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コピー戦の序章

年末の空気が社内に染み渡り始めた十二月初旬。窓の外では、街を彩るイルミネーションが昼間から準備され、年の瀬の忙しさを予感させていた。


「皆さん、年末の大商談が迫っています」


間苧谷部長の声が会議室に響き渡る。彼の目は人間のものだが、その奥に魔王時代の赤い光が時折チラつくのを私だけが気づいていた。


「調和商事として初めての年末商戦です。異世界企業との合同プレゼンを成功させなければなりません」


部長の言葉に、社員たちがざわめいた。世界融合から一ヶ月。まだ慣れない状況に戸惑いながらも、ビジネスは止まらない。


「粘田くん」


突然の呼びかけに、私は思わず床に張り付きそうになった。スライム時代の癖だ。


「はい!」


「君と勇田さんで資料のコピーを頼む。膨大な量だが、今日中に終わらせてくれ」


「え?今日中に?」


「滅びよ人間…じゃなかった、頑張れよ社会人!」


部長は不敵な笑みを浮かべると、会議室を後にした。その背中からは、魔王時代の威圧感が漂っていた。


「粘田さん、一緒に頑張りましょう!」


隣で花子が明るく言った。元勇者の彼女は、現代の機械と格闘する日々を送っていた。特にコピー機は彼女の宿敵だ。


「花子さん、コピー機大丈夫ですか?」


「もちろん!今日こそ勝利します!」


彼女の目に決意の炎が宿る。まるで魔王に立ち向かう時のような輝きだった。


***


社内のコピールームは、古びた複合機が一台あるだけの狭い空間だ。壁には「紙詰まりの際は無理に引っ張らないこと」という注意書きが貼られている。


「それで、どれくらいの量なんですか?」


私が尋ねると、花子は大きなファイルを取り出した。


「これ全部です」


「え?」


開かれたファイルには、分厚い契約書や図面、企画書が詰まっていた。ざっと見ても数百ページ。しかも各30部ずつ必要だという。


「無理じゃないですか…」


「大丈夫!私、勇者でしたから!」


花子は意気揚々とコピー機に向かった。しかし、彼女がボタンを押した瞬間、機械が不気味な音を立てる。


「あれ?」


「また紙詰まりですか?」


「違います!今回は違う敵です!」


花子が必死にボタンを連打する様子は、かつて魔法を連発していた姿と重なった。しかし、コピー機は彼女の熱意に応えず、エラーコードを表示するだけだ。


「トナー切れか…」


私がため息をつくと、花子は突然明るい表情になった。


「粘田さん!あなたなら解決できるかも!」


「え?私が?」


「そう!あなたはスライムだったでしょ?」


彼女の言葉に、私は首を傾げた。確かに前世はスライムだったが、それがどう関係するのか。


「スライムって、どんな場所にも入り込めるじゃないですか。コピー機の中に入って、トナーを均等に広げられるかも!」


「いや、さすがにそれは…」


「お願いします!このままだと間苧谷さんが魔王モードになっちゃいます!」


花子の切実な表情に、私は弱かった。


「わかりました…やってみます」


私は深呼吸し、転生前の感覚を思い出す。体がぬるりと柔らかくなり、指先から透明な青みがかった色に変わっていく。


「すごい!本当にスライム化してる!」


花子が驚きの声を上げる中、私はコピー機のわずかな隙間から中へと滑り込んだ。内部は暗く、トナーの粉が充満していた。


「うぅ…くしゃみが…」


思わず「ぷるっ!」と声が出た瞬間、体が膨張して機械の内部を押し広げてしまう。


「わっ!」


外から花子の悲鳴が聞こえた。コピー機が振動し、カバーが勢いよく開いて、私はトナーまみれで飛び出した。


「粘田さん!大丈夫ですか?」


花子が駆け寄ってくる。私の体は半分スライム化したまま、黒いトナーで覆われていた。


「なんとか…」


その時、ドアが開き、小振田が顔を覗かせた。


「どうしたんですか?騒がしいと思って…あれ?」


彼は私の姿を見て目を丸くした。元ゴブリンの彼は、コンビニ店員として働きながら、転生者管理機構の仕事もしていた。


「粘田さん、また変身してますね」


「いや、これは…」


説明しようとした瞬間、私の体から黒いトナーが滴り落ち、床に「ぬるり」と広がった。


「うわっ、床が…」


「大丈夫です」小振田が笑った。「魔力を含んだトナーなら、私が処理できます」


彼は小さく呪文を唱えると、床のトナーが光を放ち、きれいに消えた。


「魔力を含んだトナー?」


「ええ。この会社のコピー機、実は異世界製なんですよ」


