新たな決起
アラームが鳴る五秒前、粘田透の意識は既に目覚めていた。スライム時代の習性だろうか、危険を察知する能力だけは異世界から持ち帰ったようだ。
「はぁ…今日も会社か」
ベッドから起き上がると、手がシーツにぴたりと張り付いた。
「また始まった…」
力を込めて引き剥がすと、シーツが伸びてゴムのようになる。昨日の異常現象からか、スライム性質が強く出ている。
粘田はため息をつきながら身支度を整え、いつものコンビニに向かった。昨日の「迷霧の使者」との出来事が頭から離れない。
「おはようございま…」
コンビニに入るなり、言葉が途切れた。液道がいた場所に、見たこともない機械が設置されていたのだ。銀色の筐体に青く光るディスプレイ、そして何かを吐き出すようなノズルがついている。
「これは…」
機械の前には大きなポスターが貼られていた。
『新発売!スマート・ハイドレーション・システム
〜来たる決起の日に備えよ〜』
文字は一般的な広告文だが、その隅に描かれた小さな紋章が粘田の目を引いた。六角形の中に水滴のような模様。見覚えがあるような…ないような…
「お客様、ご利用になりますか?」
店員の声に我に返る。よく見ると、その店員は見知らぬ顔だった。
「あの、液道さんはどうしたんですか?」
「液道…?」店員は首を傾げた。「そういう名前の方は勤務していませんよ」
「でも昨日まで…」
「私、昨日も朝から夕方まで一人で店番してましたけど」
粘田は混乱した。昨日確かに液道と会話したはずだ。
「すみません、気のせいだったみたいです」
「どうぞごゆっくり」
店員が去った後、粘田は再び機械を観察した。ポスターの紋章をじっと見ていると、どこかで見た記憶が蘇ってきた。
「これって…」
間苧谷部長の机の引き出しから一度だけ見えた書類の隅に、同じ紋章があったような気がする。
粘田はスマホを取り出し、こっそりポスターを撮影した。そして機械には触れず、いつものおにぎりだけを買って店を後にした。
通勤電車の中、粘田は撮影した写真を拡大して見ていた。紋章の下に極小さな文字で何か書かれている。
「人類…解放…同盟?」
その時、肩が誰かにぶつかった。
「すみません」
振り向くと、そこには小振田緑朗が立っていた。
「おはよう、粘田さん」
「小振田さん!どうしてここに?」
「ボクもこの電車で通勤してるんだよ」小振田は笑顔で答えた。「コンビニ、今日から夕方シフトになったんだ」
「そうなんだ…」
小振田のスマホ画面に目をやると、同じ紋章の画像が表示されていた。粘田が気づいたことに気づき、小振田は慌ててスマホをしまった。
「あの、小振田さん…その紋章って」
「なんのことだい?」小振田の表情が一瞬こわばった。
「人類解放同盟…って」
小振田は周囲を見回すと、粘田に近づいて小声で言った。
「電車では話せないよ。オフィスに着いてから」
それ以上の会話はなかった。二人は沈黙のまま会社に向かった。
オフィスに着くと、いつもの光景が広がっていた。勇田花子はコピー機と格闘し、他の社員たちはそれぞれの業務に取り組んでいる。しかし、何かが違う。空気が重く、張り詰めているような感覚。
粘田が自分のデスクに向かおうとした時、小振田が袖を引いた。
「給湯室で」
二人は人目を避けるように給湯室に入った。小振田は水を入れたマグカップを粘田に差し出した。
「飲んでみて」
「え?これ何か入ってるの?」
「いいから」
恐る恐るマグカップの水を一口飲むと、粘田の喉に不思議な感覚が広がった。体の中で何かが共鳴するような…
「わかるだろう?」小振田が真剣な表情で尋ねた。「あなたの中の水が反応してる」
「どういうこと?」
「人類解放同盟は、異世界と人間界の境界を完全に開こうとしてる」小振田は小声で説明した。「そのために、水の力を持つ存在を利用しようとしてる」
