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夜のコンビニで重なる影

残業時間が深夜に差し掛かった頃、ようやくデスクから解放された。


「お疲れ様でした」


帰り支度をしていると、勇田花子が声をかけてきた。彼女は元勇者だというのに、コピー機の紙詰まりすら解決できないという不思議な女性だ。


「粘田さん、今日も遅くまでお仕事ですね」


「ああ…エレメンタル・コラボの件で資料作りが終わらなくて」


「大変ですね。私なら魔法で一瞬で終わらせるのに…あ、ここでは使えないんでしたね」


彼女は少し寂しそうに笑った。勇者の力が通用しない現代社会。彼女にとっては、これが一番の試練なのかもしれない。


「じゃあ、お先に失礼します」


花子が去った後、オフィスには私一人だけが残された。パソコンの電源を落とし、疲れた体を引きずるようにして会社を後にした。


新橋の夜空は、いつもより星が多く見える気がした。異世界の夜空を思い出す。スライムだった頃の記憶が、時々鮮明に蘇る。


「腹減ったな…」


コンビニに向かって歩き始めると、不思議な感覚に襲われた。路地の影が少し濃く、街灯の光が少し妖しく見える。まるで異世界と現実が重なっているような錯覚。


「気のせいだ」


そう自分に言い聞かせながら、24時間営業のコンビニに入った。店内は蛍光灯の明るい光に包まれていたが、どこか違和感がある。


「いらっしゃいませー!」


元気な声で迎えてくれたのは、小振田緑朗だった。彼は元ゴブリンだが、コンビニ店員としての適性が異常に高い。


「おう、小振田。今日も夜勤か」


「はい!粘田さんも遅いですね。おにぎりとサンドイッチ、新商品入りましたよ」


彼の接客は完璧だ。異世界のゴブリンが、なぜこれほど現代日本のコンビニに馴染めるのか不思議でならない。


おにぎりとカップラーメンを手に取り、レジに向かおうとした時だった。


「やぁ、粘田くん」


突然、背後から声がかかった。振り向くと、財務課の煮込み田モツ夫が立っていた。彼は会社では殆ど話したことのない人物だ。


「煮込み田さん…こんな時間に」


「偶然だね。深夜のコンビニって、不思議な出会いがあるものさ」


彼は妙に意味深な笑みを浮かべていた。手には缶ビールとつまみ。残業後の一杯だろうか。


「そういえば、最近オフィスで変なこと感じない?」


煮込み田の質問に、私は少し戸惑った。


「変なこと?」


「ああ、例えば…会議室の裂け目とか」


その言葉に、思わず手に持っていたおにぎりを落としそうになった。会議室の裂け目のことは、関係者以外には秘密のはずだ。


「どうして煮込み田さんが…」


「私も"こっち側"の人間じゃないからね」彼は声を潜めた。「元は水精霊だったんだ。だから感じるんだよ、異世界の気配を」


レジカウンターでは小振田が接客に忙しく、私たちの会話には気づいていない様子。


「実は、あの裂け目…広がってるんだ」煮込み田は真剣な表情で続けた。「今朝、コピー室にも小さな裂け目ができていた。誰も気づいてないみたいだけど」


「コピー室にも?」


「ああ。そして面白いことに、勇田さんがコピー機を使おうとすると必ず故障するだろ?」


確かに勇田花子とコピー機の相性は最悪だ。彼女が近づくだけで紙詰まりを起こすことで有名だった。


「あれは偶然じゃない。彼女の勇者としての力が、無意識に裂け目に反応しているんだ」


煮込み田の話を聞きながら、私は不安を感じ始めた。スライムだった頃の本能が、何か危険な予感を察知している。


「そして間苧谷部長…彼が本当の魔王だってこと、知ってる?」


「え?」


「彼の部屋のドアには『滅びよ人間』って小さく刻まれてるんだ。誰も気づかないように魔力で隠してるけどね」


小振田がレジから顔を上げ、私たちの方を見た。彼の表情が一瞬だけ硬くなったように見えた。


「あ、もうレジ空いたみたいだね」煮込み田は自然に話題を変えた。「また会社で話そう。ちなみに、明日の財務会議は来ない方がいいよ」


「どうして?」


「予感さ」彼はウインクした。「水精霊の勘ってやつさ」


煮込み田は先にレジに向かい、会計を済ませると不思議な微笑みを残して店を出ていった。


「粘田さん、どうぞ」


小振田の声で我に返り、レジに向かった。


「さっきの人、会社の方ですか?」


「ああ、財務課の…」


「気をつけた方がいいですよ」小振田は商品をスキャンしながら、小声で言った。「彼、本当の姿は見たことありますか?」


「いや、ないけど…水精霊だって言ってたけど」


「水精霊?」小振田は眉をひそめた。「彼はゴブリン族では『影喰らい』と呼ばれる存在です。他者の影に紛れ込み、情報を盗む特殊な能力を持っています」


「え?じゃあ…」


「さあ、396円です」


突然、普通の接客トーンに戻った小振田。店内に別の客が入ってきたからだ。


「気をつけてください」レシートを渡しながら、彼は付け加えた。「会社の裂け目、確かに広がっています。そして…あなたのデスクの下にも、小さな裂け目ができ始めていますよ」


「俺のデスクに?」


「はい。スライムだった頃の能力が、無意識に働いているのかもしれません」


コンビニを出ると、夜風が冷たく頬を撫でた。見上げた空には、さらに多くの星が瞬いている。まるで異世界の夜空のように。


デスクの下に裂け目。会議室の裂け目の拡大。そして正体不明の煮込み田モツ夫。


「調和のスライム」


小振田の言葉が頭をよぎる。底辺モンスターだと思っていた自分に、特別な力があるというのは今でも信じられない。でも、もし本当なら…


スマホの画面を見ると、明日の予定表に「10:00 財務会議」と表示されている。煮込み田の警告が気になるが、部長から直々に指名された会議だ。欠席するわけにはいかない。


アパートに向かいながら、ふと立ち止まった。足元の影が、わずかに揺れている気がする。気のせいだろうか。


それとも、誰かが私の影に紛れ込んでいるのだろうか。

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