小振田の説明によると、世界融合の際、オフィス機器も一部が異世界のものと入れ替わったらしい。このコピー機は「複写の精霊」が宿る特殊な機械だという。


「だから勇田さんが苦戦するんです。彼女の勇者の力が、精霊を怯えさせてしまうんですよ」


「なるほど…」


花子は複雑な表情で、コピー機を見つめていた。


「じゃあ、どうすれば…」


「簡単です」小振田は微笑んだ。「コピーの前に、精霊に挨拶するだけでいいんです」


彼はコピー機に向かって丁寧に一礼し、「今日もよろしくお願いします」と言った。すると、機械が優しく光を放ち、スムーズに動き始めた。


「すごい…」


花子は感動した様子で、彼の真似をした。コピー機は喜んでいるかのように、次々と美しいコピーを排出し始めた。


「これで大丈夫ですよ」


小振田は満足げに頷くと、「では私はコンビニに戻ります」と言って去っていった。


***


コピー作業は予想外にスムーズに進み、夕方には終わりが見えてきた。


「粘田さん、ありがとう」


花子が笑顔で言った。「あなたのおかげで助かりました」


「いえ、小振田さんのおかげです」


「でも、あなたがスライム化してくれなかったら、精霊の存在も分からなかったかも」


彼女の言葉に、私は照れくさく笑った。トナーはきれいに落ちたが、体の一部がまだぬるぬるしていた。


「そういえば、間苧谷さんは何のためにこんなに資料を用意させてるんでしょう?」


「さあ…」


私たちが話している間にも、コピー機は次々と紙を吐き出していた。その時、最後の一枚が出てきた瞬間、機械が突然赤く光った。


「え?」


コピーされた紙には、普通の企画書ではなく、奇妙な魔法陣のような図形が印刷されていた。


「これは…」


花子が紙を手に取った瞬間、魔法陣が光を放ち、文字が浮かび上がる。


「警告:闇の転生者、接近中」


私たちは顔を見合わせた。モツ夫…。世界融合の日に現れた謎の存在だ。


「急いで間苧谷さんに報告しないと」


花子が言った時、社内の電気が一斉に消え、非常灯だけが赤く点灯した。


「何が…」


廊下から、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。重く、不気味な足音。それは徐々に近づいてきて、コピールームのドアの前で止まった。


ドアノブが、ゆっくりと回り始める…。


「粘田さん…」


花子の声が震えていた。私は無意識に体を壁に張り付かせ、ドアを見つめていた。


開いたドアの向こうには…間苧谷部長が立っていた。


「おい、何してる?まだ終わってないのか?」


普通の声で彼が言うと、同時に電気が戻った。


「あ、いえ、もう終わりました」


花子が慌てて答える。部長は満足げに頷くと、「よし、明日の朝一で会議室に並べておけ」と言って立ち去ろうとした。


「あの、部長」


私が呼び止めると、彼は振り返った。


「この最後のページ…」


魔法陣の印刷された紙を見せると、部長の表情が一瞬だけ硬くなった。


「それは…見なかったことにしろ」


彼は低い声で言うと、紙を手に取った。「この会社には、まだ知らないことがたくさんある。その時が来たら教えよう」


部長は去り際に、「明日からが本番だ。心して準備しろ」と告げた。その背中には、かつての魔王の威厳が漂っていた。


***


帰り道、私と花子は無言で歩いていた。冬の夜空には星が瞬き、異世界から来た小さな光の精霊たちが街灯のように道を照らしていた。


「粘田さん、なんだか大変なことが始まりそうですね」


「そうですね…」


私はスマホを取り出し、先日モツ夫から来たメッセージを確認した。まだ返信はない。


「でも大丈夫」花子が笑顔で言った。「私たち、異世界でも現代でも生き抜いてきたんですから」


彼女の言葉に、私も勇気づけられた。確かに、底辺スライムだった私が人間に転生し、世界融合まで経験した。これからどんなことが起きても、なんとかなるはずだ。


「そうですね。明日も頑張りましょう」


夜空に浮かぶ月を見上げると、一瞬だけ黒い影が横切ったような気がした。しかし、それが何なのかを考える前に、私の体は再びぬるりと変化し始めていた。


「あ、また始まった…」


花子は笑いながら、「スライムの性質、まだ抜けないんですね」と言った。


「はい…特に緊張すると…」


そう言いながら、私は自分の手が透明な青色に変わっていくのを見つめていた。明日からの「コピー戦」と呼ばれる年末商戦。そして、闇の転生者の存在。


全てが謎に包まれたまま、私たちの新しい日常は続いていく。

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