朝の奇妙な出会い
壁に張り付いたまま居眠りするというのは、一般的な会社員のあるあるではない。だが、粘田透にとっては日常茶飯事だった。
「粘田さん…粘田さん!」
声が聞こえる。だが、意識は朦朧としていた。
「もう、また壁に張り付いてる…」
女性の声。おそらく勇田花子だろう。
「おい、透!いい加減にしろ!」
男性の声。間違いなく間苧谷部長だ。
私はゆっくりと目を開けた。視界には会社のオフィスが広がっている。そして、自分の体が壁にぴったりとくっついていることに気づいた。
「あ…すみません」
慌てて体を引き剥がそうとするが、なかなかうまくいかない。スライム時代の習性は、人間になっても抜けないものだ。
「まったく…」
間苧谷部長が呆れた表情で腕を組んでいる。その目には、かすかに赤い光が宿っていた。
「昨日の視察疲れてたんですね」
花子が優しく微笑みながら、私の背中を引っ張ってくれる。おかげで、ようやく壁から離れることができた。
「ありがとう…」
私は恥ずかしそうに頭を下げた。スーツの背中には、壁の模様がくっきりと付いている。
「今日は大事な日だぞ」
部長が厳しい口調で言った。「大口顧客が来るんだ。変なことするなよ」
「はい…」
私はポケットに入れていた名刺を思い出した。斜面巻人の名刺。裏には「魔界復活計画」と書かれていた。部長に見せるべきか迷ったが、もし部長自身が関わっているとしたら…。
「粘田さん、コーヒーどうぞ」
小振田が笑顔でカップを差し出してくれた。彼は今日も元気そうだ。元ゴブリンとは思えないほど、人間社会に馴染んでいる。
「ありがとう」
コーヒーを一口飲むと、体が少し引き締まる感覚があった。
「あの、部長」
勇気を出して尋ねてみる。「今日来る大口顧客って、どんな方なんですか?」
間苧谷部長は不思議そうな顔をした。
「知らないのか?馬鹿田爆郎だ。業界では有名な大物だぞ」
馬鹿田爆郎。聞いたことのない名前だ。
「どんな…」
質問を続けようとした瞬間、エレベーターのチャイムが鳴った。
「おっ、来たようだな」
部長が立ち上がり、エレベーターホールに向かう。私たちも慌ててそれに続いた。
エレベーターのドアが開くと、そこには巨漢の男性が立っていた。赤いスーツを着て、金色の時計をキラキラと輝かせている。
「や~っす!馬鹿田でーす!」
驚くほど大きな声だった。オフィス全体に響き渡る。
「ようこそ、馬鹿田社長」
間苧谷部長が丁寧に頭を下げる。普段の高圧的な態度はどこへやら。
「ホホホ!間苧谷くん、元気そうじゃないか!」
馬鹿田爆郎は豪快に笑いながら、部長の肩を叩いた。その衝撃で、部長の頭から一瞬、魔王の角が現れかけた。
「あ…」
私は思わず声を上げそうになったが、花子が素早く私の口を押さえた。
「しっ!」
花子の目が真剣だ。彼女も気づいているようだ。この馬鹿田爆郎という人物、ただ者ではない。
「さて、今日は例の件で来たんだがね…」
馬鹿田は周囲を見回し、声を少し落とした。「話せる場所はあるかね?」
「もちろんです。会議室をご用意しております」
部長が応対し、馬鹿田を会議室へと案内する。その背中を見送りながら、小振田が小声で言った。
「あの人…ドラゴンの気配がします」
「え?」
私は驚いて小振田を見た。
「間違いありません。私、ゴブリンだった頃にドラゴンに襲われたことがあるんです。あの独特の威圧感は忘れられません」
花子も頷いた。「私も感じました。勇者だった頃の感覚が蘇る…」
「まさか…」
私たちが話している間に、会議室のドアが閉まった。中では部長と馬鹿田爆郎だけの会話が始まっているはずだ。
「どうしよう…」
迷っていると、小振田が決然とした表情で言った。
「聞き耳のスキル、まだ使えますよ」
そう言って、彼は耳を会議室のドアに近づけた。その耳は、一瞬だけゴブリンの尖った形に変化した。
「何か聞こえますか?」
花子が緊張した面持ちで尋ねる。
小振田の表情が徐々に変わっていく。最初は集中、次に驚き、そして恐怖。
「ど、どうしたの?」
花子が心配そうに聞いた。
「大変です…」
小振田が震える声で言った。「あの馬鹿田という人、本当にドラゴンです。そして…魔界復活計画について話しています」
「やっぱり…」
私はポケットの名刺を握りしめた。斜面巻人と馬鹿田爆郎、そして間苧谷部長。彼らは皆、魔界復活計画に関わっているのか。
「もっと詳しく聞こえますか?」
私が尋ねると、小振田は再び耳をドアに当てた。
「3月15日…新製品発表会…次元の扉…」
断片的な言葉が聞こえてくる。
「次元の扉!?」
花子が驚いて声を上げそうになったが、私たちは慌てて彼女の口を押さえた。
その瞬間、会議室のドアが開いた。
「何をしている?」
間苧谷部長の厳しい声。その背後には、にこやかに笑う馬鹿田爆郎の姿があった。
「あ、いえ…」
言い訳を考えていると、馬鹿田が大声で笑った。
「ホホホ!熱心な社員たちじゃないか!気に入ったよ!」
彼は私たちを見回し、特に私に目を止めた。
「君、面白い匂いがするね」
「え?」
「スライムのような…懐かしい香りだ」
私の背筋に冷たいものが走った。彼は知っている。私の正体を。
「馬鹿田社長、こちらは粘田透、我が社の新人です」
部長が紹介した。
「へぇ~、粘田くんか」
馬鹿田は私の肩を叩いた。その手は、人間離れした熱さを持っていた。
「これからよろしくな!3月15日の発表会、楽しみにしているよ!」
そう言って、彼は豪快に笑いながらエレベーターへと向かっていった。
部長は彼を見送った後、私たちに向き直った。
「何を聞いていた?」
厳しい声だ。部長の目が、再び赤く光る。
「い、いえ…何も…」
「嘘をつくな」
部長の声が低く変わった。まるで魔王時代の声のようだ。
「部長、魔界復活計画って何ですか?」
勇気を出して尋ねた。部長の表情が一瞬凍りついた。
「お前…どこでその言葉を」
「これです」
斜面巻人の名刺を見せた。部長はそれを見て、深いため息をついた。
「話すべきときが来たようだな…」
部長はオフィスを見回し、決意を固めたように言った。
「今日の業務は中止だ。全員、会議室に集まれ」
私たちは不安と緊張で体が硬くなりながらも、言われた通りに会議室へ向かった。
部長が最後に入り、ドアをしっかりと閉めた。そして、彼の額から、ゆっくりと魔王の角が現れ始めた。
「話そう。魔界復活計画について…そして、なぜお前たちのような異世界からの転生者が、この会社に集まっているのかを」
窓の外では、雲が太陽を覆い始めていた。オフィスに不気味な影が落ち、私たちの運命が大きく変わろうとしている予感があった。