魔界復活の兆し
会場内は不思議な熱気に包まれていた。説明会が終わり、学生たちが次々と退出していくが、彼らの顔には「なんだこの会社…」という戸惑いと「でも何か凄い」という奇妙な感動が混ざり合っていた。
「思ったより上手くいったな」
間苧谷部長が満足げに腕を組む。先ほどまで魔王の角が生えていた頭部は、今では普通のサラリーマンの姿に戻っている。それでも彼の周りには、かすかに紫色のオーラが漂っていた。
「上手くいったって…」
私、粘田透は床から完全に体を引き剥がすのに苦労しながら言った。
「部長が魔王化して、花子さんが結界張って、小振田さんがスパイを撃退して…普通の説明会とは思えないんですけど」
「細かいことは気にするな。結果オーライだ」
部長は豪快に笑う。その笑い声には、かつての魔界を支配した威厳が滲んでいた。
「でも本当に大丈夫なんでしょうか…」
花子が心配そうに言った。「学生たちはVR演出だと思ってくれましたけど、SNSに写真や動画がアップされたら…」
「問題ない」
小振田が自信満々に言った。「私、学生たちのスマホに特殊なアプリをインストールしておきました。写真を撮っても全部普通の説明会に見えるようになっています」
「えっ、いつの間に!?」
「受付で資料を渡すときです。コンビニ店員の技術は侮れませんよ」
小振田の顔に、ほんの一瞬だけゴブリンの面影が浮かんだ気がした。
「さすがだな、小振田」
部長は満足げに頷いた。「これで我が軍団…いや、我が部署の秘密は守られた」
会場の片付けを始めながら、私たちは今日の出来事を振り返った。混乱の中でも何とか乗り切れたのは、皆の連携があったからこそだ。
「透くん、これ落ちてたよ」
花子が一枚の名刺を拾って私に渡してくれた。見ると、それは斜面商事の斜面巻人の名刺だった。
「ありがとう」
何気なく名刺を裏返すと、そこには小さな文字で何かが書かれていた。
「魔界復活計画進行中 3/15会合」
私は思わず息を飲んだ。
「どうしたの?」
花子が不思議そうに尋ねる。
「あ、いえ…なんでもないです」
咄嗟に名刺をポケットに滑り込ませた。部長に見せるべきか迷ったが、もし部長自身が関わっているとしたら…。
「よし、今日の飲み会はキャンセルだ。明日の本社視察に備えよう」
部長が宣言した。「全員、気を引き締めろ。特に透、お前はスライム化を絶対に起こすな」
「はい…気をつけます」
言いながらも、私の右腕が徐々に透明になっていくのを感じた。慌てて袖で隠す。
「じゃあ、今日はこれで解散!明日は朝9時に全員集合だ」
部長の指示で、皆それぞれ荷物をまとめ始めた。
会場を出る頃には、すっかり日が暮れていた。新橋の街は、サラリーマンたちの喧騒で賑わっている。彼らは皆、普通の人間だ。少なくとも、表面上は。
「透くん、大丈夫?なんだか元気ないね」
花子が心配そうに声をかけてきた。
「ああ、ちょっと考え事をしてて…」
「明日の視察のこと?心配しなくても大丈夫だよ。私たち、ちゃんとやってるんだから」
花子の笑顔は、かつて魔王に立ち向かった勇者の強さを感じさせた。
「うん…ありがとう」
別れ際、私はポケットの名刺の存在を再確認した。魔界復活計画…それが何を意味するのか、考えるだけで背筋が寒くなる。
駅に向かう道すがら、ふと立ち止まった私の目に、街の電光掲示板が飛び込んできた。そこには大きく「3月15日 新製品発表会」という文字。その主催は、私たちの会社だった。
「まさか…」
3月15日。斜面巻人の名刺に書かれていた日付と一致する。これは偶然なのか、それとも…。
帰宅途中のコンビニに立ち寄ると、小振田が笑顔で接客していた。彼を見て少し安心する。元ゴブリンとはいえ、彼の存在は妙に心強い。
「お疲れ様です、粘田さん。何かお探しですか?」
「あ、いや…缶コーヒーを」
レジで会計を済ませながら、小さな声で尋ねた。
「小振田さん、魔界のことって…覚えてる?」
小振田の笑顔が一瞬固まった。
「もちろんです。あそこは地獄でしたよ。だからこそ、この世界での平和な生活が尊いんです」
彼の言葉に、少し安心した。
「そうだよね…」
「何かあったんですか?」
「いや…なんでもない」
コンビニを出て、再び夜の街へ。頭上には満月が輝いていた。異世界では、満月の夜は魔物が力を増す時間だ。今の私には関係ないはずなのに、なぜか体が熱く感じる。
アパートに戻り、部屋のドアを開けると、いつもの狭い空間が待っていた。壁に張り付いていた自分の体の一部が、まだ乾いていない。スライムの習性は、人間になってもなかなか抜けない。
机に座り、斜面巻人の名刺を改めて見つめる。裏面には確かに「魔界復活計画」と書かれている。そして「3/15会合」。
会社の新製品発表会と同じ日。しかも、間苧谷部長はかつての魔王。これは単なる偶然ではないはずだ。
「部長は…何を企んでいるんだろう」
窓の外を見ると、月明かりに照らされた東京の夜景が広がっていた。かつて私がスライムとして生きていた異世界とは、あまりにも違う光景。でも、もしかしたら、その二つの世界が再び交わろうとしているのかもしれない。
「明日、何か分かるかな…」
そう呟きながら、私は明日の視察に備えてベッドに横になった。体の一部が再びスライム化し、枕に張り付く。
「もう…いい加減慣れないと」
自分の体を引き剥がしながら、私は考えた。この世界で普通のサラリーマンとして生きていくのか、それとも異世界の存在として何かをするべきなのか。
魔界復活計画。その言葉が、頭から離れない。
月明かりが窓から差し込み、私の半透明になった手に反射して、幻想的な光を放っていた。明日は、きっと何かが変わる日になる。そんな予感とともに、私はゆっくりと目を閉じた。
枕に張り付いた頭を無理やり引き剥がす夢を見ながら。