異能の予兆
朝の通勤電車の中、粘田透は半分眠りながら揺られていた。昨晩、小振田と「異界カフェ」から帰った後も、魔王の儀式のことが頭から離れず、結局ろくに眠れなかったのだ。
ポケットには昨夜もらった銀色の液体「境界の雫」が入っている。その小瓶の存在が、妙に重く感じられた。
「はぁ…今日も頑張るか」
オフィスビルに到着し、エレベーターに乗り込む。会社のフロアに着くと、いつもとは少し違う空気を感じた。
受付に立っていたのは見知らぬ若い男性だった。彼は穏やかな表情で、しかし妙に虚ろな目をしていた。
「おはようございます」
男性はぺこりと頭を下げた。名札には「液道なめ郎」と書かれている。
「あ、おはようございます」
粘田が挨拶を返すと、なめ郎は突然、にこやかに笑いながら言った。
「人間の体は約60%が水分で構成され、血液の93%、脳の75%、筋肉の76%が水です。素晴らしいですね」
「え?」
粘田が困惑していると、なめ郎は続けた。
「肝臓の70%、皮膚の64%、骨の22%も水分です。人間は本質的に液体生命体と言えるでしょう」
その場に凍りついた粘田。何と返せばいいのか分からない。
「あの…新人さん?」
「はい、本日からアルバイトでお世話になります液道なめ郎です。よろしくお願いします」
なめ郎はまた深々と頭を下げた。その動きがどこか不自然で、首の角度が人間離れしていた。
「そ、そうですか。頑張ってくださいね」
急いでその場を離れようとした粘田だったが、なめ郎が呼び止めた。
「粘田さん」
振り返ると、なめ郎の目が一瞬、青く光ったような気がした。
「どうして…僕の名前を?」
「社員名簿を暗記しました」なめ郎は笑顔で答えた。「粘田透さん、29歳、血液型O型、身長175cm、体重68kg、体内水分量は約40.8リットルです」
「体内水分量まで知らないよ!」
思わず声を上げてしまった粘田。周囲の社員たちが不思議そうに振り返る。
「失礼しました」なめ郎は謝りながらも、にこにこと笑っている。「では、良い一日を。液体と共に」
背筋が凍るような違和感を感じながら、粘田は自分のデスクへと向かった。
「おはよう、粘田くん」
勇田花子が元気よく声をかけてきた。今日も彼女はキリッとしたスーツ姿で、まるで戦闘準備が整ったかのようだ。
「花子さん、おはようございます」
「どうしたの?顔色悪いわよ」
「あの…受付に新しいバイトの人がいるんですけど、ちょっと変わった人で…」
花子は首を傾げた。「ああ、液道くんね。確かに少し変わってるけど、悪い子じゃないわよ」
「でも、いきなり体内水分量の話をされて…」
「あら、それは初めて聞いたわ」花子は少し驚いた表情を見せた。「でも、異世界にもいろんな種族がいたから、気にしなくていいんじゃない?」
「え?花子さんも気づいてるんですか?あの人が異世界の…」
花子は人差し指を唇に当てて「しーっ」と粘田を制した。
「職場では大きな声で言わないの。でも、あの子はどこか違和感があるわね。私の勇者センサーが反応するわ」
勇者センサーなんてものがあるのか、と突っ込みたい気持ちを抑え、粘田は小声で尋ねた。
「何者だと思います?」
「さあ?」花子は肩をすくめた。「でも、危険な気配はないわ。むしろ…どこか懐かしい感じ」
その時、部長室のドアが勢いよく開いた。間苧谷京一部長が現れる。彼の顔には焦りの色が見えた。
「誰だ!?新しいエネルギーを感じるぞ!」
部長の声に、フロア全体が静まり返る。間苧谷は鋭い目つきで辺りを見回した。
「部長、おはようございます」花子が平静を装って挨拶した。「新しいバイトの液道くんのことですか?」
「液道?」間苧谷の眉が吊り上がった。「どこだ?」
「受付にいますよ」
間苧谷は大股で受付へと向かった。粘田と花子は顔を見合わせ、こっそりと後をついていく。