「アクアリウスみたいな?」
「彼もその一人だ。でも彼は反対派だった」
「反対派?」
「同盟の中にも二つの派閥があるんだ」小振田は続けた。「境界を開いて二つの世界を一つにしようとする過激派と、交流は認めるけど世界は分けておくべきだという穏健派」
「それで、アクアリウスは?」
「穏健派。だから過激派に追われていた」
粘田は思い出した。アクアリウスが最後に残したメッセージ。『彼女を信じろ』
「花子さんのことか…」
「そう。勇田さんは元勇者だから、過激派も彼女を警戒してる」
「で、小振田さんはどっち?」
「僕は…」
その時、給湯室のドアが開いた。間苧谷部長が立っていた。
「何をこそこそ話している?」
小振田は一瞬で態度を変えた。
「あ、部長!朝のコーヒーを粘田さんに入れ方を教えてもらってました!」
「そうか」部長は怪訝な表情を浮かべたが、それ以上は追及しなかった。「粘田、今日は新規クライアントのプレゼン資料を作っておけ」
「はい」
部長が去ると、小振田は粘田に耳打ちした。
「気をつけて。部長は過激派の幹部だ」
「え?」
「でも今は弱っている。だから花子さんと協力して…」
小振田の言葉は途中で切れた。花子が給湯室に入ってきたのだ。
「あら、二人とも何してるの?」
「ただのおしゃべりですよ」小振田は自然に振る舞った。「じゃあ、僕はこれで」
小振田が去った後、花子は粘田に近づいた。
「何か聞いたの?」
「人類解放同盟のこと」
花子はハッとした表情になった。
「そう…」彼女は深く息を吐いた。「あの紋章を見たのね」
「コンビニに新しい機械が置かれてて…」
「それは『水の門』よ」花子の声は真剣だった。「世界の境界に穴を開けるための装置。まだ小型で力は弱いけど、これが増えていけば…」
「じゃあ、液道さんは?」
「多分、過激派に排除されたのね」花子は悲しそうに言った。「彼は穏健派だった」
「小振田さんも同じこと言ってた」
「彼に会ったの?」花子は驚いた様子だった。「彼は複雑な立場にいるわ。表向きは過激派に協力してるけど、本当は…」
オフィスから突然の物音が聞こえた。二人は慌てて給湯室を出た。
間苧谷部長が自分のデスクの前で立ち尽くしていた。デスク上の水差しが倒れ、水がドキュメントの上に広がっている。しかし、その水は普通の挙動をしていなかった。文字を形作っているのだ。
『決起の日、水は解き放たれる』
「誰だ!」部長の怒声が響いた。「誰がこんなことを!」
社員たちは困惑した表情で互いを見つめ合っている。部長の目が粘田に向けられた。
「お前か?」
「いえ、僕じゃ…」
「嘘を言うな!お前はスライムだった。水を操る力がある!」
部長が粘田に詰め寄ろうとした時、花子が間に入った。
「部長、冷静に。これは粘田くんじゃありません」
「ならば誰だ?」
「それは…」
花子の言葉が途切れた。オフィス全体の電気が明滅し始めたのだ。コンピューターの画面も狂ったように点滅している。
そして、すべての画面に同じ紋章が表示された。
「始まったか…」部長がつぶやいた。
粘田は混乱していた。この状況がどういう意味なのか、まだ完全には理解できていない。だが一つだけ確かなことがある。
「僕たちの日常は、もう戻ってこないんだな…」
部長は深いため息をついた。
「そうだ。もう後戻りはできん」
窓の外を見ると、空が不自然な色に染まり始めていた。世界の境界が薄れ、二つの世界が少しずつ重なり合っている証拠だ。
そして粘田の腕が、ほんの一瞬だけ透明なスライム状に変化した。
「来るべき日に向けて、準備するしかないな」
花子が粘田の肩に手を置いた。
「一緒に戦いましょう」
粘田は頷いた。かつてのスライム、ヌル山ぷる男としての記憶が鮮明に蘇ってくる。
異世界と人間界の狭間で、新たな戦いの幕が開こうとしていた。