魔石の夜
夕刻の社内、残業組がちらほらと残る中、資料室の蛍光灯だけが妙に明るく輝いていた。粘田透は、一日中気になっていた液道なめ郎を、ようやく一人きりで捕まえることができた。
「液道さん、ちょっといいですか」
なめ郎は穏やかな笑顔を浮かべたまま振り返った。
「ああ、粘田さん。どうされましたか?」
粘田は資料室のドアを閉め、静かに言った。
「あなたは一体何者なんですか?部長と何か関係があるようですけど」
なめ郎の表情が変わらない。相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、彼は棚の本を整理し続けた。
「人は約60%が水分で構成されています。面白いですね」
「またその話ですか。質問をはぐらかさないでください」
粘田の声が少し強くなった。なめ郎はようやく本から手を離し、粘田をじっと見つめた。その目が一瞬、青く光る。
「あなたも…変わりましたね」なめ郎の声が水の流れるように響いた。「かつてのスライムの気配が薄れています」
「え?」粘田は息を呑んだ。「どうして僕がスライムだったことを…」
なめ郎はくすりと笑い、胸元に手を当てた。シャツの下から、何かが青く光り始める。
「長い間、探していたんですよ」
なめ郎がシャツのボタンを外すと、彼の胸には古びた魔石が埋め込まれていた。それは鈍い青い光を放ち、部屋中に異質な空気を満たし始める。
「これは…」
「古代の魔石です」なめ郎の声が変わった。より深く、より古い響きを帯びている。「かつて間苧谷が封印した力の源です」
魔石の光が強まるにつれ、資料室の空気が重くなっていく。壁から水滴が滲み出し、床に小さな水たまりができ始めた。
「あなたの目的は何なんですか?」粘田は後ずさりながら尋ねた。
「間苧谷との再会」なめ郎は静かに答えた。「そして、かつての混沌を取り戻すこと」
「混沌?」
「この世界は…あまりに整然としすぎています」なめ郎の目が完全に青く変わった。「魔王も勇者も、ゴブリンもスライムも、みんな『会社』という檻の中で飼いならされている」
魔石からの光が部屋中を満たし、水滴は床を覆い尽くすほどになっていた。粘田の足元も水に浸かり始める。
「待ってください!僕は別に飼いならされてなんか…」
「本当にそうですか?」なめ郎の声が粘田の心に直接響く。「あなたは自由だと思っていますか?」
粘田は答えられなかった。確かに毎日の仕事、上司の命令、締め切りに追われる日々…。それは異世界でスライムとして生きていた頃より、ある意味で不自由かもしれない。
「私はただ、真の姿を取り戻させたいだけなのです」
なめ郎の体が徐々に溶け始め、人型を保ちながらも半透明の水のような姿になっていく。
「やめてください!」粘田は叫んだ。「このままだと会社が…」
その時、資料室のドアが勢いよく開いた。
「何をしているの!?」
勇田花子が立っていた。彼女は一瞬で状況を把握し、なめ郎に向かって駆け出した。しかし、床の水で滑り、大量のコピー用紙が積まれた棚にぶつかってしまう。
「きゃっ!」
コピー用紙が空中に舞い上がり、魔石の光を反射して無数の青い光の粒となって部屋中を舞った。
「花子さん、大丈夫ですか?」
「ごめん…またやっちゃった」花子は照れ笑いを浮かべながら立ち上がった。「でも、これは…」
彼女は水化しつつあるなめ郎を見て表情を引き締めた。
「水の精霊…いや、水魔族ね?」
「さすが元勇者」なめ郎は水の体を揺らしながら答えた。「正解です」
「何が目的なの?」花子は警戒しながら尋ねた。
「混沌の復活です」なめ郎の声が部屋中に響く。「間苧谷が封印した世界の境界を再び開くのです」
「それは許せないわ!」
花子が叫ぶと同時に、彼女の右手が淡く光り始めた。まるで剣を持っているかのように構える。
「勇者の力が残っているとは…」なめ郎は感心したように言った。「しかし、今のあなたでは…」
その時、粘田のポケットにあった小瓶「境界の雫」が突然、熱を持ち始めた。同時に、なめ郎から与えられた水晶も輝きだす。
「な、何だこれ…」
二つのアイテムが共鳴し、部屋中の水と光の乱舞がさらに激しくなる。資料棚が倒れ、書類が舞い上がり、まるでシュールなバトルフィールドと化した資料室。