受付では、なめ郎が相変わらず穏やかな笑顔で立っていた。間苧谷との対面の瞬間、空気が張り詰めた。
「お前…」間苧谷の声が低く響く。「何者だ?」
なめ郎はにっこりと笑った。「液道なめ郎と申します。本日からアルバイトでお世話になります」
「違う、お前の正体だ!」
間苧谷の声に、なめ郎の表情がわずかに変化した。彼の目が再び青く光る。
「間苧谷様、お久しぶりです」なめ郎の声が少し変わった。「ついに再会できましたね」
「お前は…まさか…」
間苧谷の顔が青ざめる。彼は一歩後ずさった。
「そう、私です」なめ郎は静かに言った。「かつてあなたが封印した者です」
オフィス全体に奇妙な緊張感が走る。粘田は思わずポケットの小瓶を握りしめた。
「何の用だ?」間苧谷の声が震えている。「復讐か?」
なめ郎はくすりと笑った。「いいえ、ただの再会です。そして…警告です」
「警告?」
「転移魔法の兆候が見られます」なめ郎は淡々と言った。「この世界に、新たな扉が開こうとしています」
間苧谷の表情が硬くなる。「馬鹿な…そんなはずは…」
「信じるか信じないかはあなた次第です」なめ郎は再び普通の笑顔に戻った。「では、お仕事頑張ってください」
そう言うと、なめ郎は間苧谷に背を向け、受付の仕事に戻った。まるで何事もなかったかのように。
間苧谷は動揺した様子で自分の部屋へと戻っていった。その背中は、いつもの威厳ある魔王の姿ではなく、何かに怯える人間のようだった。
「なんだったの、今の…」花子がつぶやいた。
粘田も言葉を失っていた。なめ郎の正体、転移魔法、そして間苧谷部長の動揺。すべてが謎に包まれている。
デスクに戻ると、小振田がコンビニの制服姿で現れた。彼は今日も夜勤明けのようだ。
「おはようございます、粘田さん」
「小振田くん、おはよう」
小振田は周囲を見回し、小声で尋ねた。「例の瓶は持ってきましたか?」
「ああ、持ってきたよ」
「それは良かった」小振田はほっとした表情を見せた。「でも、今日はちょっと状況が変わったかもしれません」
「何?どういうこと?」
小振田は受付の方を見た。「あの新しいバイトの人…何か感じませんか?」
「うん、とても奇妙な人だよ。部長もすごく動揺してた」
「彼は…」小振田は言葉を選ぶように慎重に話した。「水の精霊のような気がします」
「水の精霊?」
「はい。私たちゴブリンは自然の気配に敏感なんです」小振田は真剣な表情で続けた。「彼からは、強い流水のエネルギーを感じます」
粘田は思わず受付の方を見た。なめ郎は相変わらず穏やかな笑顔で立っている。だが、よく見ると彼の周りの空気がわずかに揺らいでいるような…。
「でも、どうして水の精霊が会社にバイトとして?」
「それが問題なんです」小振田は眉をひそめた。「水の精霊が現れるということは、何か大きな変化が起ころうとしているのかもしれません」
その時、間苧谷部長の部屋から怒号が聞こえた。
「全員集合!緊急会議だ!」
社員たちが慌ただしく会議室へと向かう。粘田も席を立とうとした時、なめ郎が彼の前に立っていた。
「粘田さん」なめ郎の声は水が流れるように滑らかだった。「あなたにお渡しするものがあります」
彼は小さな青い石を差し出した。
「これは?」
「水晶です」なめ郎は微笑んだ。「危険を感じたら、これを握りしめてください。水は常にあなたを守ります」
粘田が石を受け取ると、なめ郎は一礼して立ち去った。石は冷たく、不思議と安心感を与えてくれる。
会議室に向かう粘田の心は混乱していた。魔王の儀式、水の精霊、転移魔法…。平凡なサラリーマンだった日々が、急速に遠ざかっていく。
ポケットの小瓶と手の中の水晶。どちらも冷たく、しかし確かな存在感があった。
平穏だった職場が、今日も少しずつ異世界に染まっていく。粘田透の新たな一日が、始まったばかりだった。