は窓の外を見つめながら言った。
「厚着の魔力漏れは、偶然ではない。何者かが彼の魔力を刺激している」
「何者かって…」
「おそらく、モツ夫だ」
その名前を聞いた瞬間、精霊が再び震え始めた。私は慌てて「ぷるぷる」と落ち着かせる。
「モツ夫が…厚着さんを?」
「奴の目的はまだ分からん。だが警戒が必要だ」
部長はそう言うと、「この件は内密にしておけ」と付け加えた。
コピー機の修理を呼び、私たちは通常業務に戻った。幸い、私の体も徐々に人間の姿に戻りつつあった。
しかし、精霊は私から離れようとせず、小さなスライムの姿で私のデスクの上に居座っている。
「かわいいじゃないですか」
花子が昼食時に私の席に来て言った。「名前、つけました?」
「いえ、まだ…」
「コピー丸とか、どうですか?」
彼女の提案に、精霊が「ぷるっ!」と喜んで跳ねた。
「気に入ったみたいですね」
私が笑うと、花子は真剣な表情になった。
「粘田さん、モツ夫って一体何者なんでしょうか」
「分かりません…ただ、転生者であることは確かです」
世界融合の日、謎のメッセージを送ってきた存在。その正体は未だ謎に包まれている。
「何か企んでるんでしょうか」
「おそらく…」
会話が途切れた時、スマホが震えた。画面を見ると、見知らぬ番号からのメッセージだった。
『準備はいいか、元スライム』
私の体が再び青く透明になりかけた。花子も画面を覗き込み、息を呑む。
「モツ夫…?」
私はゆっくりと頷いた。コピー丸も不安げに震えている。
窓の外では、雲が急速に集まり始め、不自然な暗さが街を覆い始めていた。
何かが、始まろうとしている—。