「粘田くん、その瓶!」花子が叫んだ。「それは境界の雫じゃない!?」
「え?知ってるんですか?」
「異世界では貴重なアイテムだったわ。世界の境界を越える時に使うものよ」
なめ郎の表情が変わった。「それを持っていたとは…」
その時、資料室のドアが再び開き、間苧谷部長が現れた。彼の目は怒りに燃えていた。
「液道…やはりお前だったか」
「間苧谷様、お久しぶりです」なめ郎は水の体を揺らしながら皮肉っぽく言った。「魔王としての力は衰えていませんか?」
「黙れ!」間苧谷の声が轟いた。「お前を再び封印してやる!」
間苧谷が手を掲げると、部屋の温度が一気に上昇した。水が蒸発し始める。
「無駄です」なめ郎は冷静に言った。「今度は準備ができています」
魔石の光が最大限に強まり、資料室全体が青い光に包まれた。粘田は思わず目を閉じる。
「粘田くん!」花子の声が聞こえる。「その瓶と水晶を!」
粘田は迷わず、小瓶と水晶を取り出し、前に掲げた。二つのアイテムが共鳴し、強烈な光を放つ。
「なっ…!」なめ郎の声に驚きが混じる。
光が収束し、部屋中の水が一点に集まり始めた。なめ郎の水の体が引き寄せられていく。
「これは…予想外でした」なめ郎は静かに言った。「しかし、これで終わりではありません」
彼の体が完全に小瓶に吸い込まれていく。最後の瞬間、なめ郎は粘田に向かって言った。
「あなたの中のスライムは、まだ目覚めていない…いずれ真の力を知ることになるでしょう」
そして、彼は完全に小瓶の中に吸い込まれた。魔石だけが床に残る。
部屋に静寂が戻った。
「な…何が起きたんですか?」粘田は震える手で小瓶を握りしめていた。
間苧谷部長が深いため息をついた。
「液道…いや、水魔族のアクアリウスは、かつて私が異世界で封印した存在だ」
「でも、どうして会社に?」
「おそらく私を追ってきたのだろう」間苧谷は床に落ちた魔石を拾い上げた。「そして、世界の境界を開こうとしていた」
花子が近づいてきた。「部長、境界が開くとどうなるんですか?」
「両世界が融合し、混沌が生まれる」間苧谷の表情は暗かった。「異世界の魔物が現れ、現代の技術が異世界に流れ込む…誰にも制御できない事態になる」
粘田は小瓶を見つめた。中では青い液体が渦を巻いている。
「でも、僕たちはもう異世界の存在じゃないんですよね?どうして…」
「そうとも言い切れない」間苧谷は静かに言った。「我々の中には、まだ異世界の本質が眠っている」
粘田は自分の手を見た。確かに時々、スライムのように壁に張り付いてしまうことがある。完全に人間になりきれていないのかもしれない。
「粘田くん」花子が優しく声をかけた。「あなたは特別かもしれないわ」
「え?」
「境界の雫と水晶が反応したのはなぜだと思う?」花子は真剣な表情で言った。「あなたには、世界の境界を操る力があるのかもしれない」
間苧谷も頷いた。「スライムは形を変える生き物。境界を越えるのに適しているのかもしれんな」
粘田は混乱していた。自分がそんな特別な存在だとは思えない。ただの平凡なサラリーマンのはずなのに…。
「とりあえず、今日はここまでだ」間苧谷は疲れた様子で言った。「この資料室の片付けは明日にしよう」
「は、はい…」
三人は散らかった資料室を後にした。粘田は小瓶を大事にポケットにしまった。中のアクアリウスは静かになっていたが、確かにまだ存在を感じる。
オフィスを出る時、粘田はふと立ち止まった。窓の外、夜空に奇妙な青い光が見える。
「あれは…」
「気にするな」間苧谷が言った。「今夜は満月だ。光の屈折現象だろう」
しかし粘田には、それが単なる月光とは思えなかった。まるで異世界からの信号のようだった。
帰り道、粘田はなめ郎の最後の言葉を思い出していた。
「真の力を知ることになる…か」
彼はポケットの小瓶に手を当てた。中の液体が微かに脈打っているのを感じる。
これからどうなるのだろう。平凡な日常は、もう戻ってこないのかもしれない。
しかし不思議と、粘田は恐怖よりも好奇心を感じていた。自分の中に眠るスライムの力とは何なのか。
明日もまた、非日常が待っている。粘田透の新たな冒険は、まだ始まったばかりだった。