契約延命と裂け目の予兆
会議室の空気が凍りついた。
「エレメンタル・コラボの契約書、この箇所が問題です」
騙川部長代理の指先は震えていた。彼の顔は青ざめ、額には大粒の汗が浮かんでいる。
「この条項によれば、我々は契約不履行の場合、社員全員が異世界送りになるということですが…」
会議テーブルの向こう側、火野の表情が一瞬だけ歪んだ。
「それは単なる法的表現です。実際には…」
「法的表現じゃない!」
騙川が書類を叩きつけた。その瞬間、会議室の裂け目から紫色の光が漏れ始めた。
「昨日、経理部の山下さんが突然消えたんです!デスクに『契約違反』というメモだけ残して!」
火野は口を押さえた。「それは…想定外の事態です。システムの誤作動かもしれません」
間苧谷部長が低い声で唸った。彼の額に小さな角の影が浮かび上がる。
「誤作動?人間が消えるような誤作動があるか!」
部長の怒りに呼応するように、会議室の裂け目がさらに広がった。異世界の風が吹き込み、書類が宙を舞う。
「落ち着いてください、部長」
勇田花子が部長の肩に手を置いた。彼女の手から微かに聖なる光が漏れ、部長の角がわずかに小さくなる。
「話し合いで解決できるはずです」
その時、会議室のドアが勢いよく開いた。
「すみません、遅れました!」
小振田緑朗が息を切らせながら入ってきた。コンビニの制服姿のまま、手にはコーヒーの入った紙袋を持っている。
「今日のおすすめのブレンドコーヒーです。無料サンプルなので、皆さんどうぞ」
場違いな明るさに、会議室の空気が一瞬だけ和らいだ。
小振田は紙袋からコーヒーを取り出しながら、さりげなく火野に近づいた。
「火野さん、お久しぶりです」
火野は目を見開いた。「あなたは…」
「ゴブリン族第三支族の次席、現・セブンイレブン新橋店のロクです」小振田は笑顔で言った。「異世界でお世話になりました」
火野は言葉を失った。小振田は彼にコーヒーを差し出し、耳元でささやいた。
「システムエラーの修正コードは『ゴブリンの知恵』です。山下さんを戻せますよ」
火野は慌ててスマホを取り出し、何かを入力した。
「あの、皆さん」火野は顔を上げた。「山下さんの件は誤解でした。今、本社に確認したところ、彼は研修のために一時的に異動していただけです。明日には戻ります」
騙川の表情が和らいだ。「本当ですか?」
「ええ、書面でも保証します」
小振田は私の方を見て、ウインクした。
「粘田さん、コーヒーどうぞ」
私はコーヒーを受け取りながら、小さな声で尋ねた。「どうやって?」
「コンビニ店員は情報の交差点なんです」小振田は笑った。「異世界の連中も、現代のコーヒーとおにぎりには目がないんですよ」
会議は驚くほどスムーズに進み始めた。火野は態度を一変させ、契約条件を大幅に緩和。社員の異世界送りの条項も削除された。
「これで合意できますか?」火野は新しい契約書を差し出した。
間苧谷部長はまだ半信半疑だったが、騙川と相談した後、条件付きで承諾した。
「一ヶ月の試用期間を設けること。その間に問題があれば、即時解約できるものとする」
「了解しました」
契約書にサインが交わされた瞬間、会議室の裂け目が一瞬だけ輝き、そして元の大きさに戻った。
火野たちが退室した後、間苧谷部長が小振田に尋ねた。
「お前、何者だ?単なるコンビニ店員ではないだろう」
小振田は肩をすくめた。「言った通り、ゴブリンです。異世界と現世の狭間で生きる者たちの…まあ、調整役みたいなものです」
「なぜうちの会社に?」
「粘田さんを追ってきたら、偶然この辺りのコンビニで働くことになって」小振田は私を見た。「彼は特別なスライムでしたから」
私は居心地悪そうに床を見つめた。「特別って…底辺モンスターだっただけだけど」
「底辺?」小振田は笑った。「あなたは『調和のスライム』だったんですよ。異なる魔力を融合させる稀有な存在です」
部長が眉を上げた。「調和のスライム?そんな伝説は…」
「知らないでしょう」小振田は真剣な表情になった。「魔王様でさえ、その存在を恐れていましたから」
部長は思わず後ずさりした。
「とにかく」小振田は話題を変えた。「今回の契約で会社は一息つけますね。でも…」
彼は会議室の裂け目を見つめた。裂け目の周りには、薄い虹色の光が漂い始めていた。
「これは…」
「何ですか?」私は不安になって尋ねた。
「異世界との接点が増えています」小振田は心配そうに言った。「この裂け目、前より大きくなっていませんか?」
確かに、裂け目は以前より広がっているように見えた。
「火野たちの会社は、この裂け目を利用して異世界とつながろうとしている」部長が低い声で言った。「だが、彼らは制御できていない」
「制御できないものに手を出すと」小振田は真剣な表情で続けた。「両方の世界が危険にさらされます」
会議室の空気が再び緊張に満ちた。
「でも、契約はもう…」騙川が不安そうに言った。
部長は深いため息をついた。「一ヶ月の猶予がある。その間に状況を見極めよう」
裂け目から微かに紫色の光が漏れ、壁に不思議な影を作り出していた。
「粘田」部長が私を見た。「お前は『調和のスライム』だ。この状況を打開できるのは、お前しかいないかもしれん」
私は言葉に詰まった。底辺モンスターだと思っていた自分に、そんな役割が果たせるのだろうか。
「大丈夫」小振田が私の肩を叩いた。「僕も手伝います。それに…」
彼はニヤリと笑った。
「コンビニのおにぎりとコーヒーは、どんな異世界の危機も乗り越える力があるんですよ」
会議室に小さな笑いが広がった。しかし、裂け目の周りの虹色の光は、確実に強くなっていた。
次なる危機は、もう目の前に迫っていた。